これは魔神の記憶だ。
先ほどまで見えていた切り離された欠片の記憶が、ミシェルの記憶を混濁させる。
どっちが本当の記憶なのか?
「ドラゴンテイル!」
美闘士の叫びと共に、自分は再び魔神から斬り飛ばされた。
(ぼくは……魔神の欠片……)
地面に落ちると同時に、形が維持できずに崩れ落ちていく。
魔神と切り結ぶ前に美闘士によって、壊滅させられた楽団魔獣らの一部が見えた。
笛だ。
ミシェルは、それにしがみつくように、身体を延ばす。
魔神の欠片としての記憶はそこで途切れた。
再び闇がミシェルの意識を覆いつくしていく。
「ミシェル! しっかりしなさい!」
強い声が虚空をさまようミシェルの意識を呼び覚ます。
(エリナ……様……)
*
「記憶が戻ったのね?」
ミシェルは無言のまま頷いた。
「私のことは覚えてる?」
「は、はい……エリナ様……覚えています」
ミシェルの瞳がエリナの姿を映す。
ようやく意識が戻ってきたようだ。
「あんたがやばいやつの一部とか何とかって何よ」
エリナは面と向かって問いただした。
メローナが言いかけていたことと符合するのなら聞いておかなければならないことだ。
「すべてを……お話します……」
「長い話になりそうね」
エリナは腰をかがめ、ミシェルと目線を合わせた。
「話しなさい。聞いてあげるわ」
「はい……」
ミシェルは自分の身の上を語り始めた。
クイーンズレイド成立の原因となった過去の大戦。
その末期に召喚された魔神『世界を滅ぼす者』をマラマクスに封印するべく、天使たちは魔神の魔力を分割した。
分割された魔力は、マラマクスに封印されることなく、魔神の欠片と呼ばれる分体となり現界において活動を開始した。
分体たちは本能的に魔神への同化願望があり、マラマクスを目指す。
彼らの魔力は強大であり、それに立ち向かう様々な冒険譚や、ロマンスの敵役として多くの物語を生み出す原因ともなった。
「その後も歴代の女王が魔神と対峙した際に、魔神の魔力が削られるたびに、分体は生み出されていたんです。ボクも、その一つ……なんです」
「ミシェルがマラマクスから追い出されたのは、つい最近、てわけね」
「はい。この笛も、ボクと同じ時期にマラマクスから追われた魔物の一部をボクが受け継いだものなんです」
「で、魔神だからどうなのよ?」
「この門の向こう側にマラマクスがあります」
「そんなことはわかってるわよ」
「門を開き魔神の元に戻るために、美闘士が必要なんです。それもただの美闘士では駄目です。魔神と戦えるほどの力をもった美闘士でないと」
「それが私ってわけ?」
「はい」
「光栄なものね。初代女王と互角と評価されたと思っていいのかしら?」
エリナは不敵な笑みを浮かべた。
「でも……」
ミシェルの瞳に映るエリナの姿が不意ににじむ。
「何を泣いているの?」
「ボクは、酷いことをしようとしていたんです」
「何よ? ひょっとして、門を開けるために私が必要だってことが、酷いことってことなのかしら?」
エリナは首を傾げた。
必要とされることに悪い意味合いは感じない。
そもそも、レイナが居るマラマクスへ行くには門を開けるしかないのだ。
「必要の意味が……エリナ様の命が必要なんです!」
思いつめた表情でミシェルは声を上げた。
「記憶を失って……本能だけの思いつきとはいえ、ボクはエリナ様を自分の目的のために殺すつもりで連れてきてしまった……」
「ミシェル……」
エリナは目を細めると、やや怒気のこもった声でつぶやいた。
「身勝手もいい加減になさい」
人差し指で涙を流すミシェルの額をかるく小突く。
「門を開くのに、私の命が必要? はぁん、ふざんけじゃないわよってやつよ」
ミシェルは目を丸くして、エリナの言葉を待った。
「ねえ、ミシェルはあたしを殺したい?」
「嫌です!」
即答したミシェルに向けエリナは微笑みで答えた。
「わかってるわよ、あんたの意思じゃないことくらい。その魔神とやらの本能かなんかに導かれていたんでしょう」
「エ、エリナ様、ボ、ボクを殺してください。魔神の分体であるボクが死ねば、マラマクスにいる本体も弱体化するはずです。それでこの門も開くかもしれません」
ミシェルの言葉にエリナが眉をしかめる。
「はあ? なんであたしがミシェルを殺さないといけないのよ? そもそも! 天界が魔神を封印するときに手を抜いたのが原因じゃないの! 魔神を分割した上に後始末もしないから、こういうことになるのよ」
エリナは天界に対する怒りを隠さなかった。
「向こう側にいる魔神は悪! ここにいるミシェルは悪じゃないでしょ? ミシェルは人を殺したことはない、積極的に害しようとしたこともないじゃない」
マラマクスの門とミシェルを交互に指さしながら、エリナは大げさに身体を動かした。
怒りが湧き上がってくる。
これは、天界に対する怒りだ。
ミシェルの言葉を信じるなら、マラマクスは理想郷などではない。
魔神を封印するための戦いが続く修羅の世界だ。
そんな世界に、愛しい姉を送り込んだということだけで、天使たちは万死に値する。
「門は開けてみせるわ。でも、それは私やミシェルが犠牲にならない方法にしないと意味がないのよ。誰かに無為な犠牲を強いることをあたしやお姉さまは絶対に認めないわ」
「エリナ様……」
決意のこもった眼差しをミシェルに向け、エリナはすっと立ち上がった。
視線を向けるのはマラマクスの門の頂上、遥かに広がる青い空の向こう側だ。
「誰が真の支配者なのか、教えてやるわ!」
この世界を支配するのは天界でも魔界でもない。
この大地に生きる自分たち人間だ。
エリナは拳を固く握り、大きく突き上げて叫んだ。
「こらぁ、ナナエル! でてらっしゃぁーーーー一い!」
山頂の上空を覆う雲が裂け、光が差し込む。
天使の階段と呼ばれる気象現象の中、ナナエルがゆっくりと光の中を降りてくる。
「さーてさて、ナナエル様のご登場でございますよぉ!」
ナナエルは声を大きく響かせながら周囲を見渡し、小首を傾げた。
「あるぇ?」
彼女の眼下、マラマクスへの門が安置された頂きにいるのはエリナとミシェルだけだ。
他の美闘士の姿はない。
「戦う相手もいないのに、ナナエル様を呼び出したわけかしら? ひょっとして」
ナナエルが半目をエリナに向ける。
「そうよ!」
エリナが怒りを込めた眼差しでナナエルを睨みつける。
「帰るわ。なんか頭に血が上ってるみたいだし」
「帰しはしないわよ」
くるりと向きを変えて上昇しようとするナナエルに向けエリナは言い放った。
「絶影の追跡者エリナ! 審判の天使ナナエルにクイーンズブレイドを申し込むわ!」
「はいぃ?」
目を丸くするナナエルに向け、エリナは言葉を続けた。
「天使様ともあろうものが、人間の挑戦を応じもせずに逃げるなんてことはないわよね」
「本気?」
ナナエルが口元をゆがめて、ゆっくりと静かに振り向く。
「本気よ!」
対するエリナは自信たっぷりに微笑みながら、頭上を見上げる。
「エ、エリナ様……」
「ミシェルが下がってなさい。支配者の振る舞いを見せてあげるわ」
無茶だ。
ミシェルがそう思うのも無理はない。
人間が天使に勝てる可能性はほぼ皆無。
勝ったという記録すら残っていない。
「ひょっとして……僕のせい……」
「うぬぼれないの」
ミシェルの囁きをエリナは一喝した。
「これは支配者の矜持よ。現界を支配するのは天使じゃない。私たち人間だってことを思い知らせてやるわ」
全身から怒りにみなぎる闘気を溢れさせるエリナの姿に、ミシェルは言われるまま引き下がるしかなかった。
*
メローナとアイリは、天使の梯子と呼ばれる光の中をナナエルが降下してくるのを見た。
「あれは……」
ナナエルの降臨が何を意味するのか。
それを知らぬ二人ではない。
「私たちで争っている場合ではないようですわね」
「そだね」
双方同時に鉾を収めるや、二人はそれぞれが最速と思う方法で走り出した。
不定形の魔物と死霊、人間のように普通に走る必要はないのだ。
*
「審判の天使ナナエル! 貴女の挑戦を受けてあげるわ!」
ナナエルの宣言と共に、お互いの正面に浮かび上がった紋章が光を散らしながら激突する。正式なクイーンズブレイドの始まりだ。
「勝負にならないことを思い知らせてあげる! 行け! 我が聖剣!」
ナナエルの命を受け、彼女の手を離れた聖剣が空中を舞う。
天使たちが地上に降りて戦うことはほとんどない。
彼女たちは聖剣を飛翔させ、相手の攻撃が届かない位置から攻撃することを好む傾向がある。
「ふざけんじゃないわよ」
エリナは舌打ちし、自分めがけてまっすぐに飛んできた聖剣を長槍ではたき落とした。
「な?」
「何を驚いてんの?」
エリナは地面に落ちた聖剣を踏みつけ、地に押し込みながらナナエルを見上げた。
「バカみたいに正面から飛んでくる。スピードはハエより遅い。これならまだイルマの投げナイフの方が手ごわいわ。人間なめるのもいい加減にしなさい!」
ナナエルの顔が赤く染まる。
戦いの日々で日夜技を磨く地上の美闘士たちと剣の訓練などろくにやってこなかったのは事実だ。
「降りてこないなら、こっちから行くわよ」
マラマクスの門を足掛かりに、エリナは空中へと飛び上がった。
「ええ? ただの人間風情が、飛べるわけないでしょッ!」
予想外のエリナの行動にナナエルが目を丸くする。
だが、どんなに高く跳んだとしても、所詮は翼をもたないただの人間、自分がいる高さにまで到達することはない。
そう判断したとしても、なんの不思議もない。
だから、ナナエルは驚きながらも、取り立てて行動する気は起きなかった。
跳躍が最高点に達する寸前、エリナは長槍の鋼線を射出した。
狙いはナナエルが腰から下げた聖乳の瓶だ。
彼女が怠惰を決め込まず、少しでも動いていたならエリナの目論見は失敗していたことだろう。
エリナの長槍に仕組まれた鋼線の射程は把握している。
限界まで伸ばして届くかどうか。
さらに、ナナエルには地の利がある。
山頂周辺は複雑な気流が渦を巻いているため、たとえ強弓であってもまっすぐに飛ばすことすら難しい。
まして抵抗の大きい鋼線が、自分の元にまで届くはずはない。
この判断こそ、エリナの言う天使の怠惰そのものだったのだ。
万が一の可能性を考慮しない。
優れた能力を持つものにありがちな傲慢さの発露といえよう。
「無駄なあがきを」
あざ笑うナナエルの腰元で、聖乳をいれた瓶にヒビが入る。
「なん……ですってぇ?」
瓶が砕け散り、聖乳が彼女の下半身を白く汚す。
「あたしの勝ちね!」
降り注ぐ聖乳を浴びながら、エリナが落下していく。
その表情に恐怖はない。
勝利を得た喜びに満ち溢れていた。
*
「エリナ様ぁ!」
落下していくエリナの姿にミシェルは絶叫を上げた。
ここは山の頂だ。
着地点がわずかでもずれれば、滑落して死亡することになるのは間違いない。
まして、かなりの高さまで跳躍したエリナは今も風に流されているのだ。
「ったく、無茶するんだから」
可能な限りまで身体を長く伸ばしたメローナがロープのような姿となって、エリナに向かって進んでいく。
「本当に、気が休まりませんわ!」
召喚した低級霊を足場に、アイリがエリナの着地点を作り上げる。
「二人とも! 間に合ってくれたんだね」
「間に合わせますわ! 絶対に!」
「友達だからね!」
メローナが、エリナの身体を確保し引き寄せる。
「ふふ、勝ったわよ!」
メローナに抱きかかえられたエリナがナナエルに向けて不敵な笑みを浮かべる。
「それはいいんだけど、勝った後の事、考えてた?」
メローナの問いにエリナは口元を緩めた。
「アンタたちがいるから、かな」
アイリとメローナが落下する自分を放っておくはずはない。エリナはそう信じていた自分に少し驚いていた。
「やれやれだよ」
メローナとエリナを、アイリが召喚した低級霊が優しく受け止める。
「もう、勘弁してくださいよ。エリナ様ぁ」
アイリは心臓に悪いとでもいうように胸に手をあてて抗議する。
もっとも死霊に心臓はないのだが。
「二人ともご苦労さま」
駆け付けたメローナとアイリに礼を言い、エリナは上空で頭を抱えているナナエルへと視線を向けた。
「あたしの願いは一つ! この門を開けなさい。早く! 天使のあんたなら開けられるんでしょ!」
ナナエルはゆっくりと門の前へと降りると、大きなため息を吐いた。
「なんてことかしらねぇ、このナナエル様が負けるなんて」
「信じられないかもしれないけど、貴女の負けは現実よ。その聖乳まみれの下半身が確かな証拠」
「うわぁ……おもらししたみたいだねぇ」
「ミシェルさまは見ちゃダメですよ」
三人から投げられた言葉と視線にナナエルは羞恥で顔を赤くする。
「ほら、はやく開けなさい。それとも審判の天使ともあろう存在が、クイーンズブレイドの根幹でもある願いを無視するのかしら?」
エリナは挑発的に畳みかけた。
「開けるわよ。開ければいいんでしょ!」
半ば涙を浮かべながら、ナナエルはマラマクスの門を叩いた。
ゴーンと低く重たい音が響き、石扉が開いていく。
その向こうに見えるのは、まばゆい光に包まれた世界だ。
「言っておくけど、向こうで何があっても、ナナエルさんは責任もたないからね!」
唇を尖らせ、ナナエルは四人を睨みつけた。
「自己責任ってやつね」
ナナエルに向けて言うとエリナは、ミシェルの手を取った。
「どう? 誰一人犠牲にしないで門を開けてみせたわよ」
「エリナ様……」
「これこそが支配者の務めってやつよ」
無茶な条件を強引に切り開いたエリナの行動力に、ミシェルは言葉を失った。
「微笑みなさい。それがあなたにできる私への報酬よ」
エリナの言葉にミシェルは笑顔を浮かべた。
「たとえこの先であなたが魔神と同化しようとも、私はこの門をくぐることを躊躇はしないわ。この先にお姉さまがいるのだから」
エリナは門へ向けて一歩を踏み出した。
「ぼ、ぼくも行きます。ぼくが魔神の一部になってしまったら、迷わず切り捨ててください」
勇気を振り絞ってミシェルは、エリナの後に続く。
「お、お待ちください!」
「あーもう、せっかちなんだから」
アイリとメローナも後に続いて、マラマクスの門をくぐる。
四人を光の中へと飲み込むと、石扉はゆっくりと閉じていった。
まるで、何事もなかったかのような静寂が辺りを包む。
ただ一人、頭を抱えるナナエルを除いて。
「う~、ナナエルさんマジやばいですよ。……もうこの手しかないかもなぁ」
出来れば取りたくない最悪の手段を選ばざる得ない己の不幸をナナエルは嘆いた。
Episode 9 終わり
クイーンズブレイドの真実。それは女王となった者が封印された魔神の力を削ぐための戦いに挑む役割が担われることであった。封印の地に入ることができない現女王アルドラに替わり、マラマクスで現在戦いを繰り広げているのがレイナであった。一方レイナを探すエリナ一行も長い旅の末、その地に近づきつつあった。
沼地の魔女の館。
周囲を衝立で隠された中庭で、今にも朽ちて存在が占い札を広げていた。
「ふむ……」
読み取るのが難しいのか、悩ましい声が漏れる。
「世界が大きく揺らぐ……求めるものを手に入れる……隠されたものが暴かれ……真実が目を覚ます……」
意味不明な言葉の羅列に興味を惹かれ、魔女の足元で水たまりのように広がっていたメローナはゆっくりと起き上がった。
「占いの結果なの? それ?」
「ふむ……」
メローナの問いかけに魔女は深いため息を吐いた。
「笛が持ち主の元に戻ろうとしている……のか?」
「決定打に欠ける言葉だねぇ」
もっとも魔女が断定できるような決断を下したことはないのだが。
「メローナ、汝に仕事を頼みたい」
「メナスは?」
「あれには……別の仕事が……ある」
沼地の魔女が占い札を広げ直し、そこから当たらなる天啓を読み取ろうとする。
「蘇る秘密……生贄の姫……友の喪失……」
「なんかヤバそうなのが出たねぇ」
メローナはゆっくりと自分の形を整えると、占い札を覗き込んだ。
「このままでは、汝の友達とやらに災いが訪れることになる」
「エリナに?」
返事の代わりとでも言うように沼地の魔女は、占い札をめくった。
「女王の札……逆位置……道化師の札……正位置……正確には読めぬ……天界の介入によるものか、持って生まれた運勢の加護か……」
「もういいよ。どうせ正しい話は出てこないんだろうし」
メローナは不躾にも魔女の言葉を遮った。
このような行為が許されるのは、彼女が直轄の配下だからだ。
「んで、仕事ってなにさ」
「それは……」
魔女の言葉にメローナは喉を鳴らした。
「急がないとやばいね」
「疾くと駆けよ。運命が動き出す前に……」
雲の上に突き出た岩山をエリナたち一行は進んでいた。
すでに森林限界を超えたのか周囲には木立ちすらなく、ところどころには溶け切っていない雪の名残りすら見受けられる。
断崖絶壁の岩肌を削って作られた道ということすら難しい歩幅しかない側道。
少しでも体勢を崩して踏み外せば崖下に真っ逆さまだ。
この道を作り上げた職人や、ここを歩いた先人が居るということが驚きでしかない。
「大丈夫ですか? エリナ様」
アイリが声をかけてくる。
「誰に言っているのかしら? これぐらいどうってことはないわよ」
エリナは岩壁に手をつきながら答えた。
恐れはない。
ついに目指す場所が目に見える位置にまで来たのだ。
マラマクスの門。
一つ向こうの尾根の上、雲海の向こう側に石造りの門が見えている。
夢や幻ではない現実の景色だ。
後は側道に沿って進むだけ。
「とはいえ、もうじき日が暮れるわね」
休息を取れそうな広さの岩棚を見つけ、エリナは歩を止めた。
高山であるがゆえに、日没は平地よりも遅いのだが、夜になれば凍てつくような寒さになることは間違いない。
今のうちに焚火を起こし暖を取れるようにしておく必要があるのだ。
理性的な判断では、こうするのが正しいことはわかっている。
出来ることなら、夜を徹してでもあの門へとたどり着きたいところだが、それを選ぶことは出来ない。
同行者と従者たちの安全を考えるのも支配者としての務めだ。
被支配者たる領民の安全と平穏を守ることと引き換えに、彼らは無限の忠誠心を示してくれるのだから。
「今日はここまでにしましょうか」
エリナはここで夜を明かす決断を下した。
岩棚には、先に進んだ者たちが使ったであろう焚火の後がある。
使用者がいるということは、この場所が安全だという証だ。
「はい、エリナ様。心得ました」
三人分の荷物を背負い後を付いてきたアイリが荷物を下ろし、休息の準備を始める。
「て、手伝います!」
見るからに大変そうなので、ミシェルはアイリの傍らへと向かった。
これからアイリが行うべき作業は、火起こしに始まり、夕食の支度、天幕の設営、寝台の準備と多岐にわたる。
決して一人で行える作業ではない。
「大丈夫ですよ。ミシェル様はエリナ様のお側にいてください」
アイリはやんわりと断り、作業に没頭する。
心遣いはうれしいが、自分の仕事を誰かに委ねるつもりはないようだ。
「でも、一人じゃ……」
言いかけてミシェルは言葉を止めた。
アイリは一人ではない。
召喚された低級霊たちが荷物を運んでいるのが見える。
人里離れたこの地なら、ためらうことなく低級霊を使役できるのだ。
「お判りいただけたようで幸いでございますわ」
ミシェルの態度に、アイリは微笑みを返し、低級霊たちに指示を出す。
あっという間に天幕が広がり、その中では寝台が整えられていく。
「家付きの精霊ほどではありませんが、低級霊たちでも訓練しだいではこれぐらいのことはできるのですよ」
「すごいや……」
「さすがに街では他人の目がありますから控えていましたけれど、ここでなら問題はありませんものね」
仕事を終えた低級霊たちがアイリのメイド服の中へと潜り込むようにして消えていく。
彼女の柔肌に触れるのが、低級霊たちにとってせめてもの褒美といったところか。
「ひゃっ!」
たまにアイリが声を上げ、身体をくねらせるのは、低級霊たちのちょっとした悪戯なのだろう。
ミシェルはそちらを見ないようにして、岩棚の際でマラマクスの門を見つめているエリナの側へと向かった。
「アイリの方はいいの?」
「手は足りてるみたいです」
エリナの傍らに立ち、彼女が見つめている方向へと目を向ける。
マラマクスの門が夕日を浴びて輝いているのが見えた。
神々しさすら感じる景色だ。
旅の目的地が目で見える位置にまで来た。
そう思うミシェルの胸に熱いものがこみあげてくる。
「ようやく、ここまで来たわね」
「はい」
「もう急ぐ必要はないわ。あの門は動かないもの」
尾根伝いに続く道、足を滑らせたりしない限り、あと半日もあれば到着する距離だ。
「明日の昼前には着きそうね」
「門にたどり着いたら、ミシェルはどうするの?」
「どうするって……」
あらためて問われ、ミシェルは困惑した。
そもそも、なぜ美闘士とマラマクスを目指すのか。
理由がまったく思い出せないのだ。
「わかりません……」
「着けば思い出すのかもね」
困っているミシェルの頭を優しく撫で、エリナは視線をマラマクスの門から、アイリの方へと向けた。
門がある尾根はここよりも標高が低いのか、神々しい輝きは消え失せ、すでに夜の帳の中へと消えている。
ここも間もなく、夕暮れが終わりを告げることになる。
その前に休息を取ろう。
エリナの考えを読んだかのように、紅茶の香りが漂ってくる。
「お茶の時間でございますわ。エリナ様」
「上出来ね。アイリ」
「お褒めにあずかり恐悦にございますわ」
芝居がかった仕草で、ティーカップにお茶を注ぐアイリの姿に、エリナは思わず微笑を浮かべた。
アイリが用意したティーセットは、貴族が使うのにふさわしい優美な一品だ。
「市井の宿屋よりも、アイリのお茶の方が上品なのは本当の事よ」
立て続けに褒められ照れたのか、アイリは頬を赤く染めた。
目的地が近いこともありエリナは上機嫌だ。
普段では決してこんなにもアイリを褒めることはない。
「夕食は何を用意してくれているのかしら?」
「シチューを準備しています」
「あら、いいわね。身体が温まりそう」
再召喚されたことで料理の技術が上がったのか、それとも披露する機会がなかっただけなのかはわからないが、アイリの作ったシチューは絶品といっても良い代物だった。
夜中にミシェルはふと目を覚ました。
同じ天幕の中で寝ていたはずのエリナの姿がない。
そっと天幕から顔を出して周囲を見渡す。
毛布に包まれて、焚火の番をしているアイリの姿が見えた。
道は一本しかなく、周囲は崖。
害となるような野生動物も姿が見えないのだから、無理に起きている必要はない。
それでも万が一ということがある。
彼女は自ら周囲の警戒のために寝ずの番に志願したのだ。
私は死霊ですよ。睡眠なんか取らなくったって平気です。
というのがアイリの言い分なのだが……。
ミシェルは息をひそめて彼女の側に近づいてみた。
微かな寝息が聞こえる。
死霊とはいえ、肉体を持った存在である以上、疲労はするし休息も必要だ。
それでも、アイリに寝ずの番を任せたのは、エリナが言うところの支配者の務めというものなのだろう。
配下が自ら言い出したことを無為に止めるのは、配下のやる気を失わせることになる。
そんなことを以前に言っていたような気がする。
アイリを起こさないように足音を立てないようにして、ミシェルはその場を離れ、エリナの姿を探した。
夜空は月のない満天の星空。
夜明けはまだ先なのか、地平線の際にまで星が輝いているのが見える。
空気が澄み切っている証拠だ。
エリナの姿は岩棚の端にあった。
いつもとは異なり、無防備にも鎧を脱いでいるため、女性らしい身体のラインが後ろからでもはっきりとわかる。
彼女はまっすぐにマラマクスの門がある尾根の方をみつめていた。
「あら、起きちゃったの?」
近づいてきた気配に気づいたのか、エリナは振り向かずに声をかけてきた。
「流石ですね」
「ここには三人しかいないのよ。わからないほうがおかしいわ」
エリナの語尾に微かな笑い声が重なる。
「足音を立てるのは二人しかいないし、一人は私だもの」
「確かに」
死霊であるアイリはよほどのことがない限り、地に足を付けたりはしない。
「こっちにおいで」
そう言ってエリナはミシェルを手招きし、抱き寄せた。
「くっついていたほうが暖かいのよ」
その通りだ。
だが、これは刺激が強すぎる。
やわらかく心地よい女体の感触が布越しに伝わってくる。
普段は意識しない女性としてのエリナの感覚に、自分の身体が反応してくるのをミシェルは感じた。
これは……悟られてはならない。
「ミシェルには、お礼を言わなければならないわね」
「お礼ですか?」
「そうよ。とても栄誉なことなだから光栄に思いなさい。この私は誰かに感謝するなんてことはほとんどないだから」
ぐいと身体を押し付けながら、エリナは微笑んだ。
ミシェルがどのように感じているかなど、お構いなしだ。
「お礼を言わなくちゃいけないのはボクの……」
言いかけたミシェルの唇をエリナの指が抑える。
「ミシェルが私に感謝するのは当然のことよ。いちいち言葉にする必要はないわ」
エリナはきっぱりと言い切った。
「部下に感謝の一つもされないような人物は支配者の資格はないわ。部下たちに命じなくとも彼らが自発的に支配者のために行動するようじゃないとダメね」
「だったら、エリナ様は支配者として、すでに一流です」
「当たり前でしょ」
ふんと荒くなったエリナの息がミシェルの髪を揺らす。
「話を戻すわ。とにかく礼を言わせて」
後ろからぎゅっと抱き寄せながらエリナはつづけた。
鎧に阻まれない柔らかな乳房の感触がミシェルに伝わってくる。
胸の谷間で首筋を挟まれているようなものだ。
「私をここまで連れてきてくれてありがとう。貴方と出会わなければ、体験できなかった冒険ばかりだったわ」
ミシェルは体温を感じながら目を閉じ、これまでのことに思いをはせた。
エリナとの出会い、ヒノモトでの冒険、エキドナの元での出来事、アイリとの再会……大陸を縦横無尽に駆け抜けながら、マラマクスを目指してきた。
「それに、こんな星空も見られたもの」
エリナの言葉につられるようにミシェルは頭上を見上げた。
満点の星空が、エリナの胸越しに広がっている。
「あ……流れ星……」
「意外と見れるものなのね」
「願い事をしなくちゃ」
ミシェルは目を閉じて旅の安全を祈った。
明日にはマラマクスの門に着く。
何事もなければ……。
翌朝、夜明けと共に一行は旅を再開した。
足取りも軽くミシェルが先導し、エリナとアイリが後に続いていく。
迷うはずもない順調な旅路だ。
気が付けば、ミシェルが歌を口ずさんでいるぐらいに快適な気分だ。
「あ、鳥ですよ。めずらしい」
ミシェルの指さす先へ、エリナとアイリは視線を向ける。
雲よりも高いこの位置よりも、さらに高く飛ぶ鳥の姿は実にめずらしい。
「桃色なんて変わった色の鳥ですねぇ」
「朝日を浴びているのかしらね?」
「違います。あれは、鳥ではありません!」
アイリが声を上げ警戒を促す。
鳥かと思われたそれは姿を変えながら、桃色の球体となってエリナとアイリの間に落下し、衝撃を吸収したかのように平たく広がった。
「ふう~、間に合ったぁ!」
ぶにょぶにょと全身を波打たせながら不定形の塊が人の形を作っていく。
「メローナ?」
間違えるはずがない。
アイリが再召喚されるまでの間、共に旅をした間柄だ。
「はぁい、エリナ」
「どうしたのよ、あんた。また一緒に旅をしたくなったとか?」
「その逆だよ、エリナ……とにかく、ここで旅は中止! マラマクスに行っちゃダメだ!」
メローナの言葉に、一行は思わず顔を見合わせた。
「あなた、何を言っておりますの?」
アイリは怪訝な表情を浮かべ、メローナに詰め寄った。
「ボクは知ってしまったんだ……」
「何を知ったかはわかりませんが」
凛々しくも鎌を手にしアイリは、メローナとエリナの間に立ちふさがった。
「お二人の邪魔は許しませんわ。たとえあなたが相手だとしても」
アイリの目配せを受け、ミシェルとエリナは走り出した。
「あ、ちょっと!」
「邪魔はさせないと言ったはずですわ」
追いかけようとするメローナをアイリが阻む。
ほんのわずかなやり取りの間に、二人ははるか先へと進んでしまった。
「うは、足、早いなぁ」
素直な感想がメローナの口から洩れる。
「話を聞いてほしいだけなんだ……急がないと、エリナがやばいんだよ」
「どういうことかしら?」
「ミシェルを止めないとダメなんだ。アイツ、実はかなりヤバい!」
「納得のいく説明ができるんでしょうね? それと、もう少し語彙を増やしなさいな。ヤバいじゃわかりませんことよ」
アイリが眉をしかめる。
ミシェルが危険人物だとはどうしても思えない。
「ああ……もう!」
アイリの妨害にメローナは地団駄を踏んだ。
遠くから見えていたように、頂の上にそれは存在していた。
そびえ立つ石造りの門。
両開きの扉だけの存在。
ぐるりと周囲を回ってみても、扉の裏側には何も存在しない。
本当に扉しかないのだ。
「どうやって開けるのかしらね?」
触れてみても扉は開こうともしない。
まるでつなぎ目などない一枚岩で作られた彫刻のようにも見える。
「ねえ、ミシェル?」
返答がないことにエリナは眉をしかめた。
ミシェルは扉を前に呆然と立ち尽くしていた。
目は見開かれ、その表情は読み取ることが出来ない。
喜びか、悲しみか、判断のつかない顔で、扉を見つめている。
「ミシェル……」
エリナはその表情に見覚えがあった。
心に大きな変化があった時の表情だ。
伯爵家で父と共に接見していると、稀にこういう表情になった人物を見ることがある。
心が折れるほどの衝撃があった時や、今までの価値観が大きく覆された時に人間はこんな表情を浮かべる。
一緒に旅を続けているなかで忘れがちではあったのだが、記憶を失っているミシェルにとって、自身の謎を暴く唯一の手掛かりが、美闘士と共にマラマクスへと行くことだったのだ。
そして今、マラマクスの門を前にして、ミシェルは立ち止まっていた。
後編へ続く
すべての執務が終わるのを待ってレイナは行動を開始した。
エリナの一言が、決意を与えてくれたのだ。
「お父様、お話したいことがございます」
人払いされた謁見の間で、レイナは伯爵の正面に立った。
「クイーンズブレイドのことか?」
レイナは口にするよりも先に、伯爵が告げる。
「お前の胸にあるアミュレットを見て気づいたわ」
そう言って、伯爵は自分の手にしたアミュレットをレイナへと見せた。
「それは……」
レイナがナナエルから授けられたものと同じアミュレットが伯爵の手元にある。
「これは我が一族に伝えられた秘宝」
クイーンズブレイドの勝利者にのみ与えられる証の品だ。
「同じものがお前の胸にもあるな」
「はい」
アミュレットに指を添え、レイナはまっすぐに伯爵へ視線を向けた。
「数年前になるか、お前が初めてクイーンズブレイドに出たいと言ったあの日、我が元にもあの天使は現れたのだ」
初めて聞く話にレイナの目が驚愕に見開かれる。
「天使は何と?」
「お前をクイーンズブレイドに出せと言ってきた。女王を倒せるのはお前だけだとな」
呆れたような口調でつぶやくと伯爵は話をつづけた。
「無論、断った」
「何故ですか? 天使からの要請なれば、それは神託も同じはず」
「我が伯爵家は、初代女王の血筋を引く正統貴族。それがなぜクイーンズブレイドへの参加を禁じて来たか、お前に告げねばなるまい」
「女王の血筋だから……私はそう聞かされてきました」
「それは表向きの理由だ」
クイーンズブレイド発足の原因となった大陸戦乱の末期において唯一、戦乱王に抵抗した貴族と初代女王の血筋に連なる一族がヴァンス伯爵家である。
大陸全土を混乱に陥れた貴族たちによる支配。
武力をもった郎党や、腐敗した支配者たちが大陸に戦乱を招き、多くの民を死に至らしめ、大地に貧困と飢餓をもたらしたことへの反省から、クイーンズブレイドでは権力の世襲を禁じ、四年ごとに女王を選ぶという体制を確立させたのである。
世襲を禁じた以上は、子孫が参戦することは認められない。
武を尊び、代々クイーンズブレイドに参戦しても不思議のない立場にありながら、初代女王の遺志としてヴァンス伯爵家は参戦を禁じてきた。
これが広く知られている理由である。
「真の理由があるのですか?」
「ある。だが、それを告げる前に、お前の覚悟を知りたい」
伯爵は壁に掛けてある剣へと視線を向けた。
「剣を取れ、レイナ」
「え?」
戸惑うレイナを無視し、伯爵は椅子から立ち上がり外套を落とす。
「天使の求めに応じるのであろう。ならば、力量を見せてみよ」
伯爵は腰に下げていた剣を抜いた。
大陸を統べる女王に匹敵する剣技と力量を持つと言われるヴァンス伯爵。
実の娘と言えど、その実力を目にするのはこれが初めてのことだ。
「お、お父様?」
「もう一度告げる。剣を取れ、レイナ」
剣を構えた伯爵がレイナを睨みつける。
「取らぬなら、この話は終わりだ。部屋に戻り眠りにつくがよい」
「わかりました。父上」
ドレスを翻し、レイナは剣を手に伯爵の前に立った。
「これが私の答えです」
「よかろう。お前の力量を見せてもらうぞ!」
伯爵が正面に構えた剣が光を反射して煌めく。
レイナもまた正眼に構える。
「手加減、無用!」
宣言と共に伯爵が一手を放つ。
鋭い突き。
(早い!)
伯爵の突きを受け流した刀身が甲高い金属音を立てて震える。
言葉通りの手加減無しの素早い一撃には、伯爵の本気が込められていた。
避けることができなければ、レイナは血まみれで倒れていたに違いない。
「我に勝てぬようならば、天使の求めに応じることは出来ぬぞ」
剣を構え直しながら伯爵が迫る。
だがレイナは逃げなかった。
落ち着いて呼吸を整える。
伯爵の足音、空を切る剣の音に意識を集中する。
見えた!
伯爵の動きを巧みに聞き取り、紙一重で剣を避ける。
最小限の動き。
伯爵はレイナを傷つけてでも止める気だが、レイナは伯爵を傷つけることは出来ない。
狙うは伯爵の無力化。
攻撃能力を奪うことがレイナの勝利条件だ。
伯爵の懐に潜り込むように身を回転させながら、その手の甲へと剣の束を叩き込む。
「がっ!」
予期せぬ衝撃に伯爵が剣を落とす。
レイナはさらに舞うような挙動で伯爵の背後へと回り込み、その首筋に剣を当てた。
「お眼鏡に叶いましたでしょうか。父上」
戦いが起きた時間はほんの数十秒。
一分にも満たないやり取りにすべてが集約していた。
「我の負けか……、見事なものだな」
「父上……」
「好きにするが良い。お前はもう大人だ」
レイナの剣が伯爵の首筋から離れる。
「真の理由をお聞かせ願えますか?」
「神々の後始末をするために人間がいるのではないということだ」
伯爵は、吐き捨てるように口した。その言葉には、人間の都合など考えない天使たちの振る舞いに対する苛立ちが含まれているようにレイナには感じられた。
「それだけですか」
「それだけだ」
そこから先は自分で気づけと暗に示しながら、伯爵は剣を拾いあげた。
「結局のところ、血は争えぬものということか……」
剣を納刀し、伯爵は再び椅子に腰を下ろした。
「お前が何をしようと我はあずかり知らぬ」
視線をレイナから外し、物思いにふけるかのように天上を仰ぎ見る。
「たとえ地下蔵の祖マリアの武具がなくなっていようともな……」
父親からの僅かな心遣いにレイナは深く頭を下げた。
祖マリアの武具は怖いぐらい身体に合った。
まるで自分のためにあつらえたかのようだった。
外套で身体を隠し旅支度を整え、伯爵家の人間に見咎めらぬうちにレイナは城を出た。 エリナに別れを告げることができなかったことが心残りだが、仕方がない。
旅立ちを知れば、エリナは必ずついて来ようとするだろうし、拒否すれば足止めをしてくることは間違いないのだから。
「おやおや、ついに決意してくれたのねぇ~」
城下を出たあたりで、ナナエルが頭上から声をかけてきた。
「ねえ、ナナエル」
見上げたレイナの視界に水玉模様の下着が広がる。
天使と言えども、服装は人間と変わりがないらしい。
「なあにぃ?」
「私って本当に強いのかしら?」
「強いわよぉ。このナナエルさんが保証するわ」
そう言い切られても、自信にはつながらない。
「何よ? 自信がないのぉ?」
「自信はあるわよ。貴女と戦っても負けないぐらいには」
「言うわねぇ」
ナナエルがニヤリと笑う。
「まあ、それぐらい強気でないと困るんだけどさ」
「あのね」
レイナは頭上にいるナナエルに向けて声をかけた。
「美闘士としての自分の実力を知りたいの。どれぐらいの強さなのかを」
「それなら、クイーンズブレイドを行うのが一番よねぇ」
思案顔のナナエルがカッと目を見開く。
「よおし、試合組んじゃおう」
「できるの?」
「私を誰と心得る。クイーンズブレイドを司る天使さまよ!」
ゆっくりと音もなくナナエルが地上すれすれにまで降りてくる。
「ん~~~」
こめかみに指をあてて、目を閉じる。
「何を?」
「待ちなさい……待ちなさい……今、近所にいるのは……」
待つこと数秒、ナナエルがかっと目を見開く。
「みーつけた!」
「誰とできるの?」
「荒野の義賊リスティなんてどうかな?」
ナナエルが告げた名前に、レイナは拳をぎゅっと固めた。
荒野の義賊リスティ、悪徳商人や腐敗貴族を相手に戦う女盗賊の話はレイナの耳にも届いていた。
「リ、リスティと戦えるの?」
思わず声が上ずる。
「戦えるわよ。誰とだって」
ナナエルの言葉にレイナは胸の高鳴りを抑えられなかった。
*
「勝者、世界を救う者レイナ!」
ナナエルの勝利宣言が闘技場に満ち、観客たちの声援で沸き立つ。
初めての美闘士との戦いは、レイナの勝利に終わった。
「強えなぁ……アンタ」
膝をついて呼吸を整えながら、リスティがつぶやく。
「正直言って舐めてたぜ、貴族のお嬢様の気まぐれだってな」
「そう思われるのは仕方がないわ」
レイナは剣をしまい、リスティに視線を向けた。
これまで手合わせしてきた相手の中でも、リスティは最も強い相手であった。
彼女のような美闘士が幾多といるのであれば、闘技自体も楽しめるに違いない。
「自信はついたかなぁ?」
ナナエルの問いに、レイナは大きく頷いた。
自分は決して弱くはない。
むしろ強い部類に違いないだろう。
だが、慢心してはいけない。
「じゃあ、勝者の権利。相手に叶えさせる願いを告げてちょうだい」
ナナエルの言葉に、リスティが苦い表情を浮かべる。
「さあ言えよ。どんなものでも受け入れてやるぜ」
勝者の求めに応えること。
たとえ理不尽なものであったとしても、受け入れねばならない。
それが敗者の定めだ。
「お前の下僕になるか? それともこの観客たちを喜ばせてやるか?」
レイナは首を横に振った。
「いつかでいいから、もう一度、私と戦って」
レイナの願いにリスティが呆けた表情を浮かべる。
「それが、私の願いよ」
「そんなんでいいのかよ?」
「それしか望まないわ」
レイナは笑顔を浮かべ、リスティに手を差し伸べた。
「叶わねえなぁ、本物の貴族様にはよ」
リスティは困ったように呟きながら、レイナの手を取った。
「この次は負けねえからな」
わずかな風がレイナの意識を肉体へと戻す。
リスティとの戦いを経て、美闘士としての自信を深め、ナナエルに促されるままにマラマクスの門を通りぬけた。
リスティとの再戦、そして自分が間違えたなら、戦ってでも止めると言ってくれたエリナの想いが胸によぎる。
顔を上げれば、天上に浮かぶ砂時計がゆっくりと動き始めているのが見えた。
マラマクスに夜が来る。
魔神たちの時間の始まりだ。
「約束があるものね……魔神を倒して戻らないと」
石化していた魔物たちの肌が生命の色を取り戻していく。
夜が昼へと変わり、魔物、魔獣らの咆哮、そして魔神の周囲で彼の者を讃えるかのように楽団魔獣が奏でるこの世の物とは思えぬ妙なる調べがマラマクスに満ちる。
戦いが始まる。
レイナは剣を構え、周囲の動きへと気を配った。
飢えた魔物たちがこの世界で、唯一の食糧であるレイナへと動き出そうとしている。
「悪いけど、貴方たちの食事になる気はないの」
突進してくる魔物を最小限の動きで回避する。
標的を見失った魔物がお互いに激突する鈍い音が響く中、巨大な体躯の魔物を踏み台にして、レイナは飛ぶように魔神を目指して駆けた。
「そこだぁっ!」
わざと大きく声を張り上げ、魔物たちを威嚇し、剣を振るう。
アミュレットの加護を受けた剣は、まるで布を裂くかのようになめらかに抵抗感もないままに周囲の魔物たちを切り割いていく。
レイナの進撃を阻むものなどない。
疾風か竜巻のように彼女が駆け抜けた後にあるのは、魔物たちの屍だけだ。
背後から聞こえてくる魔物たちの共食いがあげるおぞましい粗食音を振り切るように、レイナはまっすぐに突き進む。
「うおおおおおおおっ!」
雄叫びに怯んだ魔物たちが道を開ける。
数日間におよぶ激闘は、魔物たちにも影響を与えていた。
一部の魔物にレイナとの戦いを避けるものたちが現れたのだ。
学んでくれるのはありがたい。
魔物たちが途切れ、琥珀色の魔法障壁が迫る。
魔法障壁の周囲を取り囲むように、様々な楽器の形をした魔物たちが、世にも奇妙な音楽を奏でながら練り歩いているのが見えてくる。
ナナエル曰く、魔神に力を与える楽団魔獣だ。
音楽が奏でられる限り、魔法障壁は厚くなり、魔神に剣を立てるのは難しくなる。
「せいやぁぁぁぁっ!」
レイナは迷うことなく、楽団魔獣を切り払った。
笛の音が途絶え、太鼓の振動が消え、魔神を称えるかのように奏でられていた歌声が消えていく。
レイナの突進は止まらない。
楽団魔獣を壊滅させ一気に珀色の障壁へ剣を振り下ろす。
加護を受けた剣は、魔法障壁を切り開き、その奥へ続く道を開いた。
魔神へと切り結ぶ距離まで、さらに駆け抜ける。
「今だ!」
魔神の白い首筋に向けて剣を突き出す。
だが、レイナの剣が魔神に突き刺さることはなかった。
漆黒の角が火花を立てて剣を弾く。
予想外の衝撃に手首が痺れ、剣を落としそうになるのを寸前で堪え、レイナは体勢を立て直した。
「ふしゅううううううう」
深紅の唇から魔神の息が漏れ、光を宿すことのない漆黒の瞳がレイナの姿を捕らえる。
レイナが攻撃に移るよりも早く魔神が動いた。
手の中に出現した長槍がレイナの胸鎧を砕く。
「!」
音が聞こえない。
魔神の動きをレイナの感覚はとらえきれない。
後方に跳ね跳ぶことで致命傷を避けたのは、本能のなせる業といったところか。
痛みに顔をしかめながらも、レイナは魔神から目を逸らしはしなかった。
魔神の角に弾かれ、並の武器なら砕け散るほどの衝撃を受けてなお、レイナの剣は刃こぼれすることなく手の中にある。
(お姉さまと切り結べるのは私だけ……)
エリナの言葉が蘇る。
伯爵家を出奔した自分と戦うためにエリナは自らを鍛えているはずだ。
「妹の想いのためにも……、まだ負けられない」
砕けた鎧を払い、乳房が露わになることも厭わず、レイナは胸をはった。
「負ける余地はないわね」
剣を握り、魔神を睨みつけたまま、構えを取る。
必殺の奥義。
始祖マリアから伝えられた魔神殺しの一撃を放つ瞬間を待つ。
「しゃああああああああっ!」
魔神が雄叫びを上げ長槍を突き出す。
見慣れてしまえば単調な攻撃だ。
力こそ凄まじいものの、技の精緻さは美闘士たちには及ぶべくもない。
レイナは突き出された槍をかい潜り、龍の尾の名を冠した切れ味の鋭い一閃を放つ。
「ドラゴンテイル!」
魔神の身体を切り裂く手ごたえが、剣を通じてレイナに伝わってくる。
戦いはこれからだ。
「さあ、戦いましょう」
赤黒い血を流しながら、自分を睨みつけてくる魔神に向けレイナは宣言した。
「世界を滅ぼさせたりはしないわ」
ミシェルが演奏する笛が音色を奏でる方向へと歩を進めながら、エリナはレイナへの思いを反芻していた。
どうしても腑に落ちないことがある。
あの日、お姉さまが出奔した後、父上は積極的に捜索しようとはなさらなかった。
本気なら軍を動員してでも探していたはずだ。
それにも関わらず、金で雇った情報屋を放った程度。
探すつもりがないのではないかと疑っていたぐらいだ。
おそらく父上とお姉さまの間で、何らかのやり取りがあったことは想像に難くはない。
最も、問い詰めたところで父上が真実を語ってくれることはないだろう。
だからこそ、自分も伯爵家を後にしたのだ。
真実を知るために。
「休憩にしましょう」
エリナは軽く手を上げて一行に休憩を命じた。
山頂にほど近い大陸北部を一望できる景観の地だ。
遠くには噴煙を上げる鋼鉄山が見え、眼下に目をやれば緑の平原や、遥か彼方に広がる砂漠まで視界に収まってくる。
「やっとでございますか」
アイリが、やれやれといった感じで荷物を下ろす。
彼女は全員の荷物を運んでいるのだ。
死霊使いが荒いと常々、文句を言うものの、その表情はどことなく嬉しそうだった。
「歩いてないんだから疲れてはないでしょ」
エリナに突っ込まれて、アイリはそっと舌を出す。
茶目っ気あふれた態度に、ミシェルが微笑みを浮かべる。
「アイリ、お茶にしましょう」
「はい、かしこまりました」
命令を受け、アイリは茶器を広げ、茶の準備を始めた。
「エリナ様が追いかけているレイナお姉さんってどんな人なんですか?」
「話したことなかったかしら?」
「詳しくは……」
「そうね。完璧な人よ」
「完璧ですか」
「ええ、綺麗で、優しくて、強くて……とにかく素敵な人よ。もうすぐ会えるわ」
エリナはうっとりとした眼差しで、ミシェルの笛へ視線を向けた。
「マラマクス……そこに居るんだから」
「ぼくも会ってみたいです」
「紹介してあげるわよ。この旅の大切な仲間だものね」
Episode 8 終わり
ユーミルとの騒動を経て、復活した従者アイリとの再会を果たしたエリナは、突然旅立ったレイナを追いかける秘境マラマクスへの旅を再開していた。果たしてマラマクスとはどんな場所なのか。また、レイナはなぜ伯爵家を突如飛び出して旅に出てしまったのか。
クイーンズブレイドの最終戦が終わりを告げ、勝者が決定される。
新たなる女王の誕生を祝うかのように歓声が沸き上がる中、ナナエルは頭を抱えて困惑していた。
マラマクスへと通じる門(ゲート)が開かないのだ。
「こんなの前代未聞だよぉ! どうすりゃいいのよぉ」
そんなナナエルを、女王となった美闘士が不思議なまなざしで見つめる。
天使が何を困っているのか、理解が出来ていないといった表情だ。
「何が前代未聞なのだ?」
「女王としての最大の責務を果たせないじゃないの~」
「最大の責務とはなんだ?」
「うっ……」
ナナエルは口ごもった。
責務を果たせない女王に告げられるような内容ではない。
原因はわかっている。
新女王が本来なら存在するはずのない、魔神と人間の間に生を受けた魔人だったためだ。
広く一般に知られている事実として、魔神と人間の間に子をなすことは出来ないとされている。
人間の女性は受精したとしても母体として耐えることが出来ずに死んでしまう。
その逆に、人間の精では、魔神を受胎させることは出来ない。
この事実を覆す存在、それが世にも稀なる魔人という種族であり、ナナエルの眼前で仁王立ちしている新女王なのだ。
「あ、アンタねぇ、自分が魔人だってこと言わなかったでしょ」
「言う必要があったのか?」
「あーりーまーすー! そもそも、魔神の血を引くものが女王なんてなっちゃいけないんですー!」
ナナエルは大きく地団駄を踏んだ。
「いいから、いまからでも冥界に帰りなさい!」
「断る。そもそも私はこの世界で生まれ育った者だ。冥界になど戻りようがない」
「だったら、この世界にいてもいいから、女王の座を辞退しなさいよ!」
「それも断る」
「はぁ?」
「そもそも、クイーンズブレイドは種族不問であろう。私が魔人だからダメだという理由にはならないのではないか」
新女王アルドラは、ナナエルを前にして一歩も引き下がる様子を見せなかった。
「何を困惑しているかはわからぬが安心せよ。女王として協力は惜しまぬぞ」
アルドラは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「ぐぬぬぬぬ……一番の協力はアンタが女王を辞めることなんだけどねぇ」
ナナエルも下がらない。
これは譲歩できるような取引ではないのだ。
「それは断るといったはずだ。我が妹に気付いてもらわねばならぬのでな」
「ひょっとして、妹が見つかるまで女王で居続ける気?」
「当たり前であろう」
信じられないバカか間抜けを見るような視線を向けるアルドラに対し、ナナエルの怒気はまずます高まっていく。
「じゃあさ、アタシが妹、見つけてきたら女王辞める?」
「それはダメだ」
「なんでよ?」
「妹が自らの意思で私を見つけなければならないのだ。そのためにも私は大陸で一番、名の知られた存在である女王として君臨し続けるつもりだ」
アルドラは自信満々に胸を張った。
(これは、マジで、ヤバいですよ。ナナエルさん)
自分に向けて心の中でつぶやきながらナナエルは息をのんだ。
女王となったアルドラよりも強い美闘士は、今、この時において大陸には存在しない。
存在していたらアルドラは優勝できなかったのだから、当然の話だ。
しかも、アルドラは魔人であるがゆえに、加齢による肉体の衰えが発生するのは遥かな未来の話……次回はもちろん、その先までも優勝し続けて女王の座に君臨しつづける可能性は否定できない。
(誰よ。こんな穴だらけの制度考えたやつ! もうちょっと考えろ!)
わなわなと震えながら、ナナエルは拳を握った。
現行の制度のままでは、アルドラの連覇を止めることは出来ない。
だが、アルドラは魔神の血族であるがゆえに『真なる女王の勤め』を果たせない。
「世界が……終わる……」
大きな冷や汗がナナエルの身体を冷やす。
何とかしなくちゃ……。
天上に浮かぶ巨大な砂時計、時を刻む砂が落ちていく。
荒野しかない地上を埋め尽くすのは、無数の魔物や魔獣たち。
それらにただ一人で抗う美闘士の戦いを無益なものとあざ笑うかのように、この世ならざる調べが微かに響く。
「はあああああっ!」
気合一閃、振り抜かれた剣が魔獣の身体を両断する。
一刀のもと、魔獣を文字通りに打倒し、レイナは次の魔獣へと飛び掛かった。
立ち止まるゆとりはない。
彼女の周囲を覆いつくすのは、魔獣、魔物の群れだ。
一体、一頭でもちょっとした集落を壊滅させるだけの力をもった怪物である。
生臭い血煙と魔獣の呻き声の中で、レイナは正確に自分に迫る相手を選び、無駄な戦いを避けていく。
額を流れ落ちる汗が、瞼をつたい、視界を奪う。
体力の消耗はもはや限界に近い。
それでも、レイナの剣戟は留まることなく魔物たちを屠っていく。
レイナ自身の窮地を知らぬものが見れば、さながら攪拌するがごとき勢いだ。
「こんなことになるなんて、聞いていないわよ。ナナエル」
レイナは恨み言のように呟きながら、剣を構えた。
彼女の正面に、巨大な棍棒を手にした魔物が立ちはだかる。
「ぐるあぁぁぁぁ!」
魔物が咆哮を上げ、こん棒を振り上げたまさにその時、世界の姿が一変した。
天上の砂時計、その最後の一粒が落ちたのだ。
夜から昼間へ。
黄昏時を挟むことなく光が広がり、魔物たちは一斉に石像へと変化していく。
果てしなく続くかと思われた戦いに小休止が訪れた。
石像と化した魔物たちは、あまりにも硬くレイナの持つ剣では砕くことは叶わない。
「これで、七日目……」
ナナエルに誘われるままにこの戦いに身を投じた日数を思い出す。
外界ではどれだけの時間が流れているのか。
ここは聖地マラマクス。
その正体が、魔神を封じるために設けられた異世界、結界領域であることを知っているのは、この地に足を踏み入れることのできなかったアルドラを除く歴代の女王と、クイーンズブレイドを守護する天使たちだけだ。
「なかなか……届かないものね」
レイナは魔物たちの向こう側へと視線を向けた。
そこには琥珀色に輝く巨大な宝石にも似た魔力障壁に守られた魔神の姿がある。
美しい女性を模した姿は、魔神を召喚した戦乱王が美闘士に対抗する者として望んだものだと言われているが、真相は定かではない。
ただ一つ確かなのは、男性は魔神に魅了され下僕と化すという事実だけ。
『世界を壊す者』
それが魔神の通り名だ。
魔神を支配する真なる名前は失われて久しい。
かつて、クイーンズブレイドが行われる契機となった大戦乱、大陸に住む民の半数以上を死に至らしめ、国を崩壊させた戦乱王が自らの命引き換えに召喚した存在だ。
その力は神々に等しく、人間では制御することなどは出来なかった。
召喚主を生贄として消化した魔神は、本能の赴くままに破壊と暴虐の限りを尽くした。
唯一の抵抗者であったのが、初代女王だった。
魔神に魅了され下僕と化した男性たちを正気に戻し、彼の者を追い詰めることには成功したものの、その力はあまりにも強大で天界の神々の力を借りても完全に滅ぼすことは出来なかった。
再生、復活を無尽蔵に繰り返す魔神を現界にとどめることは出来ない。
そこで天界の神々は、魔神を封印する異世界を作り上げた。
それが、このマラマクスの地である。
この地に封じられた魔神は、以後、歴代の女王たちによってその力を削ぎ落されてきたのだ。
長きに渡る女王たちの儀式により、魔神の力は確実に魔界へと追い落とすまでに衰えてていたはずであった。
だが、レイナの眼前に立ちふさがる魔神の姿からは衰えなどは微塵も垣間見えない。
唯一の救いは、戦乱王による召喚が完璧なものではなかったがために、魔神には知性がなく、本能のみで行動しているということだ。
自らを守る魔力障壁を展開し、歴代女王によって受けた傷を癒しつつ、自分を守護するための下僕である魔獣、魔物を生み出しつづけている。
魔王としての本能が下僕を優先しているのだと思っていいだろう。
仮に明確な知性があったなら、それらを生み出す力すら回復に回し、マラマクスを破壊して脱出することを目論むはずだ。
「魔物の軍団を相手に一人で戦うことになるなんてね……」
この七日間の間、レイナが倒した魔物の数はすでに三百体を超えている。
ナナエルによって与えられた護符の加護により、聖なる力が付与されている武器だからこその継戦能力だ。
幾度かは魔力障壁を越え、魔神本体に剣を届かせることも出来たが、致命傷を与えるまでには至ってはいない。
魔神の傷を癒す能力を持った魔曲を奏でる『楽団魔獣』を倒しきれなかったことが、長引いている原因の一つだ。
「まだ……届かない……」
レイナは出来る限り魔神の側にまで近づき、膝をついた。
魔物たちが動き出すまでの時間は、自分にとっても休息時間になる。
終わりの見えない戦いを勝ち抜くためにも、体力を回復するための時間は重要だ。
「世界を救う、戦い……」
ナナエルから託された聖乳を口に運び、自分に言い聞かせるように呟く。
細かな傷がたちどころに完治し、疲労が消え上せていくのを感じながら、レイナは瞳を閉じ、呼吸を落ち着かせ、この戦いに身を投じることになった経緯を思い出していた。
「よろしいのですか、お嬢様」
「構わないわ、やってちょうだい」
紅茶の入ったティーカップを手に緊張した表情を浮かべるメイドに向け、ドレス姿のレイナがやさしく微笑む。
彼女の手にあるのは、空のティーソーサー。
いつもの昼下がり、ちょっとした座興を楽しむ時間だ。
「行きますよ。お嬢様」
メイドが無造作にレイナに向けてティーカップを投げる。
空中へと放り出されたそれを、レイナはティーソーサーで華麗に受けとった。
もちろん、一滴もこぼすことなく。
「お見事ですわ! お姉さま!」
エリナが拍手と共に近づいてくる。
「私、お姉さまの真似をしてみたのですけれど、なんどやってもうまくいきませんの」
「投げ方が上手いのよ」
レイナの言葉を受け、メイドが頬を軽く染める。
「そういうことなら、私の投げ手を躾けないといけないわね」
「ううん、そんなことはないと思うわよ」
エリナの瞳が剣呑な色を帯びたことに気づいたレイナは、大慌てで訂正した。
放っておけばエリナのことだ、投げ手のメイドに懲罰の一つも与えかねない。
「やっぱり、お姉さまの体さばきが超絶の域に達しているだけのことでしたのね」
大げさな身振りで感動を現しながら、エリナは無造作にレイナに抱き着いた。
「きゃ、エ、エリナ」
「あらぁ、避けたりはしないのですね」
「避けて欲しかったの?」
「もう、お姉さまのイジワル」
ティーカップで試していたが、この動きは投げナイフや投擲武器の回避につながるものだ。単なる座興ではないことをエリナは見抜いている。
「レイナ、伯爵がお呼びだ」
エリナにまとわりつかれているレイナに声がかかる。
この伯爵領内で彼女を呼び捨てにできる人物は二人しかいない。
父であるヴァンス伯爵と、義姉であるクローデット将軍の二人だ。
「お義姉さま……もうそんな時間でしたか」
「うむ。伯爵がお待ちだ」
最近になってレイナが公務に呼び出されることが多くなっていた。
それは、彼女の特殊な能力を伯爵が気付いたためだ。
先ほどレイナが見せた座興も、この能力によるところが大きい。
レイナにとってみれば。飛来するティーカップのわずかな風切り音、メイドが投げるときの踏みきりの足音から立体的に位置を把握し、カップの着地点にソーサーを置いただけのことなのだ。
多重判別能力。
無数の音から特定の音を明確に区別できる力だ。
十数人の貴族たちが口にする雑談から、誰が何を話しているかを判別することなど、レイナにとっては朝飯前のことでしかない。
だが、相手にとっては別だ。
聞き取られまいと漏らしたわずかなな囁きすら、把握されてしまうのだ。
相対する貴族たちの緊張感が、嫌がおうにも高まるのは言うまでもない。
実際に、レイナが聞き分けた内容を伯爵が把握することで、公務は滞ることなく進行するようになっている。
もはやレイナは伯爵にとって欠かせない存在となっていた。
「大変だな。跡取りというものも」
「お義姉さまほどではありませんわ」
気づかいの言葉を口にするクローデットに向け、レイナは微笑みを浮かべた。
伯爵家の公務において重要な位置を占める軍務を彼女が引き受けてくれているおかげで、レイナとエリナは習い事に集中できるのだ。
「お姉さま、がんばってね!」
エリナの声援に背中を押されるように。レイナは伯爵の元へと向かった。
「疲れた~~~」
レイナは自室のベッドに倒れこんだ。
すかさず待機していたメイドたちが、彼女のドレスを脱がし、一糸まとわぬ姿へと変え、純白の柔肌を露わなものとする。
レイナも慣れたもので抵抗はしない。
汗をぬぐい、さわやかな気分を提供する香油が慣れた手つきで、白い肌に塗りこまれていく。
風を送るメイドたちが扇ぐ扇によって、香油がさらりとした手触りを残し乾燥するのを待って、夜着が重ねられていった。
日常の景色といったところだ。
「ありがとう、もういいわ」
レイナの命を受け、メイドたちが部屋から去っていく。
「はあ……」
深くため息を吐く。
伯爵と共に公務を続ける単調な日々。
貴族たちの会話の中には、伯爵には直接伝えられないような内容もある。
特に継承者問題は自分自身の将来にかかわる重要なものだ。
レイナ自身も年頃ということもあり、最近は貴族たちの間でも誰の子息がレイナの夫となるかという話題が出ることも多い。
有力候補として度々、名前があがるのはクロイツ辺境伯の美形として名高い子息だが、辺境伯自身が乗り気ではないらしい。
他に釣り合うような家格の貴族もなく、結局は誰も名乗り出ることはないのだけれど、近い将来、伯爵が決めてしまうことは間違いないだろう。
特に思いれのないの男を夫として、伯爵家の血筋を残し、税金を取り立て、領地を運営し、貴族たちと他愛のない会話を繰り返す。
そこにはレイナ自身の意思や、志向は存在していない。
伯爵家という血筋を残すために愛は必要ないらしい。
「お母さまが生きていらしたら……」
誰でもいい、別の生き方を許してもらえたら……。
貴族による貴族のための現状を維持し続けるような施策ではなく、自分の力を試せるようなことをしたい。
「お悩みのようねー」
不意に外から声がかかる。
「ナナエル?」
聞き覚えのある天使の名を上げた。
「はいはい、ナナエルさまですよ。迷える子羊よ」
片翼の天使は音もなくふわりと部屋へ入ってきた。
レイナの能力をもってしても、天使の動きはうまく察知することができない。
「そんなんなら、前回のクイーンズブレイドに出ればよかったのにさぁ。アンタの実力なら優勝間違いなしでしょ? 人生大きく変わるわよぉ」
「無茶を言わないで」
枕に顔を伏せたままレイナは答えた。
「前回って四年前でしょ、私、まだ子供だったしぃ……」
ナナエルがレイナの元に初めて現れたのは四年前、今と同じように将来を思い悩む彼女にクイーンズブレイドへの参戦を要請してきたのだ。
レイナは深く考えずに伯爵へ、参加の許可を求めたのだが、当然のように許可など出るはずもなく、伯爵の怒りを買い、楽しみにしていた剣術の稽古も受けられなくなってしまった。踏んだり蹴ったりである。
クローデットが伯爵家に呼び寄せられたのも、その頃のことだ。
もはやレイナは戦うことなど考えなくてもよいという伯爵からのメッセージであることは言うまでもない。
最も、伯爵に気付かれない範囲で、クローデットから手ほどきを受け続けてはいるのだが……正直、自分の実力がどの程度のものなのかを測る術がないのが実情だ。
「アンタが来ると良いことはないのよ」
天使に対する畏敬など無視し、レイナは率直な思いを口にした。
「わあ、ひどい言いぐさだこと」
レイナが突っ伏してしるベッドの端にナナエルが腰を下ろす。
「でもねぇ、もう待っていられないのよねぇ……」
ナナエルの口調が真面目なものへと変わる。
「よく聞くがよい、レイナ。汝、初代女王の末裔にして、天啓の乙女よ」
神々しい輝きがナナエルの背後から広がり、部屋中を明るく照らす。
尋常ならざる気配に、レイナは枕から顔を上げる。
神々の使徒たる天使としての威光を示すナナエルの姿に、レイナは言葉を失った。
「世界を救うためにマラマクスの扉を開け、かの地にて『世界を壊すもの』と戦う定めから逃げてはならぬ。世界の運命は、汝の双肩にあり……」
ナナエルがレイナの前へ、剣の形をしたアミュレットを差し出す。
「受け取るがよい。定めの戦士よ」
抗えない何かを感じ、レイナは言わるままにアミュレットを手に取った。
「こ、これは……」
手から全身に力が広がっていく。
「クイーンズブレイドの優勝者にのみ与えられる闘技会勝利者の証……汝にその資格があることの証明……」
「資格の証明……」
「受け取ったわね」
ナナエルの口元がニヤリとゆがむ。
「え?」
「受け取った以上は勤めを果たしてもらうわよぉ~」
ナナエルの口調ががらりと変わり、普段の物に戻る。
「ええ? か、返します。これ、返します!」
慌てて手を振り回すレイナの手に張り付いたようにアミュレットは離れない。
「ダメよ~ん。もう、それはレイナの物だもの」
「何これ? 呪いのアミュレット?」
「失礼な! それこそ真なる女王の証よ。それが持てるってことは、レイナに資格があるってこと! 大手を振ってクイーンズブレイドに出てきなさい! いいわね!」
ナナエルは一方的に告げ、戸惑うレイナを後に夜空へと去っていった。
「どうしよう……これ……」
*
アミュレットを手にしてもレイナはすぐには行動しなかった。
出来なかったのだ。
もし自分が居なくなったらどうなるのか。
クローデット……厳しくも尊敬できる義姉は、私の行動を許してくれるだろう。
エリナには、難しい定めを押し付けてしまうことになる。
少なくとも、私に代わって伯爵領を運営するために、好きでも無い相手と結婚させられることになることは想像に難くない。
エリナにだけはそんな運命を歩ませたくはない。
そんなことを考えている間に、時間だけが過ぎていった。
「ねえ、エリナ……」
「なあに? お姉さま」
「何かやりたいことがあって……」
「我慢しないわよ」
レイナがすべてを言い終わるよりも先にエリナは答えた。
「私はお姉さまみたいに良い子じゃないもの。我儘言ってお父様を困らせても気にしないわよ」
エリナはきっぱりと言い切りながらレイナに身を寄せてきた。
「だから、お姉さまも我慢しなくていいの。お父様が困るのは仕方がないわ。それが伯爵という地位にいる人の定めだし、責任なんだから」
エリナの言葉にレイナは目から鱗がおちた気分になった。
妹は自分以上に、貴族の地位と立場、そして責務を理解している。
「それに、万が一にもお姉さまが間違えていたなら、私が止めてさしあげますわ」
胸を張るエリナ。
「お姉さまと切り結べるのは私だけですもの」
確かに、レイナと互角の戦いができるのはクローデットを除けば伯爵家においてはエリナだけだろう。
本気になったエリナの動きは、レイナであっても反応しきれるものではない。
能ある鷹は爪を隠すというヒノモトのことわざのように、エリナは自らの能力をたくみに隠しているようにレイナには思える
「そうね。期待しているわ……でも」
「でも?」
「全力で抵抗するわよ。力の限りね」
「それでこそお姉さま。全力全開のお姉さまと剣を交える……ああ、想像するだけでドキドキしちゃいます」
頬を染め、エリナはレイナの胸元へと顔をうずめてくる。
レイナはそんなエリナを愛おしく思いながら、彼女の頭を優しく撫でたのだった。
後編へ続く
鋼鉄山に入るや、エリナはあるものを見つけた。
伯爵家の紋章が掲げられた馬車だ。
紋章を堂々と掲げることが許されるのは、伯爵本人とその家族に限られている。
つまり、義姉クローデット将軍か、父親である伯爵自身だ。
どちらがこの場に来ているのかを見極める必要がある。
前者なら問題はない。
後者なら身を隠し、早急にここから立ち去る算段をつけなければならない。
もし伯爵本人に見つかったなら、連れ戻されるのは必定だ。
レイナ姉様に関する具体的な手がかりを何一つ得ていない現状で旅を終えることは出来ない。
どうやって説得するべきか。
ふと思案にくれていると、まばゆい輝きが天井に向かって伸びていくのが見えた。
「クイーンズブレイド?」
まさか、アイリが巻き込まれているのではないか?
嫌な予感がエリナの脳裏をよぎる。
美闘士としてのアイリは確かに強い。
それは相手が彼女の正体を知らなければの話だ。
メローナも同様だが、沼地の魔女が召喚した美闘士には、弱点さえつかれなかれば圧倒的に優位という共通項があるのかもしれない。
エリナは伯爵家に対する調査を止め、クイーンズブレイドが行われている場所へと、足を向ける。
「あら?」
意外も決着は早くついたらしい。
どうやら、あっさりと負けたようだ。
「何をやってるんだか……」
気絶したミシェルを抱え、ユーミルの後をついていくアイリを遠巻きに見ながらエリナは、額に手を当て大きくため息を吐いた。
ちょっと目を離すとこれだ。
とはいえ、単独で動いたのは自分なので、アイリを責めるつもりはない。
部下の不始末を許すのも、支配者たるものの務めのひとつだ。
エリナは気持ちを切り替え、気付かれないようにアイリの後を追った。
*
大地の息吹を感じさせる熱気に包まれた洞窟の最下層。
眼下に広がる溶岩湖を見渡せるように岩肌に突き出したテラスに三人の姿があった。
「どうじゃ! 雄大な景色であろう!」
溶岩湖を背後にユーミルが笑顔を浮かべる。
下方から赤く照らされ、心なしか頬も紅潮しているように見えた。
「この溶岩には数多くの鉱物が含まれておる。マダアンタイトやミソチルの原材料もここから抽出しておるのじゃぞ」
「そ、そうなの?」
「うむ、豊富な鉱物が融解した状態で噴出している火山は大陸ではここだけなのじゃ」
自慢気に語るユーミルからミシェルは軽く目をそらした。
なぜなら、ユーミルの姿があまりにも煽情的すぎたからだ。
「ねえ、アイリ」
「なんでしょうか、ミシェルさま」
「なんでこんなことになっているのかな?」
「私にもよくわかりません」
ミシェルの額に浮かんだ汗を拭きながらアイリは困惑の表情をうかべた。
死霊でなければアイリも汗だくになっているところだ。
「とりあえず、エリナ様を待ちましょう」
小声でそっとささやいてきたアイリの言葉にうなずき、ミシェルは意識的にユーミルから視線をずらす。
いくらなんでも、裸エプロンは刺激が強すぎる。
「これこそが、我が鋼鉄山の真の姿なのじゃ」
この絶景を見ることが出来る貴賓室に入れるのは、王族の家族か、特別な客だけなのだと言い、ユーミルは賢明に鋼鉄山のすばらしさを延々とミシェルに語っていく。
「ごめん、何を言っているかわからないんだけど」
そもそもなぜ裸エプロンで力説しているのかもわからない。
「うむー、わからぬかー」
「うん」
ユーミルは腕を組んで深く頭を垂らすと、不意に何かを思い立ったかのようにすたすたと部屋の片隅へと向かっていく。
無防備な背中とそれにつづく臀部が露わになり、ミシェルはとっさに顔を上にあげる。
目のやり場に困るとはまさにこのことだ。
「まあ、わからなくともよい。妻であるワシが知っておればよいのじゃからのう」
ユーミルはそんなミシェルの態度を気にも留めず、人間の基準で見れば幼いとしかいえない肢体を無防備に晒す。
「妻ぁ?」
「うん、おぬしはワシの亭主になるのじゃぞ」
ごそごそと探し物をしながらユーミルはさも当然のように語った。
「だ、だからって、そんな恰好は……その恥ずかしくないの?」
「ん、これか?」
思い切って直球に尋ねたミシェルを前に、ユーミルはエプロンのすそをつまみ上げる。
「これは、その……恥ずかしいのは確かじゃが、妻は夫の前ではこのような姿をするものじゃとシュミテルから聞いたのじゃ」
ユーミルの言葉にアイリは軽く頭を振った。
どうやら、とんだ変態おやじに騙されているようだ。
もしかすると、見かけ通りの純粋なお子様なのかもしれない。
「そんなことより、これを見るがよい!」
ユーミルはミシェルに向けて、光り輝く石塊を突き出した。
「なにそれ?」
「これはじゃな、ミソチル鉱の原石じゃ」
ミソチルという単語にアイリが思わず顔をしかめる。
神鉄ともよばれる魔力を帯びたこの鉱石はアイリのような死霊や、通常の武器では傷つくことのない魔界の眷属に対し絶大な効果を持つのだ。
「これぐらいの原石から生成されるミソチルで爵位つきの領地が買えるのじゃ」
「じゃ、じゃあ、ユーミルさんってお金持ちなの?」
「ワシはこの鋼鉄山の姫じゃ、そのあたりのことは言わずともわかるであろう」
ユーミルは機嫌よさそうにニコニコと微笑んだ。
このままミシェルを夫として迎えることが出来れば、侍従たちに小うるさいことを言われずに済むのだ。
それにミシェルは一見頼りない子供に見えるが、ユーミルは彼の瞳を覗き込んだ時に何か底知れぬ力の存在を感じていた。
「ああ、そうじゃの。夫といってもおぬしは何もせんでいいのじゃぞ」
「何もしなくていいって?」
「商売や技術のことはワシとその一族に任せて、お主はここでのんびりと過ごしていればいいのじゃ、三食昼寝、美人の妻つきじゃぞ」
「そ、それは困るなぁ」
ぐいぐいと迫ってくるユーミルを直視しないようにしながら、ミシェルはアイリに助けを求める視線を送る。
「ユーミル様、ミシェル様は旅の途中なのです」
「そうなのか? ならもう旅を続ける必要はないのう」
「そういうわけにはまいりません。クイーンズブレイドの敗北により、ミシェル様をここにお連れすることには同意いたしましたが、旅の中断は約束に含まれておりません」
アイリはミシェルをユーミルの夫として鋼鉄山に残すことをきっぱりと断った。
「さらに申し上げますが、ミシェル様の身柄は保護者であるエリナ様の管理監督下にございます。エリナ様の許可なしにそのようなことを決めることはできません」
「なんと、お主らはエリナ様とやらの奴隷じゃったのか」
「私は奴隷ですが、ミシェル様は違います」
アイリは首輪に手を当て、誇らしげに胸を張った。
現在の彼女は、沼地の魔女の下僕ではない。
エリナの奴隷なのだ。
「つまりはそのエリナ様とやらの許可を得ればいいのじゃな」
何かを心得たとばかりにユーミルはミシェルの元から離れ、部屋から出ていった。
思いついたら即実行、我慢やら周到な用意などとは無縁なようだ。
「爺! 爺はおるかーッ! 人探しじゃー!」
「ぬわー、姫様なんたる破廉恥な恰好をー!」
「じゃから、この衣装はじゃなー」
ドアの向こう側から聞こえてくるユーミルと侍従の会話を聞きながらミシェルは緊張を解き、ソファから軽くずり落ちた。
「とんだ災難だよ~」
「お疲れ様です。ミシェル様」
ミシェルの汗をぬぐいながらアイリがひんやりとした手を彼の額に当てる。
「ふあぁ……アイリの手、気持ちいいねぇ~」
「こういうとき死霊は便利ですわね」
「で、これからどうしよう。脱出する?」
「その必要はありませんわ。きっとエリナ様が助けにきてくださいます」
「エリナ? 今、エリナと言ったか?」
不意に第三者の声が響いた。
「こっちだ。私は隣の部屋にいる」
声は壁越しに聞こえてくる。
威厳のある女性の声だ。
「話を聞かせてもらいたいのだが」
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
アイリが背筋を伸ばし、見えざる相手に向けて一礼し尋ねる。
「私の名はクローデット、エリナの義姉だ」
*
部屋を移るなり、クローデットは静かにミシェルとアイリを見分した。
以前の報告にあったエリナと行動を共にしている少年と死霊とは、彼らのことに違いないだろう。
肝心のエリナの姿がないことは、先ほどまでの彼らの会話でわかっていたが、少しだけ自分が落胆していることに気付き自嘲気味の笑みが浮かぶ。
ユーミルとの会談を終え、貴賓室に通された彼女の隣の部屋に二人が入ってきたのは偶然以外の何物でもない。
ユーミルとミシェルの会話もはっきりと聞こえていた。
そもそもユーミルは声を抑える気などない。
それでも果敢にミシェルに思いを伝えようとすることだけは伝わってくる。
「ヴァンス伯爵領将軍クローデットだ」
「お初にお目にかかります。エリナ様所有の奴隷メイド、アイリでございます」
作法に乗っとり礼儀正しくアイリが返礼する。
一分の隙もない完璧な仕草にクローデットは思わず関心してしまった。
「こちらはエリナ様のご友人にして、保護下にございますミシェル様です」
「ミシェルです。こんにちはクローデット様」
アイリとは違いミシェルはいかにも市井の少年といった雰囲気の挨拶を返してきた。
だが、不快感はない。
ここは宮廷ではないし、人目があるわけではない。
礼儀作法をくどくどと説くのは不調法というものだろう。
「二人はエリナと共に旅をしているのだな」
「左様でございます」
「聞かせてくれないか? エリナの様子を」
語らぬことは許さぬ。
そう思わせる空気がクローデットの周囲から放たれているようにミシェルは感じた。
「エリナ様の旅は、ボクのためでもあるんです」
ミシェルは口を閉ざすわけにはいかなくなった。
自分が記憶喪失であること、不思議な笛のこと、沼地の魔女に追われていたこと、エキドナに攫われ、エリナが助け出そうと奮戦したことなど、これまで自分が体験した範囲と、メローナから聞いた出来事を加えて話した。
冒険譚に耳を傾けながらクローデットはどうすれば、エリナを連れて帰れるかを思案してみた。
この鋼鉄山でエリナと再会できたのは千載一遇の好機だ。
エリナの旅の目的は『レイナを連れ戻すこと』だったはず、これまでの旅でレイナに関わる確実な情報は『マラマクスに向かった』ということだけ。
具体的な成果がない以上、義姉として旅を切り上げさせるべきだろう。
エリナと出会いながらも、それを放置したことが父上に耳に入れば、どのようなお叱りをうけることになるか……だからこそ、一旦でも良い戻るように説得しなすればいいのだ。
というのは表向きの言い訳だ。
本音では、そろそろエリナを直接かわいがりたいのだ。
部下の中にも幾人かは、かわいがれる者もいるのだが、やはりエリナには遠く及ばない。義妹である彼女だけが、クローデットに逆らう態度を取れるのだ。
思うようにならないからこそ愛おしい。
その愛おしいものとこうも離れていることが、ここまで自分の心理に影響を与えるとは予想すらせずに旅出させてしまったことを後悔しているのだ。
どうやって連れ戻すか……。
クローデットは道中の出来事を語るミシェルと、半歩ひいて控えるアイリに視線を向ける。エリナの幼少期を思わせるミシェル、死霊でありながら完璧な礼儀作法を見せたアイリ、二人を連れて戻ってもいいといえば、エリナも考えを改めてくれるかもしれない。
それとも素直に自分の想いをぶつけるべきか。
執務室で密かに隠れて愛読している恋愛物語では、想いを伝えて幸福な結末になるのだが、現実では難しいといわざるを得ない。
物語でも、幸福な終わり方と悲劇的な結末が拮抗しているのだ。
ましてや女同士、さらに血のつながらない姉妹となれば、気持ちを素直に伝えたところで安易に幸福な結末になるとは思えない。
自分が読者なら作者に石を投げたくなる安易さだ。
「クローデット義姉様……」
不意にエリナの声が聞こえてきた。
幻聴か?
だとしたらかなり危険領域に達してきたに違いない。
否、このままつきつめればエリナが居なくてもエリナと過ごせるかもしれない。
「義姉様!」
ハッキリと聞こえてきたエリナの声、そして正面の二人がクローデットの背後に向けて一礼するのを見て、彼女は背筋を伸ばした。
ゆっくりと振り返ると、そこにはバトルドレスに着替えたユーミルと彼女に連れられてやってきたエリナの姿があった。
「あ……ああ、エリナ……」
言葉が続かない。
「おお、クローデットどの、こちらにいらしたか。いや噂のエリナ様がおぬしの妹君じゃったとはのう」
ユーミルが笑顔で語りかける。
「いやあ、めでたいかぎりじゃ。わしの結婚にヴァンス家の姉妹が立ち会っていただけるとは~」
「あー、そのことなんだけどね、ユーミル」
「なんじゃ? エリナどの」
「本人の意思はどうなのかなって」
エリナが半目でミシェルを睨みつける。
「ボ、ボクは旅を続けたいよ」
「なら決まりね。二人とも行くわよ」
自分を無視して話を進める周囲にやや圧倒されつつクローデットは立ち上がった。
ここで存在を示さねば、流されてしまうだけだ。
だが、口から出た言葉は……。
「エ、エリナ! 後で言いたいことがある。時間を作って欲しい」
なんとも情けないお願いの言葉だけだった。
「はーい、本日は鋼鉄姫ユーミルの二戦目だよ~」
鋼鉄山の闘技場にナナエルの声がこだまする。
闘技場を埋め尽くすドワーフと鋼鉄山を訪れていた商人や旅人らが歓声を上げ、それにこたえる。
「鋼鉄姫ユーミル! ミシェルを置いて故郷へお帰り願おうかのう!」
ユーミルの宣言と共に紋章が光り輝く。
「絶影の追跡者エリナ! あなたにミシェルをあきらめさせる!」
エリナの紋章が輝き、ユーミルの紋章と衝突し、光の柱が天井に向かって伸びていく。 降り注ぐ光の雨を受けながら、ナナエルは息を大きく吸い込んだ。
「では、良き戦いを見せて! 美闘士たちよ、もてるすべてを惜しみなく見せ、死力を尽くし戦うがいい! クイーンズブレイドの戦いを!」
宣言と同時に、ユーミルとエリナがお互いの間合いを探るように近づいていく。
「本当は戦う気はなかったんだけど」
「ならば譲ってくださるのかのう?」
二人はお互いの言葉が聞こえるぐらいの距離にまで近づき、機会を狙う。
「挑まれた勝負からは逃げない。それが支配者の務め、お姫様ならわかるでしょ」
「そうじゃな!」
ユーミルが仕掛ける。
分厚い戦斧がさながらとびかかる猛獣もかくやという速度でエリナに迫る。
エリナはとっさに飛び上がってそれを回避しようとする。
だが間に合いそうもない。
瞬間的判断でエリナは長槍を闘技場の床に突き刺した。
甲高い金属音が響き、長槍から伝わる振動がエリナの腕を痺れさせる。
「ほう! ワシの戦斧の一撃で折れぬとは、かなりの業物じゃのう」
ユーミルは感嘆の声を上げ、二撃目へと移る。
今度は余裕で回避、後方へと身を躍らせつつ、エリナは呼吸を整えた。
速度は互角、膂力はユーミルの方が勝っている。
まちがいなく強敵だ。
視線をちらりと貴賓席へと向ける。
そこには戦いを見守るミシェルたちとクローデットの姿がある。
この勝負、負けるわけにはいかない。
*
金属音に耐えきれずミシェルが耳を抑える。
そんな彼の態度に、クローデットは思わず笑みを浮かべそうになった。
エリナには申し訳ないが、ユーミルの勝ちは決まったようなものだ。
ユーミルの実力は、クローデットも認めるところ。
ドワーフの体躯が生み出す強靭な膂力は、見た目からは計り知れない威力の打撃と速度を可能としている。
その筋力は防御力にも直結し、ただの人間では動きを阻害する鋼鉄の鎧すら、彼女にとっては革鎧程度の存在となっている。
攻撃、防御、速度、この三つが極めて高い状態で上手く両立できている美闘士は、ユーミル以外にはいない。
たとえばエキドナは防御に難があり、かの戦闘教官アレインも攻撃力が高いとは言い切れない、かくいう自分自身も速度においてはユーミルに及ばないだろう。
すまない。
本当にすまない。
だが、連れ帰るにはこれしかないのだ。
心の中でエリナに詫びつつ、クローデットは敗北し、ミシェルと別れたエリナの頭を優しく撫でて慰める自分の姿を妄想した。
*
「強いわね……流石だわ」
「ほほう、褒めても手は抜かんのじゃぞ、なにしろ婿殿がかかってるのでな」
ユーミルは余裕のある笑みを浮かべ、ゆっくりと間合いを詰めてくる。
彼女の攻撃範囲が予想外に広いということは事前にアイリから聞いてわかっている。
そして戦斧が最大の威力を発揮するのは、遠心力が加わる遠方なのだ。
どうにかして内側に入らなければエリナに勝機はない。
「いくぞぉ! 覚悟するのじゃなぁ」
暴風のごとき衝撃波を伴いながら、ユーミルの戦斧が迫る。
直撃こそ、上手く避けているものの、その一撃がかすれるたびにエリナの衣服は切り裂かれ、柔肌が衆目に晒されていく。
「いつまで逃げられるかのう」
じわりじわりと近づいてくるユーミル。
その向こう側に見える貴賓席のクローデットがハンドサインを送ってくる。
姉妹でしか通用しない符丁。
これ以上、肌を晒すなというお叱りだ。
負けてもいいという意味合いのハンドサインをエリナは無視することに決めた。
まだ旅を終わらせるわけにはいかない。
レイナ姉様の姿を一瞥すらしていないし、マラマクスの扉に手をかけてすらいないのだ。
ここで諦めるということは、この旅で得たすべてのものを放棄することにつながる。
「義姉上、それは了承できないわ」
エリナは長槍のワイヤーに手をかけた。
このまま戦いを続けても勝機を得ることはできない。
ならば、賭けるしかない。
「でえやぁぁぁぁぁっ!」
気合のこもった叫び声と共に長槍を投擲する。
「ほう、賭けにでたか、じゃが狙いが甘いのぉ」
長槍の軌道から到達点を見切ったユーミルが余裕の笑みを浮かべる。
エリナの手から離れた長槍が落ちるのユーミルの背後だ。
避けるまでもない。
「なん……じゃと?」
だがユーミルは予期せぬものを見た。
長槍と同じ速度で、エリナが跳躍してくる。
しかも、その距離は常人が跳べるものではない。
エリナは鋼線から手を放さなかった。
長槍に仕込まれた鋼線は着地の衝撃によって巻き取りを開始する。
それによりエリナはさながら空中を飛ぶように長槍に向かって引き寄せられていく。
長槍とエリナの間には、ユーミルの姿がある。
予想外の出来事を受け、目をしばたかせているユーミルに向けエリナは空中で身体を回転させ、両足を揃える。
さながら自身を一矢に変えた一撃がユーミルの身体を確実に捕らえ、弾き飛ばす。
「ぐえッ! ぎゃッ! ひゃぁっ!」
エリナの全体重と加速が加わった一撃を受け、ユーミルは武器を手放し、闘技場の壁へと転がっていく。
その間に着地したエリナは速度を殺すことなく長槍を手にすると、一気呵成にユーミルへと詰め寄った。
「勝負あり……かしら?」
エリナの長槍が闘技場の壁に背を預けるユーミルの喉元へと当たる。
賭けが成立したか否か。
不意打ちに二度目はない。
ユーミルが他の武器を隠していて抵抗されたなら、エリナには打つ手がない。
「そのようじゃな……」
エリナの葛藤に気付くことなく、ユーミルはあっさりと敗北を認めた。
「勝者! 絶影の追跡者エリナァ!」
ナナエルの勝利宣言が闘技場にこだまする。
「これは大番狂わせ! でも、こういうことが起こるのがクイーンズブレイドなのよ!」
ナナエルの言葉に会場が湧き上がる。
「婿殿の件は残念じゃが、他をあたるとしよう」
大歓声の中で気落ちするユーミルの姿に、エリナは自ら勝利を得ることができた理由を悟った。
ユーミルが結婚をミシェル求める気持ちに対して、ミシェルとの旅を終わらせたくないというエリナの思いが勝ったのだ。
「それなんだけどね……心当たりがあるのだけれど」
勝者の余裕というものが生まれたのか、エリナはそっと囁く。
「この長槍、鍛冶屋カトレア作なのだけれど」
「ほうほう」
ユーミルは感心の声を上げた。
同じ武器を扱う者として、自分の自信作を受け止めた長槍の作者に興味がないわけではない。
「彼女のところにちょうど良いぐらいの男の子がいるのよ」
「それは良い話を聞いた」
ユーミルが手を差し出す。
エリナは彼女の手を握り、ゆっくりと助け起こすように手を引いた。
二人の姿に闘技場の観客たちが歓声を上げる。
会話内容が聞き取れない彼らにとって、二人はお互いの健闘をたたえ合っているかのように見えたのだ。
*
「ふう……」
エリナの勝利を受け、ミシェルは安堵の息を吐いた。
少なくともこれで旅を止めずに済む。
「あれ?」
ふと横を見れば一緒に観戦していたはずのクローデット将軍の姿がない。
「アイリ? クローデットさんは?」
「クローデット様なら、先ほど退室なさいましたわ」
「エリナ様のお義姉さんなら、もう少しお話してみたかったなぁ」
余裕がでてきたのか、ミシェルは残念そうにそういうと、健闘を称えお互いの手を握りあうエリナとユーミルに視線を向けた。
「良かったですわね、エリナ様……お義姉様からのお許しが出ましたよ」
「よろしかったのですか、将軍」
鋼鉄山からの帰路につき馬車の中で、クローデットは従卒に尋ねられた。
「何のことだ?」
「エリナ様のことです」
「何のことだ?」
クローデットは改めて告げ、視線で従卒を黙らせた。
「あえて言うが、私は鋼鉄山でエリナとは出会っていない。いいな」
「あ、はいッ」
従卒は冷や汗を流しながら背筋を伸ばした。
忠誠心からの諫言だとわかってはいるのだが、クローデットとしては、姉妹のことで他人に口を出させるつもりはない。
「だが、お前の発言は心にとめておこう」
クローデットの言葉を受け、従卒はさらに身を固くする。
その様子を受け、クローデットは軽く額に手を当て天井を仰いだ。
だが、無理もないことなのかもしれない。
エリナ配下の親衛隊と異なり、クローデット配下の騎士団は平民から起用した者が多くを締めている。
彼らにとってクローデットやエリナは雲の上の存在だ。
むしろこの従卒の勇気をほめてやりたいぐらいなのだが、上手く伝えることが出来ないもどかしさがある。
成長していないのは私のほうか。
クローデットは自嘲気味に笑うと、自らの判断が失敗していたことを認めた。
エリナは成長していた。
勝って当然の伯爵領での生活から、敗北を知り、苦心を体験し、失敗を己の糧とすることで、見違えるほどの強さを得ていたのだ。
それを無視しようとした自分の傲慢さに、クローデットは恥じ入るばかりだ。
「そういえばクイーンズブレイドについて尋ねたいのだが……」
「はい、戻り次第早速情報を集めます」
クローデットの態度がいつものものに戻ったことで従卒は安堵したのか、びしっとした口調で返答してきた。
「伯爵は反対なさるだろうが、女王を決めるこの戦いを無視しつづけることもできまい」
エリナはクイーンズブレイドに参加している。
ならば、自らも参加することで、彼女の敵となる美闘士の数を減らすことが、自分にできる手助けになる。
クローデットはそう思い、クイーンズブレイドへの参戦を決意した。
Episode 7 終わり
カトレアとニクスの騒動に巻き込まれていたミシェルと再会したエリナは、再びメローナと共に3人で姉レイナを追いかける秘境マラマクスへの旅を再開していた。
大陸北部につらなる山岳地帯。
これより北は万年雪に覆われた凍結地であり、旅人の姿もほとんど見ることのできない辺境である。
魔笛カテドラルの導きに従いマラマクスを目指して、エリナたち一行はこの山岳地帯へと足を踏み入れていた。
「ところでさ」
何かを思いついたのか、唐突にメローナが語りだした。
「笛の効果って、具体的にどんな感じなのさ」
「え?」
メローナの問いにミシェルは戸惑いの表情を浮かべた。
実際のところ、メローナも先の戦いで一度は笛を使っているはずだし、わざわざ感じ方を聞いてくる理由が思いあたらないのだ。
「使ってみたら?」
「いいねぇ、もう一回試してみたかったんだよ。ささ、ミシェル、笛を貸して」
エリナの提案にミシェルはさらに困惑した。
ミシェルがエキドナに攫われエリナとの再会を果たすまでに起きた出来事に関しては、簡単にではあるがエリナから聞かされている。
それによれば、メローナは自分の意思でエリナと一緒に旅をしているとはいえ、 ミシェルの笛を狙ってアイリを送り出してきた沼地の魔女の配下だ。
そんな相手に無造作に笛を渡してしまっていいものなのか?
渡した瞬間に「お宝はいただいた!」とか言って逃走でもされたら、目も当てられない事態になってしまう。
「ほらほらぁ、早くぅ~ん」
ミシェルの逡巡などお構いなしに、メローナは身体を伸ばして笛を催促してくる。
「大丈夫よ。メローナは持ち逃げしたりはしないわ」
戸惑いを見抜いたようにエリナがメローナを保証する。
「うん、トモダチのものを奪ったりはしないよ」
メローナが力強くうなずく。
エリナがそこまで言うのなら、彼女を信用していいのだろう。
「じゃ、じゃあ、使ってみる?」
そっと笛をメローナに渡す。
「ふぅーん、これがねぇ」
不定形生物であるメローナが笛を手にした瞬間、普段とは違う感覚がミシェルの身体に走った。
暖かくしっとりとした感触に包まれているような感覚、普通に指で撫でられているのとは比較にならないほどの密着感に、ミシェルは戸惑った。
そんなミシェルのことなどお構いなしに、メローナは指先を変化させて笛の中をまさぐりだす。
「あう……ああっ」
笛と感覚を共有するミシェルにとって、体内をまさぐられるに等しい感覚だ。
「こ、こんなの……初めて……だよぉ」
立っていることもままならない。
ミシェルは荒い息を吐きながら、その場に座り込んだ。
「じゃあ、こんなのはどうかな?」
頬を紅潮させたミシェルの姿に、メローナはニヤリと唇をゆがませ、さらに笛を体内へと潜り込ませた。
「あう、あ……」
笛のあらゆる箇所から伝わってくる刺激にミシェルはもう耐えられそうもない。
「そろそろ止めてあげた方がよろしくはありませんか?」
エリナに不意に声がかけられた。
「そうねぇ……って、アイリ!」
同意しつつ振り向いたエリナが驚きの声をあげる。
「はい。アイリでございます」
エリナの傍らで微笑みを浮かべ、アイリが礼儀正しく一礼する。
「メローナ、沼地の魔女さまからの命令です。そろそろ戻って来るようにと」
「えー、もう戻らないといけないの?」
笛を体内からにゅるっと排出しながら、メローナが不満の声を上げる。
「契約の更新が必要なのでしょう」
「うわぁ、それがあったか」
メローナは顔をしかめた。
「契約ってなによ?」
エリナが尋ねる。
「あー、ボクぐらい強い魔物になるとねぇ、召喚した時にいろいろと面倒な取り決めが必要になるんだよ」
メローナ自身が幾度か口にしていたように、彼女には様々な制約が課せられていた。
エリナと共に旅をするために、わざわざクイーンズブレイドをして願いを叶えなければならなかったことからも、彼女を縛る契約が強力な物であることが伺える。
「無視するわけにはいかないの?」
エリナとしてはメローナと別れたくはない。
明確に口にこそ出さないが、メローナとの旅は楽しかったし、奇想天外な出来事も多く得難い経験だったのだ。
「無視するとねぇ……罰則が来るんだよぉ」
「どんなことが起こるの?」
「えっとぉ」
「まずメローナが形を保てなくなります。次に強制的に沼地の魔女の元へと向かわされます。本人の意思と無関係ですわね」
口ごもるメローナにかわってアイリが答える。
「そして契約に乗っ取り拘束されます。そうなるとメローナの意思とは無関係に沼地の魔女さまの命令を第一に行動する下僕となることでしょう」
「そうならないために一度は戻らないとねぇ」
メローナはため息まじりに言いながら、笛をミシェルに返す。
「そういうことならしかたないわね。さっさと帰りなさい」
ミシェルを立ち上がらせるアイリを傍に見ながら、エリナはメローナに言った。
「えー、帰っちゃっていいのぉ」
「帰ってくださって結構ですわ。エリナ様のお世話は私がいたしますので」
アイリが一礼し微笑む。
「じゃあ、ボクはこれで帰るけど、寂しいからって泣いちゃダメだよ」
「泣くわけないでしょ」
エリナは笑みを浮かべ、手をふってメローナを見送る。
「寂しくなるのは確かだけどね」
ぼそっとつぶやいた一言は、周囲に聞こえることはなかった。
「では、エリナ様、先を急ぎましょう」
「そうね。日が暮れる前にたどり着きたいわ」
山岳地帯は日暮れと共に一気に冷え込む。
野宿だけは避けたいところだ。
「ところでアイリ……何か忘れてないかしら?」
エリナに言われ、アイリは頭を下げながらその場に跪いた。
「お待たせいたしましたエリナ様、貴女の奴隷たる死霊メイド、アイリ」
名乗りと共に、エリナの所有物であることを示す首輪に手を触れる。
「ここに到着いたしました。再びお仕えすることをお許しいただけますか?」
「許す。ただし、前回のような失態は二度とごめんよ」
「はい、一命に変えて」
「一命って、アンタ、死霊でしょう」
「心構えの問題ですわエリナ様」
微笑みを浮かべるアイリ。
「ま、いいわ。頭を上げていいわよ」
エリナの許可を得てアイリが立ち上がる。
「ねえ、そういえばさ、どこに向かってるの?」
二人のやり取りが終わるのを待ってミシェルは尋ねた。
向かうのはマラマクスだが、今夜の宿に定めているのは……。
「鋼鉄山よ」
「急げば日暮れ前にはたどり着けるはずですわ」
鋼鉄山は巨大な地下洞窟で構成されるドワーフたちの居住地である。
地下の溶岩の熱量を利用した鍛冶や、温泉、豊富な地下資源をもとにした巨大工廠として大陸全土に名を響かせている。
無数の地下通路で結ばれた数ある洞窟の中で、最も大きな洞窟のなかで威容を誇る巨大な鋼鉄城。
その一室に二人のドワーフの姿があった。
うんざりとした表情の姫君と、ややあきらめ顔の年老いた侍従だ。
「じゃーから、ワシにこいつらと見合いなどする気はないと言っておるじゃろー」
いかにもめんどくさいという気持ちを隠すことなくあからさまに表情に浮かべ、鋼鉄山を統べるドワーフの王女、鋼鉄姫ユーミルは侍従へとむさ苦しい髭の男たちの似姿が描かれた絵版を突き返した。
「しかしですのう」
侍従はぐいと身を乗り出す。
「姫もそろそろ適齢期、身を固めていただきませんとぉ、我ら一族の未来にかかわりまするゆえ、ぜひとも決めていただきたいのですがぁ」
「わかっておるわ!わしとて結婚する気はまんまんじゃ。だからこのように常に婚姻と臨戦態勢にあるバトルドレスをまとっておるではないか」
「ならせめて、この者たちの何が気に入らないかだけでも教えていただければ……」
「そうじゃのう」
ユーミルは侍従がテーブルに広げた絵版に目を移した。
「まずは、こやつ」
絵版をぐいと押し出す。
「こやつはわしより弱い。ドワーフでありながら得意な武器が斧ではのうて細剣とか、ふざけておるのかッ」
ユーミルは一喝した。
ドワーフたるもの肉厚の戦斧か鉄槌を軽々と振り回すもの、そんな思いが彼女にはある。
「つぎにこやつ、年を取りすぎじゃ! 爺と同じ年齢ではないかッ」
「しかしぃ、シュテミル殿の実績は見事なものですぞ、お使いになる大戦斧は竜砕きと呼ばれるほどの……」
「あー、竜砕きは見事な一品じゃがの」
ユーミルが目を細める。
「最近は腰が痛くて持ち上げられずに難儀しておると聞いたぞ」
「どなたにですかのぉ?」
「シュテミル本人にじゃ、直接、嫁に来いと言いに来たぞ、あの爺さま」
「うぬぬぬぅ、ワシの立場を」
侍従は眉間にしわを寄せ、シュテミルの絵板をひっこめた。
これで彼は婚約者候補から落脱である。
「ワシの条件はな、ひとつ、ワシよりも強いこと!」
「姫様よりも強いとなると中々、見つからぬかとぉ」
「きちんとした理由があるのじゃ」
「お聞かせ願えますかなぁ」
「うむ、それはじゃな、夫婦喧嘩をしたとする」
「ふむふむ」
「わしが間違っていた時に、力づくでも抑えられる相手でないと、困るじゃろう」
侍従がうなづく。
一国の主が間違えた時に止めることが出来る人物の有無は、国家としての健全性を意味するのだ。ユーミルがそこまで考えていたのかと、侍従は勝手に得心した。
「ですが姫様、日常的に暴力を振るわれては困るのではぁ?」
「そんな蛮族じみた男は願い下げじゃ」
「ですのう」
「つぎに、若いことじゃ! せっかく結婚して、すぐに先立たれて未亡人になるのはごめんじゃ」
これもまた理解できる。
「あとはのう……」
ユーミルは次々と条件を出していく、困ったことにその条件のいくつかは侍従にも納得できるものであった。
「まあ、ワシが自分で見つけてくるので、しばしまつがよい」
最後には、そう言って花婿候補たちの絵板を侍従に突き返すのが、このところのお決まり日常であった。
*
「お待たせいたしましたなぁ、クローデット殿」
侍従は客間に入るや、まずは自分が客を待たせてしまったことを率直に詫びた。
相手は一国の将軍、大口の取引になりそうな話を持ってきている。
誠意を見せて悪いことはひとつもない。
「気にされることはない、こちらは買わせてもらう側だ。無理を言っていることもわかっている」
謝罪を受け入れつつ、クローデットは自分たちが出した条件が無茶なものであったことを認めた。
伯爵領の軍事を掌握するクローデット将軍が自ら鋼鉄山を訪問し、直接交渉に乗り出してる理由は、ただ一つ。
隊長各の武具を鋼鉄山の高品質なもので統一するためである。
「鋼鉄姫はいかがされたのか?」
商取引に代表者であるユーミルが同席していないことにクローデットは軽く眉をしかめる。軽く見られているのだとしたら、少しは考えを改める必要がありそうだ。
「姫はですなぁ」
侍従は困ったように目をしばたかせると大きくため息を吐いた。
「このような話は身内の恥なのですがぁ」
「安心なされよ。他言はせぬ」
「実はですなぁ、姫に婚約者を紹介していたのですがぁ、どうにもお気に召されないようでしてなぁ、自分で探すといって出て行ってしまわれたのですじゃぁ」
侍従は申し訳ないと頭を下げた。
「頭を上げられよ、侍従殿」
妾腹とはいえクローデットも伯爵領の姫君だ。
婚約者を押し付けられるユーミルの気持ちもわからないではない。
将軍という地位になければ、早々に政略結婚をさせられていたことは想像に難くない。
「姫君には後程御目通り願うとして、まずは実務的な話をすすめようではないか」
クローデットの提案に侍従は大きく頷いた。
「うわあ……」
鋼鉄山の入口である洞窟を潜り抜けた先に広がる景色にミシェルは感嘆の声を上げた。
天井が高い。
それだけではない。
人間の街にいるものと変わらないほどの明りが確保されている。
入口を潜ってさえいなければ、ここが地下だとは思えないだろう。
「上ばかり見ていると危ないですよ」
先を進むミシェルにアイリが注意を促す。
エリナは鋼鉄山の中に入るや、何かを見つけたらしく、二人に宿の手配を任せて先へ進んでしまった。
今はアイリとミシェルの二人だけだ。
「前回のこともありますし、少しは警戒しませんと……」
アイリは周囲に目配せし、怪しい気配をさぐる。
二人から目を離した隙にエキドナの強襲をうけたことは忘れてはいない。
あの場に自分がいたのなら、むざむざとミシェルを連れ去られたりはしなかったはずだという自負がある。
ミシェルにしてみれば、そんなアイリの仕草が一番あやしく見えるのだが、あえてそこは口にせず、彼女の後をついていく。
不意に横道が現れ、アイリとの距離が離れた瞬間、その事故は起きた。
ミシェルが感じたのは、どんという衝撃と暗転する視界。
「うっく……」
何が起きたのか?
戻ってきたミシェルの視界に広がるのは、桃色の光に透かされた純白の布地だった。
「え?」
「お、おぬし、何をしておるのじゃ?」
頭上から女性の声が聞こえてくる。
「出会いがしらに体当たりをかましたうえに、スカートの中に頭を突っ込んでくるとは大胆にもほどがあるのう」
少しだけ怒りを含んだ口調で現状を説明されたミシェルは、慌てて立ち上がろうと手を地面につき、頭を起こした。
その時、ミシェルの手と地面の間に純白の下着を左右で止めている白い紐が挟まったことに、二人とも気付くことはなく……。
相手が立ち上がった瞬間に、悲劇が起きてしまった。
「うわっ!」
見上げたミシェルの顔を再び白い布が覆い隠す。
「……き、きさまーッ!」
怒気をはらんだ声が通りに響きわたる。
「こ、これは……その……偶然というか……」
「ええい、目をあけるでないッ!」
ミシェルはまだ跪いたままだ。
この位置で顔を上げれば、当然のようにスカートの中を目撃することになる。
そして、スカートの中で重要な部位を隠すために存在する下着は、何故かほどけてミシェルの顔にかぶさっているのだ。
「問答無用じゃあー! この破廉恥者めーっ!」
「ぎゃーっ!」
ゴインと打撃音が響き、ミシェルの頭に激痛が走る。
彼の意識は、まばゆい光のごとき衝撃を伴い失われていった。
何事が起きているのかと、振り向いたアイリが見たのは、ドワーフ少女の純白の下着を顔にかぶせたまま、頭に巨大なたんこぶをつくって気絶しているミシェルの姿であった。「ミシェルさま!」
アイリは大慌てで駆け戻る。
目を離したすきにこれだ。
「ん? お主は何者じゃ?」
ミシェルを気絶させたドワーフ少女はいそいそと下着を履き直しながら割って入ってきたアイリの素性を尋ねた。
「私はアイリ。エリナ様にお仕えするメイドでございます」
「ほう? その小僧の名前はエリナというのか?」
「いえ、こちらの坊ちゃまはミシェルさまで、エリナ様が庇護下においておられるお方でございます」
「そうか、ミシェルというのか」
ドワーフ少女はまじまじとミシェルの顔を覗き込む。
「ふむ、改めてみると意外と良い顔をしておるな」
ドワーフ少女はニヤリと笑った。
「我が名はユーミル、この鋼鉄山の王女じゃ」
名乗りを受け、アイリは思わず引き下がった。
鋼鉄山の王女に対し、無礼を働いたとなればどのような事態になることか。
ましてやエリナが不在の折にである。
可能な限り穏便にすませなければ、立つ瀬がない。
「つまりアイリ、お主はこの小僧の保護者なのじゃな?」
「身の回りのお世話をしているだけで、保護者ではございません」
保護者はエリナだ。
「まあ、よい。その小僧を連れてついてくるがよい」
「いえ、でも……エリナ様と別れるわけには……」
「あぁ、そやつが何者かは知らぬが、鋼鉄山のユーミルの名を知らぬ間抜けではあるまい。そなたらをワシが連れて行ったと知れば、ワシの元に来るじゃろう」
「しかし……」
アイリはユーミルの申し出をしぶった。
得てして王侯貴族というものは我儘なものである。
その懐に入ったら、どのような目に遭うかわかったものではない。
「婚約者を連れて帰るのは当然であろう」
「こ、婚約者?」
ユーミルが口にした言葉にアイリは多いに困惑した。
ミシェルと彼女は顔見知りではない。
ついさっき出会ったばかりのはずだ。
「こやつは、ワシにプロポーズしたのじゃぞ」
「ど、どうしてそうなるのです?」
「うむ、これを見よ」
ユーミルはスカートの外へと伸びている純白の紐をつまみ上げた。
「これは下着を止める紐じゃ」
「見ればわかりますが」
「我が一族の未婚女性は、この紐を長く垂らすのがしきたりとなっておる」
実のところ、そんなしきたりは存在しない。
一見でミシェルを気に入ったユーミルがとっさに思いついた嘘なのだが、ドワーフの風習に明るくないアイリはそれを見抜くことはきなかった。
「この紐を引き抜いて、下着を奪うことが出来れば求婚成立なのじゃ」
今は再びユーミルの元に戻っているが、あの下着をミシェルが偶然とはいえ引きはがしてしまったことは紛れもない事実だ。
「つ、つまり……ミシェルさまは……」
「ワシに求婚したとうことになるのじゃな」
当然の出来事に、アイリは困惑し思考を停止した。
「さあ、小僧を連れてついてまいれ」
「そ、それを認めるわけにはいきません」
意識を取り戻したアイリがミシェルをかばうようにユーミルの前に立ちはだかる。
「ほう、ではなんとするのじゃ?」
「お断りさせていただきます」
「辱められたのは、ワシのほうじゃぞぉ~」
ユーミルがわざとらしく顔を覆って、腰をくねらせる。
「う……」
事実を前にアイリは思わずたじろいだ。だが、このままというわけにはいかない。
「で、ですが……ご主人様に断りもなく、ミシェル様を連れて行かせるわけにはまいりません!」
鎌をかまえ、アイリは大きく見栄を切った。
「戦うというのか、面白いのう」
ユーミルは、にやりと笑みを浮かべ戦斧を手にする。
「受けて立つぞ! 鋼鉄姫ユーミル! お主にクイーンズブレイドを申し込む!」
宣言と共に光り輝く紋章が出現する。
「冥途へ誘うものアイリ! 挑戦をお受け致しますわ」
だが、ここは地底だ。
二人の紋章が衝突し、光の柱が天井に向かって伸びる。
いつものように天空高く伸びるほどの高さはない。
光の柱は天井部で拡散し、飛び散っていく。
「さーてさて、ナナエル様のご登場でございますよぉ!」
クイーンズブレイド開催宣言を受け、審判の天使たるナナエルが地底空間へとその姿を現す。
「さあ両者、要求を述べよ」
ナナエルに促され、ユーミルが顔あげ高らかに宣言する。
「ワシの要求は、そこなミシェルを連れていくことじゃ!」
「私の要求は、それの阻止でございますわ」
「うわあ、わっかりやすくていいねぇ」
ナナエルが気絶したままのミシェルを一瞥し、ニヤリと笑う。
「またあんたかぁ……モテモテだねぇ」
小声でつぶやいてから、ナナエルは息を大きく吸い込んだ。
「では、良き戦いを見せて! 美闘士たちよ、もてるすべてを惜しみなく見せ、死力を尽くし戦うがいい! クイーンズブレイドの戦いを!」
宣言と同時に、ユーミルとアイリが行動を開始する。
お互いに長柄の武器で、間合いは広い。
一撃あたりの打撃力はユーミルが優勢。
だが、アイリには秘策がある。
アイリ自身が死霊という特性だ。
聖別された武器もしくは、魔法の加護を得た武器でなければアイリそのものを効果的に傷つけることは出来ない。
過去において甲魔忍者に後れを取ったのは、彼らが死霊を相手にするための対策をしてきていたためであり、偶然にも遭遇戦となったユーミルがそのような手段を有しているとは、この段階においてアイリはこれっぽっちも思っていなかったのである。
「早いのう」
アイリの素早い動きにユーミルは感心したように声をかけた。
実際にアイリが鎌を振るう速度は掛け値なしに素早いといって良いものだ。
短剣を投げる速度に比類するといってもいい。
「じゃが、読み安いのぉ」
鈍い音を立ててアイリの鎌が弾かれる。
「重い?」
予想外の手ごたえにアイリは困惑した。
「重いとは失礼な」
唇を尖らせながらユーミルが戦斧を回転させながら、持ち手を緩める。
戦斧は遠心力を利用し柄が大きく延び、飛びずさろうとしたアイリの身体を射程圏内に捕らえ、メイド服を右から切り裂く。
「ぐはっ!」
死霊であるアイリの身体に衝撃が走る。
「それ、もう一撃じゃ!」
ユーミルがくるりと手首を返す。
たったそれだけの最小限の動きで、アイリに体勢を整える隙を与えるずに、右へと切り抜けた刃が戻る。
「きゃぁ!」
悲鳴を上げることしかアイリにはできない。
この武器は危険だ。
死霊である自分の幽体を直接、切り裂きに来ている。
このまま戦いを続ければどうなるか、アイリは瞬間的に判断した。
ユーミルの要求はミシェルを連れていくこと。
それだけなら、後でいかようにも対応する手段はある。
ここは、消滅する危険を回避し、ミシェルと共にあることが重要だ。
アイリは鎌から手を放し、両手を上にあげた。
「おや、降参かのう?」
アイリの脇腹へと触れる直前で戦斧がぴたりと止まる。
「はい、降参でございます」
「え~、わざわざ来てあげたのにもう終わり~?」
思わぬ決着にナナエルは唇を尖らせ、不満の表情を浮かべた。
「ならば、その小僧をつれてついてまいれ。ちょうど世話をするメイドも欲しかったところなのじゃ」
後編へ続く
「真の主人ですって?」
ニクスが動きを止め、カトレアもまた様子を窺うように制止する。
三者それぞれがお互いの出方をうかがう状況だ。
(さて、どっちと戦うべきかしらね?)
半ば勢いで戦場に乱入したものの、エリナは状況に対して困惑していた。
カトレアの超回復力はおそらくミシェルの笛によるものだろう。
相手をしてる魔法使いを撃退してからミシェルを取り戻すべきか、それとも魔法使いと共闘して奪取するべきか……。
「エリナ様ッ! ラナを助けてあげて」
ミシェルの声で、エリナはどう動くべきかを決めた。
だが、すぐには動かない。
「エリナ様?」
「ミシェル、久しぶりだから礼儀を忘れてしまったのかしらね」
長槍を構えつつ、やや冷ややかな視線をミシェルへと向ける。
「お願いします。エリナ様」
ミシェルは姿勢を正し、エリナに懇願した。
「あと……たぶんだけど」
「何よ?」
「きっとカトレアさんが、ぼくの笛を持っていると思うんだけど……」
ミシェルは小声で囁いた。
「ああ、隠しようのある身体してるものね」
エリナはカトレアの豊満な肢体に目を細める。
「取り返してくれないかな……」
「メローナ、分かった?」
「はいはい、エリナは魔物使いが荒いねぇ」
エリナは一連の話を聞いていたメローナに声をかける。
行動を共にしてきたことで、エリナは彼女に対して信頼をおくようになっていた。
メローナもまた、エリナの意図を察して行動する。今回は、ニクスの元からラナを取りもどし、エリナが自由に戦えるようにするのが主目的だ。
「やるべきことは……わかってるわよね」
「ボクをなんだとおもってるのさ」
メローナは目元をにやけさせ、エリナに答えた。
エリナと行動を共にしている珍妙な魔物を見て、ミシェルが驚く
「か、彼女は?」
「自己紹介は後にて、まずはやることをやっちゃいましょ」
「お願いします。エリナ様」
「よろしい。まずはラナ……あそこの子供を助けてくればいいのね」
エリナがパチンと指を鳴らす。
彼女の背後に控えていた桃色の衣装を身にまとった女性の姿がぐっしゃっと崩れ、地面へと浸透していく。
「ひっ?」
あまりも予想外な出来事にラナは短い悲鳴を上げ身体を固くし、彼を小脇に抱えていたニクスは大きく姿勢を乱した。
「あ、こら、ダメだってば」
「じゃんじゃじゃーん、メローナ登場ッ」
ニクスの足元から温泉が噴き出すかのような勢いで、桃色の液体が噴き出す。
「な、なんなのよ。アンタは!魔物?」
「そゆことー、んじゃ、この子はもらってくね」
するりと滑らかにメローナの身体がラナを包み込み、ニクスから引き離す。
「逃がさないッ」
すかさずニクスが火球を放つ。
ラナを抱えていては避けることはできない。
メローナはとっさに、火球の当たる部位の厚みを増しラナを守る。
「ひやあああああっ」
自分の身体が蒸発していく音にメローナが悲鳴を上げる。
刃や打撃で傷つくとのない変幻自在の肉体を持つ近い彼女にとって、ニクスの火炎魔法は最大の天敵ともいえる存在だ。
「やばいよー、シャレにならないよぉ」
ラナを抱えたまま、体積を減らしたメローナがカトレアの側へと転がるように向かう。
「お、お母さんッ!」
「ラナッ、大丈夫なの?」
カトレアがラナを迎えるように手を広げる。
「はーい、お母さん、子供を手放しちゃだめですよぉ」
茶目っ気たっぷりに言いながら、メローナがラナをカトレアに向けて放出する。
「ちょ、ちょっと、この展開は……」
母親の元に戻ったラナに、ニクスが恨めし気な視線を向ける。
「これじゃあ、アタシがただの子供をさらった悪役じゃない!」
「ご、ごめんなさい」
「あ、あたしはラナくんを助けたかっただけなのに」
「当てが外れたみたいね」
エリナが小ばかにしたように笑う。
「でも、その子供の姿をした化け物は退治させてもらうわよ!」
ニクスがフニクラを振り上げ、ミシェルに視線を向ける。
だが、そこに立っていたのはミシェルではない。
彼を背後にかばうように、エリナが長槍を構えて立っている。
「あ、あんたは何者なの」
「さっき名乗ったと思うけど。庶民は物覚えが悪いのかしら?」
庶民という一言にニクスはいら立ちを感じたのか、こめかみを震わせる。
「その言い草でよくわかったわ。あ、あんたはあたしの敵だ」
「そういうことになるわね」
エリナは軽く長槍を回転させ、見栄を切った。
「絶影の追跡者エリナ、美闘士としてクイーンズブレイドを申し込むわ!」
エリナの前に紋章が輝く。
「う、受けて立つわ」
ニクスの前にもまた紋章が輝く。
「炎の使い手ニクス! クイーンズブレイドを承知するわ!」
二人の紋章が衝突し、光の柱が天井に向かって伸びる。
「さーてさて、ナナエル様のご登場でございますよぉ!」
クイーンズブレイド開催宣言を受け、審判の天使たるナナエルが月を背後に顕現する。
「さあ両者、要求を述べよ」
ナナエルに促され、エリナが顔を上げる。
「私の要求は……」
エリナが口ごもる。
勢いでクイーンズブレイドを宣言したものの、要求までは考えていなかった。
「とりあえず、私に負けたら、ここから立ち去りなさい」
「お? エリナちゃん、そんなんでいいの?」
ナナエルがクスクスと笑う。
「私をなんだと思ってるのよ。いちいち下僕を増やしてたら、管理が大変じゃないの」
「あー、そうだよねぇ」
「伯爵家たるもの、一介の下僕であってもしっかりとした報酬と立場を用意しないとならないのよね。それに」
エリナは半ば呆れたような視線をニクスに向けた。
「従えるべき武器に、従えられてるような奴はいらないわ」
ギリッとニクスが歯を食いしばる。
図星をさされた。
ニクスの力は、フニクラによって与えられているものだ。
基本的にフニクラに「お願い」することで発動しているものにすぎず、細かい調整などは出来ていないのが真相なのである。
「では、ニクスの願いはなにかな?」
「あ、あたしの願いは……、エリナ様が負けたら、あたしの下僕になってもらうわ!貴族のご令嬢が庶民の下僕! あんたには報酬も立場も無しよ!」
ニクスはわざとらしく「エリナ様」と小ばかにしたように強調した。
「さあ、良き戦いを見せて! 美闘士たちよ、もてるすべてを惜しみなく見せ、死力を尽くし戦うがいい! クイーンズブレイドの戦いを!」
ナナエルの宣言と同時に、二人は行動を開始した。
*
「さて、ボクも仕事をしなくちゃねー」
ラナを奪還したメローナがいたずらっぽく微笑みながら、カトレアを見る。
「え?」
「ミシェルくんだっけー、ラナくんの目を隠しておいてねー」
「な、何を?」
カトレアが目を丸くして身構える。
「大丈夫、ボクは貴女の敵じゃあないからねー、力を抜いたほうがいいよぉ」
人の姿を崩して、大きく広がったメローナがカトレアを包み込む。
「あ、いやぁっ」
全身を包み込み、身体のあちこちを探るように蠢くメローナの動きに、カトレアが小さな悲鳴を上げる。
だが、それも最初だけのことだ。
メローナの微細な動きが、衣服の内側を探りはじめると、カトレアの押し殺したような悲鳴は、種類の違うため息じみたものへと変化していく。
耐え忍ぶ苦悶の声から、嬌声を堪えるような押し殺した喘ぎ声へと……。
「あー、子供に聞かせちゃまずいよね。ミシェルー」
メローナの意図を察して、ミシェルはラナの目だけではく耳もふさいだ。
「な、何するの!」
「ごめん、ラナ、本当にごめん」
謝りつつも、ミシェルは目の前で繰り広げられる情景から目を離せない。
液化したメローナがカトレアの豊満な肉体の隅々を探っていく。
メローナの身体が蠕動するたびに、カトレアは頬を上気させ、切なげな吐息を漏らす。
その姿はあまりにも煽情的すぎ……ラナには到底、見せられるものではなかった。
*
「燃えな!」
火球がエリナに迫る。
「大技に頼るのは自信のない証拠よね」
エリナは火球を際どく回避し、距離をつめた。
速度はエリナの方が早い。
だが、一度に繰り出す攻撃の数はニクスの方が上であった。
「フニクラ様ッ!」
無数の触手の先から、小火球が飛び散る。
普通の火球が点の攻撃とすれば、小火球は面の攻撃だ。
カトレアの大剣ほどの大きさがあれば、盾のようにして弾くことも可能だろう。
だがエリナの長槍では面の攻撃を防ぐことが難しい。
先ほどのように回転させることが出来れば、遠心力と風圧で弾き飛ばせることもできるかもしれないが、エリナはあえてそれをしなかった。
「火傷だけじゃすませないからね、覚悟!」
フニクラの触手に二撃、三撃目の小火球が点火される。
たとえ一撃目を回避したとしても、連撃でエリナを仕留めるつもりなのだ。
一発の威力は低いとは、肌を焼く痛みは判断力と行動力を鈍らせる。
「フニクラ様、フニクラ様ってやかましいのよ。アンタは!」
卓越した身体能力を駆使し、一撃をかいくぐったエリナが長槍を突き出す。
回転させていたのでは、すばやく突き出すことはできない。
防御よりも攻撃を優先した超高速の突きに、フニクラが危機を感じて目を細める。
フニクラの反応により、ニクスの攻撃に乱れが生じたことをエリナは見逃さない。
戦いの場数が違うのだ。
エリナが狙っていたのはニクスではない。
彼女の魔法の源であるフニクラだ。
フニクラさえなければ、ニクス本人など恐れる必要はない。
勝機をつかんだ。
エリナがそう思った瞬間、予期せぬ方向から脇腹に衝撃が来た。
「ぐはっ!」
ニクスの膝が、エリナの脇を直撃している。
「ゆ、油断したわね、お嬢様」
ニヤリと笑いながらニクスが二撃目の蹴りを放つ。
「フニクラ様と出会う前はね。この身体だけで渡り合っていたのよ」
長い脚がしなり、打撃力を生み出す。
だが、二撃目を許すエリナではない。
身体を大きく地面に近づけて、ニクスの回し蹴りを避ける。
ニクスもまた負けてはない。
回し蹴りは、次の攻撃のための目くらましだ。
回避された勢いのまま、身体を回転させて、フニクラを突き出す。
火球の充填は終わっている。
「消し飛びな! お嬢さま!」
零距離での大火球爆発。
当然、ニクスもただではすまない。
攻撃を放った彼女自身も衝撃に吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
「ごほごほ。ど、どう? 庶民でもお嬢様に勝てることがわかった?」
軽く咳き込みながら、ニクスは爆発点へ目を向けた。
そして、見た。
悠然と立つエリナの姿を。
「そんな、バカな?」
「バカも何も、これが現実よ」
エリナは笑みを浮かべ、長槍をニクスに向けて打ち出した。
大技を繰り出したフニクラに次の火球を作る余力はない。
槍に貫かれる己の姿を想像し、ニクスは目を閉じた。
だが、痛みは訪れない。
打ち出された槍が、太ももの間に突き刺さっている。
僅かでもずれていたら下腹を貫いていたことだろう。
「な、なんで」
ニクスの問いかけに、エリナは無言でカトレアとラナへ視線を促した。
「詳しいことはわからないけど、アンタ、あの子のお願いで動いたんでしょ」
『ラナ君を助けたかっただけ』
ニクスのその一言から、エリナは大まかな事情を察していた。
「子供の願いを聞いて動くような奴を、子供の前で血まみれにはできないわ」
「くっ……殺しなさい!もう2度とお情けは受けないわ!」
「殺さないわよ。この程度で殺してたら、正義の味方がこの世からいなくなっちゃうじゃないの」
エリナの言葉に、ニクスは大きく息を吐いた。
「これだから……貴族は嫌いよっ」
そうつぶやくと、天上で戦いを見守っていたナナエルへと目を向ける。
「あたしの負けです、天使様」
「勝者! 絶影の追跡者エリナ! 敗者は勝者の願いを受け、ただちに立ち去るべし」
ナナエルの声が戦場となった村に響き渡る。
久しぶりに感じた勝利の感触に、エリナは誰にも気づかれないように拳を握った。
朝焼けの光が戦場となった村を照らす。
クイーンズブレイドで敗北したニクスは、何も言わずに去っていった。
ラナがミシェルを追い出すように頼んだことは、二人だけの秘密となった。
ラナは涙をためながら、小さくなっていくニクスの後ろ姿をいつまでも見つめていた。
「エリナ様……お見苦しいところをお見せしてしまいました」
照れたように恥じらいながら、カトレアがラナと共に頭を下げる。
カトレアの身体から笛を探し出したメローナは、どこに隠してあったかは明確に口にすることはなかった。
まあ、言わなくても笛の感触でわかるでしょ。にししと言ってはいたが。
そのメローナも、笛の効果でフニクラによって吹き飛ばされた体積を取り戻している。
うわ、すっげー、これ!
笛に対するメローナの感想だ。
「頭を上げてください。カトレア殿」
いかにも貴族の令嬢らしい口調で、エリナはカトレアに告げた。
「私の方から礼を言わねばなりません。あの魔法使いに勝てたのもあなたが作った槍のおかげ。それに、ミシェルを保護していただき、ありがとうございました」
エリナの言葉を受けてカトレアが顔を上げる。
「ミシェル、ごめんなさいね」
笛を手にしたミシェルにカトレアが詫びる。
「詫びる相手が間違ってますよ。カトレアさん」
ミシェルは柔らかく微笑むと、彼女の傍らで心配そうにこちらを見つめているラナへと目を向けた。
「ラナ、ごめんね。ぼくのせいで大変なことになっちゃったね」
ラナは答えず、カトレアの背後へと隠れる。
自分のしたこと、引き起こした結果を理解しているのだろう。
「悪いのは私。ラナじゃないわ」
カトレアはそんなラナの頭を優しくなでた。
「ごめんなさい、ラナ。お母さん、ちょっと間違っちゃったみたいね」
そんな親子の姿にエリナは安堵し、身を引く。
ごめんなさいの応酬はもう十分だ。
周りを見れば、ニクスが立ち去り、戦闘が終わったことを知った村人たちが、吹き飛んでしまった武器屋の周りに集まっている。
「災難だったねえ、カトレアさん」
「立て直しせんといかんねぇ」
「しばらくは俺の家で暮らしなよ」
村人たちが次々とカトレアに声をかけてくる。
小さな村だ。
困ったときはお互い様の精神が根付いているのだろう。
「さて、長居は無用ね」
エリナはこちらへ視線を向けているカトレアに手を振り、別れの挨拶とした。
武器屋の再建はカトレアのするべきことで、そこまで付き合う必要はない。
本来の目的であるミシェルとの再会は無事に果たされたのだ。
「これからどこにいくのさ」
「そうね。まずはゆっくり休める宿屋のある所へ行きましょうか」
メローナの問いにエリナが答える。
「ここしばらく移動続きだったものね。身体を休めたいわ」
話しながら村を去っていく三人の背中に向け、カトレアは静かに頭を下げた。
*
「ところでさ、どうやってニクスの最後の攻撃をかわしたのさ」
「ああ、あれ、ぼくももうだめかと思った!」
メローナとミシェルの問いに、エリナはちょっと自慢気に胸を張った。
「あれはね。エキドナのところで身に着けた技を応用したのよ」
終盤においてニクスの回し蹴りを避けるため、エリナは大きく地に伏せた。
本来ならば、地に伏せた身体をバネのように伸ばし、下方から上方に向けて飛び上がるように切り裂く必殺技なのだが、エリナは違う使い方をした。
爆発により生じた熱は上に向かうことを、エリナは知識として知っている。
全周に向かって放たれる衝撃波を、地に伏せた自らの身体をさらに地面に叩きつけることによって生じる衝撃波で相殺し、熱が上方へと移動したのを待って、立ち上がったのである。
衝撃波を生み出すほどの勢いで地面に当たったことで、自分も痛手を負っていたなどとは口にしない。
支配者たるもの、弱みを口にするべきではないのだ。
「へえー、凄いやぁ」
ミシェルが素直に関心する一方、メローナはニヤニヤと笑う。
おそらくエリナがあえて言わずにいることを察しているのだろう。
「凄いでしょ。あたしは、常に精進を怠らないのよ。向上心の無き者、支配する者の器にあらずってね」
えへんと胸をはるエリナ。
「向上心はとってもいいんだけど、習得に夢中なってなければもう少し早く来れたんじゃないのかなぁ」
「なによ。誰かさんが凍り付いてたせいもあるじゃないの」
メローナの言葉にエリナが口をとがらせて答える。
ミシェルが見るかぎり、この二人の関係は良好なようだ。
「それよりも冗談抜きで言うけど」
エリナが深く息を吐く。
「本気で眠たいんだけど、どうにかならない?」
夜通しの強行軍で移動してきたがゆえに、カトレアとニクスの戦いに間に合ったのではあったが、その分の疲れが急速に押し寄せてきている。
ミシェルと遭遇できた安堵で気が抜けたというのも大きな要因だ。
「しょうがないなぁ、ボクが運んであげるよ」
そう答えながらメローナがピンク色の馬へと姿を変える。
「まあ、素敵じゃない!ありがとう、メローナ」
「どういたしまして、エリナのおかげでボクもこうして旅が出来てうれしいよ」
メローナは本音を口にした。
エリナが沼地の魔女の元を訪れなければ、メローナにかけられていた制限が解除されることはなく、彼女が願っていた旅に出て様々な物を見るという夢もかなうことはなかったんだ。
そういう意味で、エリナはメローナにとって恩人と言えた。恩人には何かと便宜をはかりたいと思うのは当然の流れだ。
メローナは極めて義理堅い魔物なのだ。
「お、おおおお?」
不意にメローナが全身を振動させ、声をあげる。
「どうしたのよ? メローナ?」
「んー、沼地の魔女から連絡が来たんだよ」
「魔女から?」
「アイリの再召喚に成功したって!」
「それは何より……」
エリナは隠すことなく微笑むと、視線を北方へと向けた。
「これでようやく本来の旅路に戻れるわね」
密偵からの報告書に目を通していたクローデット将軍は、ある一文を目にし、手にした羽ペンを落とした。
『エリナ様は現在、エキドナの元に逗留中』
エキドナ……。
名前と共に脳裏に浮かぶのは、あの破廉恥極まりない装束だ。
クイーンズブレイドに参戦する美闘士の中には、露出度の高い衣装の者も決して少なくはない。それは自らの肉体美を誇示するためのものであり、美闘士という呼び名の所以の一つだ。
それを否定するつもりはない。
だが、エキドナの恰好だけは別だ。
下半身……本来なら慎み深く隠すべき部位に下着すらつけないというもっての他な装束は論外そのものだ。
これで弱ければ、ただの色物あつかいで済むのだが、困ったことにエキドナは強い。
彼女を倒せるのは自分か、噂に名高い戦闘教官アレインぐらいなものだろう。
それぐらい強いものだから、困ったことに彼女の装束を真似する者も出る始末。
下卑な視線に心を惑わされない強い精神力を養うなどと強弁するものもいるが、羞恥心を忘れてしまってはいけない。
恥じらいのない乙女など、乙女ではない、ただの売女だ。
エリナに限って、そんなことはないと思うのだが。
クローデットは目を閉じ、エリナがエキドナの装束を真似た姿を妄想した。
エリナの白い肌に銀色の蛇がなまめかしく絡みついていく。
「いかん! いかんぞ! それだけはいかん!」
不意に大声を張り上げたクローデットの姿に、副官が驚ろいた表情を浮かべる。
「それだけは断じて許すわけにはいかんのだ!」
自らの妄想を振り払うように、クローデットは声を荒げた。
「しょ、将軍、何を?」
副官の言葉にクローデットは我を取り戻す。
「すまない。見苦しいところを見せた」
軽く咳払いをし、クローデットは背筋を正した。
(エリナよ。そろそろ戻ってこい……私はもう限界だぞ)
Episode 6 終わり
エキドナにさらわれたミシェルを救出に向かうエリナは、「トモダチ」となったメローナの協力でエキドナの弟子イルマを撃破しアジトへ乗り込む。しかしエキドナはすでにミシェルを解放した後であった。ミシェルは武器屋カトレアとその息子ラナの家で引き取られていた。そしてカトレアはミシェルの魔笛に魅了され、夢中となっていくのであった。
面白くない。
それが嘘偽りのないラナの今の気持ちだ。
一枚の魔法の符に託された伝言をもとに、母カトレアと戦闘教官アレインが助け出した少年ミシェルが家に来てからというもの……。
自分は蚊帳の外に置かれているような気がしてならない。
ミシェルは少し熱っぽいらしいけど、常に寝込んでいるわけではないし、話だって普通にできる。
付きっきりで世話をしなければならないというほど具合が悪いわけではない。
それなのにお母さんが、一緒にいてくれないことが多くなった。
自分を放っておいて、ミシェルの世話にかかりっきりなのだ。
たとえば、お風呂。
今までは、ラナと一緒に入ってから、もう一度、ミシェルと入っている。
最初のうちはミシェルの慌てているような声が聞こえたけど、最近ではそれも聞こえない。どうやら諦めたのか最近では静かになった。
そして、夜中の母親の行動も気になることがある。
単純に言ってしまえば、嫉妬ということになるのだが、この感情を処理できるほど、ラナは成熟していなかった。
「お母さん、ミシェルはいつまでうちにいるの?」
夕食の席で、ラナは思い切って尋ねてみた。
「どうしたのラナ? そんなことを言うなんて」
「だって、お母さん……ミシェルが来てから、おかしいんだもん」
「あらあら、どうしたの? そんなことを言うなんて」
「お母さん、ぼくと一緒にいてくれなくなった……」
ラナは顔を伏せた。
泣き顔を見られたくない。
甘えん坊でも、男の子だ。
それぐらいの矜持はある。
「あらあら、どうしちゃったのかしらね?」
カトレアは気にも留めていないように首を傾げた。
「どうもしてないよ。変なのはお母さんのほうだ!」
ラナはついに声を荒げた。
「あ、あのカトレアさん、ぼくは大丈夫ですからラナくんと……」
「あら、いいのよミシェル、気にしないで。ラナったらさびしんぼうさんになっちゃったのかしら」
「違うよ!」
ラナは大きな声で反論した。
本当はその通りだ。
お母さんをミシェルに取られて悔しいのだ。
そして、そのことを他ならぬミシェルに気遣われていることに、持って行きようのない嫌な気持ちが高まってくるのをラナは強く感じた。
だから、その気持ちのままに言葉を放った。
「ミシェルがいなくなれば……元通りになるのに」
「ラナ!」
カトレアが怒気を含んだ声を上げる。
初めて向けられた空気を震わせるほどの一喝に、ラナは身を固くし……。
「お母さんのバカ―ッ!」
泣き叫びながら、部屋から飛び出ていった。
「カトレアさん! おいかけないと!」
「大丈夫よ。きっと部屋に戻ってると思うわ」
カトレアは肩をすくめると、ミシェルにスープのお代わりをすすめた。
「もう夜だし、外に出ても行く場所もないもの」
*
「カトレアさん……、エリナ様へボクがここにいるって伝えてくれてますよね?」
夕食を終えた後、一日の終わりにミシェルは念を押すようにカトレアに問いかける。
返事は決まって「手紙を出したけど、ヴァンス伯爵領からの返事はない」だ。
「そうですか」
詳しいことはわからないけど、ヴァンス伯爵領とここは遠く離れている。
そう簡単に連絡がつく距離ではない。
「探しに行こうとかしないほうがいいわよ」
朝食を取り分けながら、カトレアが諭すように言う。
「行き違いになったりしたらまず出会えなくなるわ」
大陸は広い。
はぐれた者同士が、待ち合わせ場所も決めずにお互いに捜し歩いて、再会できる可能性は皆無に等しい。
だからこそ、カトレアも夫との再会を夢見て、この地を離れないようにしているのだ。
「だから、今夜も……ね」
ミシェルの手にそっと自らの手を重ねてくるカトレア。
一日の疲れをいやすために、魔笛カテドラルの効果を求めていることのサインだ。
世話になっていることもあり、ミシェルがそれを断ることはなかった。
遡ること数日前……。
エキドナの隠れ家を出たエリナとメローナは、ようやく戦闘教官アレインとの邂逅を果たした。
「ミシェル……」
アレインはしばし、小首を傾げた。
「エキドナが貴女に預けたと言っていたんだけど?」
隠し立てするようなら、クイーンズブレイドで決着をつけてもいい。
それぐらいの気持ちで、エリナはアレインと向き合っていた。
「ああ、あの少年か」
アレインは、記憶を呼び覚ますようにぽんと手を叩いた。
「そう、その子なんだけど、今、どこに?」
「あの子ならカトレアに預けた」
アレインの言葉にエリナはがっくりと崩れ落ちた。
エキドナの隠れ家とカトレアの住んでいる村は決して遠いわけではない。
アレインを探して動き回った時間を考えると眩暈がしてくる。
「無駄足~~~~!」
あまりのことにエリナにしては珍しく感情をあらわに叫んだ。
「うむ。何のことかはわかないが、苦労をしているのだな。ところで、二人に尋ねたいのだが、我が弟子ノワが何処にいるか、知らないか?」
アレインの問いに、二人は仲良く首を左右に振った。
「そうか、知らないか……うむ、わかった」
うなだれるエリナに背を向け、アレインは去っていく。
「ノワって誰だっけ?あたし、会ったことないよね」
「ボクが知るわけないでしょ。ところでさぁ、エリナ……」
「なによ?」
「ボクが言うのもどうかと思うけど、エキドナんとこで長居しすぎたんじゃないかな?」
「仕方ないじゃない、新しい技を覚える機会なんて滅多にないんだから」
エリナはむすっとした口調で答える。
そう美闘士にとって新しい技の有無は勝利に直結する重要な要素だ。
強者ほど、技の引き出しが多いのである。
どんなに強い奥義であっても、対抗策を編み出されてしまえばそれまでだ。
そして、強者ほど新しい技を得る機会は少ない。
ヴァンス家の三姉妹に師匠とよべるような人物がいないのは、三姉妹に技を伝授できるような強者が滅多に存在しないという現実によるものだ。
「まあ、良いわ。気持ちを切り替えていきましょう」
エリナはすっと立ちあがり、くるりと踵を返した。
「戻るわよ。メローナ」
夜の道をラナは走っていた。
家を飛び出したものの、どこかあてがあるというわけではない。
村の住民は皆、顔見知りだ。
どこかに隠れたところで、家に連れ戻されてしまうだろう。
だから走った。
幸いにも天気は、雨季の合間の薄曇りで雨に降られる心配はない。
勢いに任せて村を見下ろせる小高い丘にまで登ってから、ラナはふと我に返った。
丘の向こう側にあるのは密林で、ラナはそこまで行ったことはない。
そもそも、この丘までだって母親と行楽を兼ねて来たぐらいだ。
今まで一人で出歩いたことのある範囲をすでに大きく超えている。
ちょっとした不安に身をすくめるものの、ここから見下ろす家の様子にまるで変化がないことにラナは憤りを感じ、地面を蹴った。
「ちぇっ!」
家から母親が出てくる気配はない。
ミシェルが来てから、母親の様子がおかしくなった。
夜中にふと目が覚めた時に、いつも隣にいたはずの母親の姿がなかったことが幾度となくなった。
ほとんどの場合、探しに行く勇気もでないまま、ラナは再び眠りについてしまうのだが、一度だけ寝室から出たことがある。
あの時、母親はミシェルの部屋から出てきたのだ。
「ぼくのことなんか……どうでもいいのかなぁ」
涙をぬぐいながら、ラナは夜の密林へと歩を進めた。
普段なら決してそのような行動はしないのだが、母親とミシェルに対する憤りが、ラナの背中を強く推していた。
この先には確か池があったはずだ。
景色でも眺めていれば、気分も落ち着くし、母親が迎えに来てくれるかもしれない。
そう思いながら小道を進んでいくと、不意に霧が立ち込めてきた。
今の時期、霧が出ることはほとんどない。
「あれ? あたたかいや……」
霧というよりは湯気に近い。
興味を惹かれ、ラナは霧が濃い方向へと歩を進めた。
密林の中は、縦横無尽に小川が流れている。
雨が止めば水量を失った小川は分断され、無数の池が出来上がる。
深くもなく、よどんでもいない清浄な池は村の子供たちの遊び場の一つだ。
最も、ラナはそういう遊びをしたことはないのだが。
「うわぁ……」
ラナは思わず声を漏らした。
池から湯気が上がっている。
温泉になっているのだろうか?
ちゃぷんと水音が聞こえる。
何か居るのかもしれない。
ラナはとっさに身を隠し、気配を探る。
そして見た。
月明りに照らされた夜霧の向こう側にうっすらと浮かぶ、細身の女体。
母親に比べればすべての女性は細身に見えるのだが、それでも湯あみを楽しんでいる女性の乳房は大きく見えた。
「ん……あ……」
女性がうめき声にも似た声をあげる。
ラナは、息をひそめて目を見開いた。
女性の身体に青紫色の触手が絡みついている。
襲われているのではない。
それは女性の表情からも見て取れる。
彼女の顔に浮かんでいるのは、恐怖の表情ではない。
良くはわからないが、ラナにはそう思えた。
「あ……、お、お許しを……フニクラさまぁ」
艶っぽい声で、女性が身体をくねらせながら触手に許しを求める。
「ひいっ! 私が、私がいけないのです……ああ」
触手が女性の身体を上をうごめき、縛り上げていく。
桜色に上気し、ゆがんでいく女体と、その表面を流れていく、水ではない粘液のような液体……これは、見ていてはいけないものだ。
唾を飲み込み、そっと離れないようと足を動かした瞬間、パキリと枯れ枝を踏む音が夜の森に響き渡った。
ラナがしまったと思うと同時に、女性が身体を起こし立ち上がる。
「誰?」
鋭い声と共に、女性は裸体を隠すこともせず、威嚇するように睨みつけてきた。
月明りがあるとはいえ、夜の森である正確な場所はわからないはずだ。
ラナは見つかるまいと、茂みの中に身を隠した。
「で、出てこないと、や、焼き殺すわよ!」
女性の背後から無数の触手に覆われた一つ目の怪物が姿を現す。
つい先ほどまで、女性の身体を責めていた存在だ。
「フニクラ様ッ! 炎をッ!」
女性の声と共に、触手の先端から火の玉が飛び出し、ラナの頭上を通過していく。
「ひゃあっ」
通り過ぎた火の玉は、その先で枝を吹き飛ばす。
直撃したらただでは済まない。
「い、今のは警告。出てきなさい」
女性は裸体のまま、指先をラナの隠れている茂みへと向ける。
「ご、ごめんなさいッ!」
ラナは茂みから飛び出し、頭を下げた。
「覗きとか、そんなつもりはなかったんですッ」
「子供?」
女性の声から怒気が抜けていく。
「まあ、いいわ、顔をあげて」
「いや、でも、その……」
恐怖に身体を震わせつつ、ラナは口ごもった。
あの火の玉を浴びたらケガではすまない。
そして、この場には自分を守ってくれる存在はいないのだ。
「どうしたの? ああ……」
ラナのおびえた態度に女性が笑みを浮かべる。
「ひょっとしてあたしが裸だから? かわいいのね」
女性は裸体を隠すことなく大胆に、ラナへと近づいてくる。
「い、いや……その……ごめんなさい」
ラナは顔を覆って視界をふさいだ。
家族以外の裸を見るのは良いことではないと教わっていた。
特に異性の場合は、男として責任を取らなくてはいけない。
だから覗きなどもってのほか!
そう母親に躾けられている。
「面白い子」
「いや、その……」
目を閉じて、両手で顔を覆ったままラナは困ったようにつぶやいた。
「ひょっとしてあたしが怒ってるとか、思ってるの?」
「そうじゃないの?」
女性の言葉にラナは首を傾げる。
普通は裸体を見られたら、恥じらうか、怒るものだ。
だが、今、彼と対峙している女性はそのどちらでもないという。
「怒りはしないわ。そりゃあ、あと十年後なら別だけど」
「十年……」
「で、坊や、ひとり?」
女性の問いかけにラナはこくりと頷いた。
「何か、理由があるみたいね……」
そう言いながら女性は池の畔にまで伸びていた梢に手を伸ばす。
そこには彼女の衣服が掛けてあった。
「よかったら話を聞かせて。これでもあたし……」
話しながら女性が衣服を身に着けていく。
身体に食い込みがちなややきつめの下着、身体に張り付くように隙の無い線を描く衣服と魔法使いを思わせる異形の杖。
「……正義の味方なのよ」
「わあ……」
ラナは思わず感嘆の声を上げた。目の前にいる女性の姿が、以前、母親に読んでもらった絵本に出てきた魔女に似ていたのだ。
「かっこ……いい……」
「そ、そう?」
ラナの言葉に女性が頬を軽く染める。
「お、お姉さん、名前は? ぼくはラナっていうんだけど」
「アタシの名前は、炎の使い手ニクス。こちらは私の大切な主、フニクラ様よ」
ニクスの紹介を受け、異形の杖が挨拶するようにうごめく。
主ということは、この杖が支配者なのだろうか?
ニクスの先ほどの痴態を思い出し、ラナは思わず頬を赤く染めた。
「何を照れてるの?」
ラナの反応にニクスが微笑む。
「ニクスさんは、強いの?」
「ふふ、フニクラ様のおかげで、あたしは大陸最強の正義の魔法使いになれたの」
「美闘士よりも強い?」
「まだ美闘士には負けたことはないわね」
ラナの態度にニクスは、その先を促した。
「何か、お願いがあるの?」
尋ねられるまま、ラナは自分が感じたままのすべてを語った。
ニクスは黙って話を聞き、最後まで聞き終えると、ラナの頭を優しくなでた。
「辛いよね、苦しいよね……大好きなお母さんを取られるのは」
「うん」
「坊やの気持ち、あたしにはわかるわ。あたしもお母さん、大好きだったから……」
ラナが見上げると、ニクスは顔を空へと向けていた。
「いいわ。あたしがそのミシェルを追い出してあげる」
涙声で告げ、ニクスは大きく胸を張った。
「追いかけてください」
ミシェルは幾度めかとなるお願いを口にした。
だが、ラナが出ていった後も、カトレアは動こうとしない。
「大丈夫よ。子供の癇癪だもの。きっと部屋にこもってるわよ」
「それでも、追いかけるべきです」
「気にしなくていいわ。ごめんなさいね、ミシェルに不快な思いをさせてしまって」
「僕のことはいいんです。それよりも今はラナを」
「そうね……」
カトレアがドアへと視線を向ける。
「あとで寝る前にお話でもしてあげれば、機嫌もなおるでしょう」
子供を案ずる母親の表情に、ミシェルは安堵の息を吐いた。
「それよりも……」
カトレアがすっとミシェルに身を寄せてくる。
豊満な女体の圧倒的な感触に、ミシェルは思わず身を固くした。
「今夜もしっかりと温めておかないと……ね」
カトレアの手がミシェルの太ももをなでる。
「そ、それ以上は……」
足の付け根へと迫ってきたカトレアの手をミシェルが押しとどめる。
「ダメかしら? 私だけが気持ちよくてもいけないのだけれど」
カトレアの指が向かう先にあるのは、ミシェルの半身ともいうべき魔笛カテドラル。エキドナが欲し、その力ゆえに手放した、無限の再生力を持つ魔法の品物だ。
この笛の能力によって得られる快感に、カトレアは夢中になってしまっていた。
「だ、だめですよぉ……、これは……」
笛に与えられる感触はミシェルの身体に直接伝達される。
笛を吹くために口づけされれば、その感覚はミシェルの身体に口づけされたものとして伝えられるのだ。
「いいじゃないの……少しぐらいは……」
カトレアの指がミシェルの指と絡み合う。
「あ、ダメ……ダメですってば!」
カトレアは知っている。
ダメだと言いながらも、ミシェルは拒もうとしないことを。
「ミシェル、貴方だって……」
カトレアが笛に手をかけた瞬間、唐突に発生した爆風が窓を吹き飛ばす。
とっさに彼を庇おうと、カトレアはミシェルを押し倒した。
襲い来る痛みを予測し、笛を手にカトレアは身を固める。
だが、何も起きない。
「え?」
爆風で吹き飛ばされた家財の破片は、自分たちにあたることなく、別の方向へと弾き飛ばされていた。
「どういう……ことなの?」
壁に突き刺さった破片を見ても、今の衝撃が本物だったことが疑いようもない。
「敵襲のようだね」
カトレアに続いて身を起こしたミシェルが答える。
ミシェルの顔つきが変わっている。
そう、少年の顔ではない。これは、男の顔だ。
まさかミシェルが破片を吹き飛ばしたとでもいうのだろうか?
笛を胸にしまい込みながら、カトレアは爆風の起点とその先へ視線を向けた。
戦いになるなら、この笛の効能は重要になる。
「来るぞ……カトレア」
先ほどまでとは打って変わった口調と、瞳に宿った怪しげな輝きに、カトレアは身を震わせた。
本能的な恐怖と言ってもいいかもしれない。
「側に来い!」
尊大な口調で言いながら、カトレアを引き寄せる。
細身で小柄な少年とは思えぬ力強い膂力。
男性に抱きすくめられることを意識し、カトレアは頬を染めた。
無論、そんなことを意識している場合ではない。
ミシェルの言葉通り、二発目、三発目の爆風が家を吹き飛ばしていく。
普通ならただでは済まない爆風と熱波のなかであっても、二人にはかすり傷ひとつつくことすらない。
「非常事態だ。我を守れ」
ミシェルは抱き寄せたカトレアに命令を下す。
怪しく光る瞳に見つめられると、逆らうことすらできなくなる。
「わかりました。我が主……」
「ちょ、ちょっとやりすぎだよぉ」
ラナはニクスの足にしがみついて彼女の行動を止めた。
ミシェルを追い出して欲しいと願ったけれど、家を壊してほしいとは言ってはいない。
二発、三発とフニクラから放たれた火球が家を直撃するのを見て、ラナは自らの願いに恐怖を感じていた。
「そうですよ、フニクラ様ぁ、威力が強すぎますぅ」
ニクスは焦った顔で、杖に訴えかけるが、当のフニクラは知らんぷりだ。
まさかニクスは魔力の杖を制御できていないのだろうか?
ラナは早くも不安になる。
「ぼくのお母さんもいるんだよ!」
「だ、大丈夫よ。次はうまくやるから」
ニクスは自分に言い聞かせるようにつぶやくと、足にしがみついたラナを引き離しながら、武器屋の方を見る。
「ほ、ほら、出てきたよ」
ニクスの視線の先、瓦礫を吹き飛ばして、大剣をかまえたカトレアが姿を現す。
「あいつがミシェルね」
カトレアの背後に立つ少年を見つめ、ニクスはフニクラを構えた。
「せ、正義の魔法使い、炎の使い手ニクス! ミシェル、カトレアから離れなさい!」
安堵している内心を悟られまいと、ニクスは大仰に声を張り上げた。
せいぜい小手調べていどの火球を打ち込むつもりだった。
驚いて出てくればいい。
それぐらいの威力を放ったつもりが、フニクラ様が打ち出したのは家が吹き飛ぶほどの威力がある火球、しかも三発もの火球を打ち込んでしまったのだ。
それが直撃ではなくとも、無傷ということはあり得ないはずだ。誰もケガをしていないことに安堵しながらも、ニクスは自分が向き合っている相手に対して嫌な予感を感じ始めていた。
「なにか変だ……よ?」
ラナもミシェルの変化に気付いた。
普段の彼からは、周りを気遣う雰囲気が感じられるのだが、今の彼からは何か得体のしれない尊大なものを感じたのだ。
フニクラが何かを囁く。
「フニクラ様と、同様の存在……?」
ミシェルは只者ではないのかもしれない。しかし少年の姿をしている者を焼き払ってよいものなのだろうか。ニクスの逡巡を気にする出なく、フニクラは容赦なく火球をミシェルに向けて放つ。
「ま、待ってください、フニクラ様!」
一撃で城壁すら粉砕する威力の火球だ。
火球が直撃するよりも早く、カトレアが動く。
大剣を大きく振って、火球を打ち返す。
大剣によって打ち飛ばされた火球が空中で爆散し、火の雨となって二人の間に降り注ぐ。
「ひぃ!」
ニクスは引きつった表情を浮かべた。
いままで火球を避けた相手はいたが、弾き飛ばされたのは初めてだ。
「フニクラ様、と、とてもまずいような気がします……」
「やめてー!」
ニクスとラナの制止を無視し、フニクラは火球を連射した。
フニクラを握る手がしびれる。
予想よりも多くの体力を吸い取られている。
それでも、フニクラは触手を絡めてニクスを放そうとしない。
相手はカトレア、接近戦になった瞬間にニクスの敗北は決定する。
大剣を振るうよりも早く、火球の連射が決まる。
炎がカトレアの全身を包み燃え上がる。
「お、おかあさぁーん!」
ラナは悲鳴を上げ泣き崩れた。
「そ、そんな……、あたしは坊やのお母さんを……」
しかし二人の心配は無用のものだった。
炎の向こう側で、カトレアの姿が動いている。
「はああああああっ!」
気合一閃、炎がかき消され大剣を構えたカトレアが突撃をかけてくる。
その身には火傷のあと一つついてない。
「えっ、そ、そんな!」
ニクスはもう、逃走したくなった。
魔法が効いていない以上、自分に勝ち目はないのだ。
それはカトレアの側にいるミシェルの力によるものだったのだが、そのようなことなど、ニクスには知る由もない。
一方、ニクスへと肉薄したカトレアだったが、彼女の足元へうずくまるラナの姿を認め動きが鈍る。
「わっ!」
ニクスはとっさに後ろへと飛びずさり、間合いを保つ。
もちろんフニクラを構えていないほうの腕には、ラナを掴んでいる。
子供を盾にするのは矜持に反するが、相手がまともではない以上致し方あるまい。
ありったけの火球を打ち込んでも、カトレアには傷一つつかない。
かろうじて自分の息子の姿を認めて、剣の振りに迷いは見られたものの明らかにカトレアの表情は不自然だ。あのミシェルはやはり超自然的な存在でカトレアを操っているのだろうか。
たとえそうだとしても決定打が出せない。
カトレアもまた相手がラナを抱えているため、いつものような速度で大剣を振るうことが出来ず、太刀筋を読まれてしまっている。
お互いに、決着をつけることが出来ない膠着状態に陥ってしまった。
「カトレアさんは、操られているんでしょうか?」
ニクスのつぶやきに応じて、フニクラが何かを囁く。
「やはりミシェルですか、ならば」
フニクラの触手がうごめき、無数の小さな火球をミシェルに向けて投射する。
予想通りにミシェルを庇ってカトレアが動く。
大きな火球なら大剣で弾くことが出来るかもしれないが、すべてを打ち落とすことは出来ないだろう。
ニクスの見立て通りに、弾ききれなかった小火球がミシェルに向かって飛ぶ。
その時、小火球が何かに弾かれたのだ。
「何ですって!」
本来、炎の塊である火球を弾くことなど不可能なはず。
カトレアの大剣は、その大きさと厚みで可能にしているにすぎない。
「これは……」
小火球を弾き飛ばしたのは、遠方から投擲された長槍だ。
まるで、何者かがそこに立って振り回しているかのように、長槍はぐるりと回転し、ミシェルの前に突き刺さる。
「エリナ様の長槍!」
月光を浴びて銀色に光輝く長槍を目にしたミシェルの瞳から怪しげな輝きが消える。
「やっと会えたわね。ミシェル」
駆け付けてきたのは、エリナとメローナの二人組だ。
「何者?」
「絶影の追跡者エリナ! ミシェルの真の主人よ」
ニクスの問いに、鋼線を使って長槍を手元へと回収したエリナは笑みを浮かべ、答えた。
後編へ続く
*
岩山を前にして、アレインはフードを跳ね上げ雨の中に顔をさらした。
もう隠す必要はない。
「エキドナ! 見ているのだろう!」
大きく声を張り上げる。
「出てこないなら、こちらから行くぞ」
アレインは武器を握る拳に力を籠め、背後に控えるカトレアに視線を向ける。
「ああ、それには及ばないよ」
不意にエキドナの声が、カトレアの耳元で響いた。
「え?」
驚くカトレア、彼女の首筋にいつのまに近づいていたのか、銀色に光り輝く金属の鱗をもつ蛇が垂れ下がっている。
「要件はなんだい? アタシも忙しい身でね」
蛇の口からエキドナの声が漏れる。
「お前の非道さを正しに来た」
「ほう? 非道ねぇ、何をもって非道というのか、教えていただきたいものだけどねぇ」
「しらばっくれるな……貴様が誘拐した少年を解放しろ」
「誘拐?」
「人さらいにまで身を落とすとは……」
「ああ、誤解があるみたいだね」
蛇がゆっくりと動き、カトレアの傍を離れる。
「ミシェルのことなら、人さらいじゃないよ。ちゃんと相手と話し合って決めたんだからねぇ……」
「本人は了承してないみたいだが?」
「そうなのかい?」
しばしの沈黙……。
「まあ、いいさ。ミシェルを解放しようじゃないか」
意外な反応に、アレインは拍子抜けし、カトレアは安堵の息を吐いた。
戦わずに済むのなら、それに越したことはない。
「本気なのか?」
「疑り深いね。アタシがアンタを欺いたことがあったかい?」
「幾度となく」
アレインの即答に、蛇の口からエキドナの苦笑がかすかに聞こえてくる。
「ちょっと待ってなよ。連れて行くからさ」
ほどなくして、岩山に無数に存在する洞穴のひとつにエキドナと少年の姿が現れた。
「ほら、行きな」
トンとエキドナがミシェルの背中を押す。
「え? いいの?」
あまりにもあっさりとしたエキドナの態度にミシェルが戸惑いの声を上げる。
「ここにいたくないんだろ? まあ、居所がアタシんとこになるか、別んとこになるかの違いだねぇ」
ニヤリと笑いながら。エキドナは笛をミシェルに手渡す。
「まあ、ヴァンスの嬢ちゃんに無駄足踏ませるのも一興だと思ったのさ」
洞窟の入口に現れた二人の美闘士を前に、エキドナは大きく胸を張った。
「人さらいとは心外だね」
「そうではないのか?」
「人さらいなら、こうも簡単に解放しないさ。アタシは、この子を保護したかったのさ。その証拠に酷い目には合わせていないよ」
「本当か?」
正面に立つ美闘士、アレインがミシェルに目を向ける。
ミシェルは無言で頷く。
確かに行動を制限されたこと以外は、酷い目にはあっていない。
「じゃあな、ミシェル、元気で」
さあ、行けとばかりにエキドナが一歩、引き下がる。
「アンタたちは、それ以上、こっちに来るんじゃないよ。ここはアタシの領域だ。勝手に入られちゃ困る」
歩き出したミシェルの背中越しにエキドナが、二人を威嚇する。
「安心しろ。要件は果たした。好んで毒蛇の巣にもぐる気はない」
「それは賢明。じゃあ、賢明さに免じて、いいことを教えてやるよ」
エキドナの声が洞窟にこだまする。
「その子は麻薬だよ。気を付けな」
忠告にも似た言葉の意味をアレインは理解できなかった。
*
「それでは私はこれで失礼する」
カトレアの村が近づくと、アレインは二人に別れを告げた。
「聞きそびれておりましたが、ご注文の武器の出来栄えはいかがでしたか?」
アレインは、カトレアにボーラと呼ばれる特殊な投げ武器を注文していた。
「ああ、いい出来だった。100点。いつかこの杖の調整もお願いしよう」
アレインは軽く長杖を振った。
雨粒が打ち砕かれ、水しぶきが舞う。
「エルフの霊木から作られたこいつを扱えるのは、カトレア殿ぐらいなものだ。後日、日をあらためるとしよう」
「そう……無茶はなさらないでね」
カトレアも無理に引き留めるような真似はしない。
アレインの旅の目的が、故郷の森を出てクイーンズブレイドに参加した愛弟子を探していることを知っている。
今回、ミシェル救出に動いたのは、彼と愛弟子の姿が重なったためであろう。
「では、ミシェル、早く主人と合流できることを祈っているよ」
*
街道から外れ、密林を走破し、時に猛獣と戦い、エリナたちはようやくエキドナの隠れ家である岩山へと到達した。
「へえ……大したものねぇ」
エリナは思わず感嘆の声を上げた。
よくよく気を付けてみれば、長年の風雨によって削られ原型を失って久しいレリーフの痕跡を見て取ることができる。
そうこの岩山は、古の文明が築いた神殿の遺跡なのだ。
「何が大したものなのぉ?」
身体を伸ばしながらメローナが尋ねてくる。
「あの岩山ね。たぶん人が作ったものだと思うのよね」
「そうなの?」
「そうなんでしょ? イルマ」
「大した観察眼だな」
イルマがエリナの判断を肯定する。
「いくらエキドナとはいえ、ただの洞窟に住むような蛮人じゃないでしょう?」
「貴女はお師匠をなんだと思っているのだ」
「蛇女」
キッパリとエリナが切り捨てる。
「おやおや、蛇女とはずいぶんだねぇ」
不意にエキドナの声が響く。
「お師匠、申し訳ありません」
「ああ、イルマ。ご案内ご苦労様、ずいぶんと愉快な恰好になってるねぇ」
からかい半分のエキドナの声に、イルマが頬を赤くする。
「どこから声が?」
「ん~、これからかな?」
エリナの問いに、メローナが自分の身体に取り込んだ銀色の蛇を差し出す。
「面白そうなんで捕まえたけどさ~、こいつ、生きてないんだよ」
「おやおや、エリナ嬢ちゃんも愉快な仲間を増やしたみたいだねぇ」
蛇の口からエキドナの声が聞こえてくる。
「聞こえているのなら、まあいいわ」
エリナは蛇に顔を近づけると、エキドナへの要求を口にした。
「ミシェルを解放しなさい。解放しないなら、貴女のかわいいお弟子さんが辱めを受けた上に、隠れ家の中も荒られることになるわよ」
「し、師匠! 私のことは!」
イルマの口をメローナがふさぐ。
「返答は?」
「ん~~~、残念だねぇ」
「残念?」
「ミシェルは、もういないよ」
「なんですって!」
エリナが思わず声を荒げる。
ミシェルが自分で脱走したのか、それともエキドナが何かの取引につかったのか。
「あの子は引き取りに来た連中がいたんでね。彼女らに預けたよ。まあ、彼女たちならエリナ嬢ちゃんがいけば普通に返してくれると思うけどね」
銀色の蛇がもがきながらメローナの身体から這い出る。
エリナは顔をしかめ、思案した。
無駄足を踏んだのか?
否、それはこれからの行動次第だ。
エキドナが抵抗せずに解放するような相手。
ミシェルを追って即行動に移るにしても、もう少し情報が必要だ。
「ちょっと聞きたいことが出来たわ。そっちに行かせてちょうだい」
「来るのは構わないけど、アタシから話すことはないね」
エキドナはくるりと踵を返し、洞穴の奥へと戻っていく。
「キミのお師匠様って、意外と薄情なんだねぇ」
イルマを拘束したままメローナがつぶやく。
「くっ……」
悔し気に唇を噛むイルマ。
いっそ、殺せとまで言い出しそうな態度に、メローナはにやにやと笑った。
「メローナ、揶揄ってないでいくわよ」
三人はエキドナの後を追って、岩山に開いた洞穴へと歩を進めた。
*
映像でみるよりも綺麗な子だ。
それがミシェルを見たラナの感想だった。
母親と共に帰宅した少年の姿は、雨に濡れていても思わず見とれるほど美しかった。
「こんにちは……君がラナだね」
ラナは思わず顔を赤くして頷いた。
「僕はミシェル。君のおかげで自由になれた。ありがとう」
「ど、どういたしまして!」
声が裏返る。
「ラナ、ミシェルは疲れてるから、ゆっくり休ませてあげて」
「う、うん……お客さん用の部屋に案内すればいいんだね」
「お願い、お母さんはご飯の支度をします」
ミシェルを連れて帰宅するなり、カトレアは休む間もなく家事に取り掛かった。
母親に休息はないのだ。
ラナとミシェルが二階へと向かっていくのを見送り、一息を吐く。
「あら?」
カトレアの目に、ミシェルが持っていた笛が止まる。
金で象眼された豪華かつ繊細な一品。
無造作に放置していいものではない。
「意外に無防備すぎるんじゃないかしらね」
小首を傾げながら、カトレアは笛に手を伸ばす。
「あ!」
指先が笛に触れた瞬間、全身に電流が流れた。
慌てて指を放す。
痛みはない。
「な、なにこれ?」
改めて笛を手にする。
形が変わっている?
この笛に唇を当て、息を吹き込んでみたいという欲求が湧き上がってくる。
ダメだ。
欲求に従ってはいけない。
長らく忘れていた欲求に身をゆだねては……。
*
風雨に浸食された外側と異なり、岩山の内側は往時の壮麗さを保っていた。
外から見ると洞穴としか見えなかった洞窟は、壁面に繊細なレリーフが施された回廊となっており、エリナを大いに驚かせた。
「この壁面は……」
エリナは思わずレリーフを見入った。
様々な武器を手にした女性の姿が彫り込まれている。
これは、秘伝書の類に違いない。
直感的にエリナはそう理解した。
「メローナ、イルマを解放してやって」
「え~? いいの?」
「ここまで来たら、もういらないわよ」
エリナがイルマに求めていたのは、エキドナの居場所までの道案内である。
人質をとっての交渉など、彼女は元より行う意思はなかった。
そもそも、すでにミシェルが解放されているのなら、交渉する対象がないのだ。
メローナが戒めを解くや、イルマは一瞬だけ恨めし気な視線を向け、腰に手を当てたまま足早に洞穴の奥へと駆け抜けていった。
「さて、さっそく試してみようかしらね」
エリナは荷物を置くと、手近なレリーフへと視線を向けた。
美闘士すべてに言えることではあるのだが、強くなればなるほど、新しい技を取得する機会は少なく、難しくなっていく。
故に、強さに貪欲な者は、学ぶ機会を逃さない。
時には敗北から学ぶこともある。
相手から直接、技を伝授されることもあるだろう。
「自分と手合わせできるぐらいには強くなれってことかしらね」
エキドナがこの回廊を通った真の意味を想像しながら、エリナはレリーフに刻まれた一連の動作を懸命に真似ていった。
「この際だから、学ばせてもらうわ」
エリナは自身を強く高めることには貪欲だ。
「ふーん、それじゃボクはちょっと探ってくるね」
修行を開始したエリナを後に、メローナは好奇心を満足させるべく洞窟の奥へと進んでいく。時間がかかりそうなら少しぐらいは冒険してもいいだろう。
*
薄暗い通路の先には、広大な緑に覆われた中庭が広がっていた。
中央には一本の大樹が聳え、その根元にエキドナとイルマの姿がある。
メローナは二人の姿を見つけるや、姿を変え背景や地面と同化し、息をひそめた。
この状態の自分を見つけたものは今まで一人もいない。
エリナのためにも二人の会話を聞いておいて損はない。
「お師匠様、本当なのですか?」
「何が?」
イルマの問いにエキドナが気だるげに答えている。
「ミシェルを手放したことです」
「気になるかい?」
イルマが頷く。
「持て余したのさ」
エキドナの言葉にイルマは思わず目を丸くした。
わざわざヒノモトから甲魔忍軍まで呼び寄せて手に入れたものを、あっさりと手放したことが信じられないとでも言いたげな表情だ。
「正直に言おうかね。あれは麻薬だよ」
「麻薬ですか」
無尽蔵に回復する力をもつ魔笛。
笛に口づけをすることができれば、美闘士は無限に戦い続けることができる。
尽きることのない無限の体力と回復力を持つ者が敗北することはない。
笛の活用者は確実な勝利者となるのだ。
「だから、ちょっと試したくなった。どこで聞きつけたのか、アレインの奴、アタシを人さらいとか言うんでね。相手をするのがめんどくさいんで、解放することにしたのさ」
アレインの強さは、エキドナと互角。
「アレの意味を千年処女が気付けるとは思えないんだけど」
メローナは気配を断ったまま、二人の会話に耳を傾ける。
アレインという名前で、エキドナが戦いを避ける相手を彼女は一人しか知らない。
彼女が噂どおりの人物ならミシェルの安全は保障されたといってもいいだろう。
エリナに聞かせるには十分な情報だ。
これからは、アレインを追跡する旅になる。
もうしばらくは旅を楽しめそうだ。
「で、聞かせるぶんの話は出来たね」
そう言うやエキドナは、太ももに挟んでいた投げナイフを無造作に投擲した。
(え?)
メローナは完全に不意を打たれた。
エキドナが投げたナイフが自分の身体を突き刺したのだ。
(ボクに気付いてた? でもこんなナイフぐらい)
メローナは気配を断ったまま、ナイフを通過させようと身体を動かす。
だが、動き出す前に異変が始まっていた。
ナイフからあふれ出した冷気が、メローナの身体を凍らせていく。
「な? なんでぇ?」
狼狽した表情のままメローナの身体は凍結し、いびつな氷の彫像と化した。
*
「修行が足りないね」
「申し訳ありません」
「まあ、いいわ」
エキドナは、かしこまるイルマと、凍結したメローナを一瞥した。
エリナには見どころがある。
あのまま、諦めて故郷に帰るか、ミシェルを見捨てて行動していたのなら、凡百の美闘士と変わらぬ存在として、記憶にも留める気はおきなかったろう。
だが、エリナはあきらめなかった。
供を失い、新たな従者を手に、イルマを捕縛して、ここまで来たことは評価に値する。
だからこそ、ここに立ち入ることを許したのだ。
「ほどほどで、お嬢様たちを追い出しておくんだよ」
エキドナの言葉に、イルマは深々と一礼した。
*
「ごめんね、迷惑をかけて」
「迷惑だなんて、思ってないよ」
ラナはニコニコと顔をほころばせ、客間へとミシェルを招く。
「たまに来るお客さん用だから、ちょっと埃っぽいかもしれないけど」
簡素だが清潔なベッドと、テーブルに椅子、ちょっとした宿の一室と互角かそれ以上の調度品が用意された一室だ。
「迎えがくるまで、ここで過ごすといいよ」
自分が札を見つけたことで、ミシェルが自由の身となった。
結果を出せたことがうれしいのだ。
「それでも、礼を言わせてほしい。ありがとう」
ミシェルの言葉に、ラナは照れくさくなった。
符を見つけたのは自分だが、実際に行動したのは母親とアレインだ。
「感謝なら、お母さんに」
「うん、カトレアさんとアレインさんにはもう十分に……」
言いかけたミシェルの身体が強張る。
「どうしたの?」
「笛は? 僕の笛はどこに?」
ミシェルは自分の身体に手を伸ばし、持ち物を探す。
「ん……あ……」
こらえきれない吐息を漏らし、ミシェルは脱力したように崩れ落ちていく。
「え?」
ラナが手を差し伸べるが、間に合わない。
「ダメ……それは……」
そうつぶやくと、ミシェルはぐったりとベッドに倒れこんだ。
*
欲求に逆らえず、カトレアは笛に息を吹き込んだ。
音は鳴らない。
だが、疲労が抜けていく感触と同時に、心地よい感覚が全身を駆け抜けていく。
ミシェル救出の強行軍で感じていた疲労が、瞬く間に消えていた。
「何が起きたの?」
笛からそっと口を放す。
笛の形状が変わっている。
この形はまるで……。
「お母さん! 大変だよ!」
ラナの叫び声が、カトレアの意識を引き戻す。
「ど、どうしたの?」
「ミシェルが、倒れちゃったんだ。笛がどうとか言って……」
笛をそっと胸元にしまい込み、カトレアは二階の客間へと向かう。
ベットに倒れこむようにして、ミシェルが崩れ落ちているのが見えた。
カトレアは足早に彼の傍へと近づき、首筋にそっと手を当てた。
脈はある。
少し頬が紅潮しているが、熱はない。
おそらく疲れが出たのだろう。
「大丈夫、ゆっくりと寝かしておいてあげましょう」
ラナに向けて優しく微笑みながら、カトレアは誰にも見られないように笛をそうっと抱きしめた。
「お母さん?」
ラナはミシェルを見つめる母親の表情に小首を傾げた。
それは、鍛冶場での真剣な表情とも、自分に向けて見せる優しい表情とも違う、今まで見たこともない表情だった
呼び声、詠唱、囁き……。
床に描かれた魔方陣が暗く鳴動するように輝き、瘴気がゆらゆらと立ち上る。
「ああ、再び現れよ。我がしもべにして、首輪の従者よ」
魔方陣の中央に置かれた鎖付きの首輪がゆっくりと宙に浮きあがり、瘴気がそれを起点としてまとまっていく。
ほどなくして瘴気は人の形となり、実体化を開始する。
死霊とは思えぬ健康的な肌の色と、やや赤毛混じりの長い髪。
肌を覆うようにメイド服が重なっていく。
「死へ誘うものアイリ……お召しにより参上いたしました」
魔方陣の上に出現したメイドが恭しく頭を下げる。
「アイリ、汝の主人は誰ぞ?」
「我が主人は……」
沼地の魔女の問いかけにアイリは首輪に指をそっと這わせた。
「我が主人は、絶影の追跡者エリナさまにございます」
*
ふざけんな。
ガラの悪い一言が、レリーフの解説を一読したエリナの感想だった。
レリーフには繰り返すこと千日とか、この姿勢を維持すること一週間などという常人の体力を無視した言葉が並んでいたのだ。
もちろん、これは基礎となる訓練をも含んだ日数なのだが、そこまでエリナが理解することはできなかった。
だが知ることは大切だ。
習得に時間がかかるとしても、知っていると知らないでは雲泥の差がある。
今はここに描かれている技を知識として蓄えておくことが大事なのだ。
「まだ居たのか……」
「居るわよ。友達が戻ってきてないものね」
イルマの声に殺気が含まれていないことを察知した上で、エリナは振り向くことなく答えた。
「お友達なら、連れてきてやったぞ」
ゴトッと重たい音を立てて木桶が石畳に置かれる。
メローナは木桶の中に入っているのだろう。
「これに懲りたら、すこしは大人しくするように言っておくのだな」
「言って聞くような子じゃないけどね」
「これが溶けたら、出ていくがいい。居座るようなら、それなりの歓迎をしなければならなくなる」
明言こそはしないものの、早急に立ち去るようにとイルマは告げ、返事を待たずに去っていった。
「せっかちなやつね」
イルマの気配が完全に消え去るのを待って、エリナはそっと木桶の中を覗き込んだ。
そこに入っていたのは、凍り付いたメローナの姿だった。
いくつかの部位に砕けてはいるものの、全身分はそろっているようだ。
「もう、何をバカなことをしたのよ」
エリナは愚痴るようにつぶやくと、メローナの表面をなでた。
「こんな無茶を続けていたら、いつか取り返しのつかないことになるわよ。きっと」
*
石窟の中に響く気合の入った声に、メローナは意識を取り戻した。
松明に照らされ、演舞のように身体を動かすエリナの姿をメローナは素直に美しいと思った。
「溶けたみたいね」
メローナの視線に気づいたエリナが、息を整えながら振り向く。
「ボクが回復するのを待っててくれたの?」
「アンタが便利だから回復を待ってただけよ」
エリナはぷいと顔を背けた。
「別に一人旅が寂しいとか、そんなわけないんだからね」
小声でつづけた囁きをメローナは聞き逃さない。
だが、あえて聞き漏らしたふりをする。
「にしし、ボク無しじゃいられない身体になっちゃったのかなぁ」
「そんなはずないでしょ」
笑みをうかべながら迫るメローナを、エリナはじゃれつくペットをあしらうように押しのけた。
*
「今度は魔物と一緒だとぉ!」
ダンと机を叩きつける音がクローデット将軍の執務室に響く。
報告に来た伝令が思わず身を引くほどの衝撃だ。
「よもや、沼地の魔女に取り込まれたのではあるまいな……」
「お、恐れながら申し上げます」
「なんだ! 申して見よ」
「報告によれば、エリナ様は魔物に命令を下していたとのこと。おそらく配下に加えたものかと思われます」
伝令の言葉にクローデットは目を閉じて思案する。
沼地の魔女の元を訪れたエリナは、その後、メローナと名乗る魔物と行動を共にしているとのこと。
メローナは沼地の魔女の配下と噂されていた魔物。
そんな存在と行動を共にして、正気でいられるのか。
じわじわと魔界寄りに洗脳されてしまうのではないか。
「これは……私が動かねばならぬかもしれぬ」
「しょ、将軍。エリナさまを信じましょう」
伝令の言葉にクローデットは我を取り戻した。
自分がエリナを信じなくてどうするのだ。
エリナは強い意志をもった娘だ。
そう簡単に魔界に堕ちるはずがない。
しかし……。
信じる心と、心配する心。
二つの相反する心の挟で、クローデットの思いは大きく揺れるのであった。
Episode 5 終わり
エリナはエキドナに敗れミシェルを奪われ、アイリを失ってしまう。アイリの元々の主人である沼地の魔女の元を訪れたエリナは、アイリの再召喚をとりつける事には成功したが、なんにでも変身できる魔物のメローナとのクイーンズブレイドには敗れ、「トモダチ」として旅の道連れとすることを条件とされてしまう。
雨が降っている。
雨季の始まりを告げる激しい雷雨だ。
この雷雨が数日続いた後で、霧のような雨がじっとりと降る日々が続く。
密林を育てる慈雨は、人々を遠ざける自然の防護壁でもある
エキドナの隠れ家、毒蛇の巣と称される秘密の洞窟が存在する岩山の表面にも、雨が滝のように流れていく。
「こいつは危険だね」
机の上に置かれたミシェルの笛、今は小さく手のひらに収まりそうな大きさになっている魔法の笛を見ながら、エキドナはひとり呟いた。
あらゆる傷を治す魔法の笛。
しかも、使用者に不都合が生じることはなく、制限もない。
これをクイーンズブレイドの最中に使うことが出来たら?
一撃で死ぬか、行動不能にならない限り、笛の使用者が負けることはないだろう。
「こんな笛に女王を決めさせるわけにはいかないねぇ」
エキドナは、笛の向こう側で寝息を立てるミシェルへと視線を向ける。
「坊やにはクイーンズブレイドと無縁でいてもらわないといけないねぇ」
意外なほどに優しい口調で、エキドナはため息を交えて口にした。
「女王の傍に、坊やはいちゃあいけないんだよ」
大陸南部の密林地帯。
気温は汗ばむほど暑く、雨が多いことで知られている。
不快感をともなうほどの湿気と、蒸し暑さ、そしてぬかるんだ道が旅人や冒険者たちの行く手を阻む。
そんな密林の間を伸びる街道の片隅にエリナとメローナの姿があった。
二人を足止めするかのごとく、叩きつけるような豪雨が降り注ぐ。
「で、本当に、この先に、あの女の、アジトが、あるんでしょうね」
雨音にかき消されないようにエリナは単語を細かく区切って話した。
「そだよ~、魔女の占いでも、雨が好機ってなってたし」
メローナは自らの身体を傘状に変形させて、雨からエリナの身を守る。
「便利よねぇ、アンタって」
「まあね、人間と違って、ボクは風邪ひいたりしないしぃ」
むにゅーんと変形し、メローナの頭だけがエリナの横にまで降りてくる。
「これで話しやすいよね」
「やっぱ、アンタってばバケモンだわ」
なかなかに不気味な光景ではある。
「きしし、それを忘れずにいてくれれば幸いだねぇ」
メローナの本来の姿は定まっていない。
定型の姿を持たないがゆえに、様々な形状を取ることが出来る。
そのことを念頭においていなければ、かなり驚かされることは言うまでもない。
「じゃあ、作戦会議を始めるわよ」
「うんうん、はじめようか」
ミシェル奪還作戦。
いかにメローナの助力を得ることが出来たとはいえ、エキドナとイルマの二人を同時に相手にするのは得策ではない。
彼女たちが境界島でおこなったように、分断し、各個撃破をしていくのが望ましい。
そのためには、まずはイルマを捕縛する。
彼女を人質に交渉でミシェルを解放させるのが理想的な流れだ。
「えっと、エリナが気を引いて、ボクが奇襲するんだよね」
「そうよ。向こうはメローナのことを知らないから、ほぼ成功するはず」
「楽勝だねー」
「でも用心して、相手はあのエキドナの愛弟子よ。貴女の気配に気づくぐらいはするでしょうし、なんらかの対策をしているかもしれないわ」
「油断はするなってことだね」
「不意打ちの手段は任せるわ。できる限り一瞬で決着をつけて」
「まかせて~、初見殺しは得意なんだ」
「殺しちゃダメよ」
メローナに向けて微笑みながら、エリナは雨に濡れた街道へと視線を向けた。
はたして予測通りにイルマは現れるのだろうか。
エキドナの隠れ家は、密林地帯のどこかにあるという。
そこから出入りできるのは、この街道しかない。
「待つしかないのよね……」
これより先は密林地帯。
その立札を最後に街道は密林の中へと消えていく。
大陸の各地を巡る街道の終着地の一つ。温泉と鉱山の街として知られる風車村に、武器屋として名高いカトレアの工房が存在する。
カトレアがこの村に工房を設けたのは、夫オーウェンの勧めによるところが大きい。
雨季であっても、温泉がもたらす地熱のおかげで、十分な火力を得ることが出来る。
密林からは、鍛冶を行う上で欠かせない燃料としての材木や、武器を仕上げる装飾としての様々な種類の木材などを容易に手に入れることが出来た。
ただし大陸有数の鍛冶職人として名の知れたカトレアの元に直接、商品を取りに来る者の数は決して多くはない。
おかげで、鍛冶仕事をしながらも、ある程度の接客もこなすことができる。
「お、おかーさん、これでいい?」
カトレアの息子、ラナが商品棚から依頼品を持ってやってくる。
「う~ん、ちょっと違うかな?」
「え~~~」
「投げナイフは、もう少し刃が薄くて、軽く出来ているの。ラナが持ってきてくれたのは狩猟用のナイフね」
「そうなんだ。じゃあ、探してくる」
依頼品の入った箱を手に、ラナは踵を返して商品棚へと向き直る。
「え~と、投げナイフ、投げナイフ」
「ごめんなさいね」
商品を探すラナの様子を微笑ましく見ながら、カトレアはカウンター越しに客へと小声で詫びた。
「ああ、構わない」
客も微かに微笑みを浮かべ、ラナが商品を持ってくるのを静かに待ってくれている。
顔なじみの常連客、名前はイルマ。
良く買っていくのは、投げナイフの類だ。
当然ながら、扱っているのはカトレア作の業物である。
投げ捨てられるような安価なものではない。
帳簿を見る限り、鍛え直しが大半で、新規の購入はそれほど多くはない。
今回も品物を受け取るのと引き換えるように、手持ちの投げナイフの鍛え直しと調整を依頼してきている。
「おかあさん、これだね!」
今度は間違えることなく、ラナは商品をもってくることができた。
「よくできました」
カトレアはラナの頭を優しくなで、商品を確認する。
「お客様もご一緒に」
イルマにも確認を促す。
商品の質には自信がある。
イルマは数本の中から一本を抜き取り、軽く確認した。
重さ、刃の薄さ、重心位置……どれも問題はなく、信頼して使用することができる。
カトレアの業物であれば、確認せずとも良いのだが、一種の儀式のようなものだ。
「いつもながらの良い出来だ」
代価をカウンターに置いて、イルマは投げナイフを装備する。
「受け渡しはいつもと一緒でいいですか?」
帳簿に記帳しながらカトレアが尋ねてくる。
「ああ、次回の来店時までに頼む」
「いつ頃になりそうですか?」
「一週間後ぐらいになるかもしれないのだけれど、間に合うかな」
「ちょうど、大物が終わったところですから、調整と鍛え直しなら十分にできますね。それまでに終わらせておきますので、取り置きの期限が切れる前にお願いします」
取り置き期限が切れた商品は一般売りに出されてしまう。
もっともこれは、商人としての建て前のようなもので、実際にカトレアが依頼品を一般売りにしたことはほとんどない。
「あと、ついでに錆び止めの油はいかがですか?」
「商売上手だな」
カトレアのお勧めに、イルマがくすりとほほ笑む。
「だが荷物はこれ以上増やせないんだ。次の機会にさせてもらうよ」
そう言ってイルマは床に置いていた荷物を背負うと、雨の降りしきる外へと歩いていく。
「ありがとうございましたぁ」
カトレアの影に隠れるようにイルマを見送ったラナは、ふとある物に気付いた。
短冊を思わせる一枚の札が床に落ちている。
「なんだろう?」
ラナは、ひょいとカウンターを飛び越えた。
行儀が悪いと怒られるところだが、カトレアはこっちを見ていない。
濡れていない?
どうみても紙で出来ているのに、床の水を吸った形跡もない。
何らかの魔術的処置が施されているのだろうか。
「大丈夫かな」
恐る恐る手を伸ばす。
指が触れたところで、別に何もおきたりはしない。
ラナは安堵の息を吐いて、札を拾い上げた。
「すごいや……本当に濡れてない……」
床には足跡にそっていくつかの水たまりがある。
雨季にはありがちな光景だ。
母に尋ねるべきか?
ラナが思案に目を閉じた瞬間、店のドアが開き、新たな客が姿を現した。
ふわりの雨の中に森の匂いが広がる。
「い、いらっしゃいませ!」
ラナはカウンターに札を置き、来客を確認する。
緑色の外套に、金色の髪の毛、そしてエルフの証でもあるまっすぐに伸びた耳。
戦闘教官アレイン、常連の一人だ。
「あら、今日は千客万来ね」
「しばらくだな、カトレア」
アレインの声が店内に染み入るように広がる。
故郷を離れ旅をするエルフの数は決して多くはない。
人間相手に大規模な商売を展開するドワーフたちとは違い、エルフは自分たちの領域を守り、外部との接触をできる限り避けるという排他的な傾向がある。
その中でも、クイーンズブレイドに参戦し、美闘士として名の知れているアレインは極めて稀有な存在だ。
「おや?」
アレインの視線がカウンターの上に置かれた札に止まる。
「どうかしましたの?」
「この札、見せてもらっていいか?」
「あら、どうしたの? これ」
ようやく札の存在に気付いたカトレアに、ラナがおずおずと事の次第を説明する。
「イルマの……忘れ物か」
アレインの指が札に触れた瞬間、ピリッとした電流のような感触が流れた。
「これは……魔力に反応しているのか?」
アレインのつぶやきと同時に、札から光が滲みだしてくる。
「なに? 何が起きたの」
「危険なものではないようだが……」
おびえるラナを背後にかばいながら、カトレアは札を注視した。
光がゆっくりと人のカタチを作っていく。
「誰だ?」
見覚えはない。
だが、エルフであるアレインの目で見ても、美形であると判断できる容姿をもった少年の姿が札の上に浮かび上がる。
『ボクの名前はミシェル……』
「誰?」
ラナの問いかけに投影された少年は答えようとしない。
「これは、魔力を使った伝言だ。おそらく気付かれないように、特定の魔力もしくは文言で発動するようになっていたのだろう」
興味深い……アレインは食い入るように映像を見やった。
『エリナ・ヴァンス伯爵令嬢の従者をしています。いま、ボクはクイーンズブレイドによらない不当な手段で、エキドナに拉致されています』
映像の少年、ミシェルは一方的に話し続ける。
『この伝言を聞いた人にお願いがあります。エリナ様にこの伝言を伝えてください……』
「エキドナめ……多少のやんちゃは大目にみていたが……」
アレインは拳を握り、目を細めた。
「外道に成り下がるなら、許すことは出来ん」
雨中の移動は足跡を残したくないものにとっては、快適なものといえる。
足跡、匂い、形跡、それらを雨がすべて流し去ってくれるのだから。
普段なら無人のはずの街道に、人影をみつけた瞬間、イルマの警戒心は最高域にまで高まった。
まして、その人物が見知った顔ならば、武器に手が伸びるのは自然な流れだ。
「はあい」
イルマの前に立ちふさがるように立つ人物が親し気に声をかけてくる。
「待ちかねたわよ。イルマ」
ヴァンス伯爵家、近衛隊長エリナ。
今はクイーンズブレイドに参戦する美闘士、絶影の追跡者エリナと名乗っている人物が、雨の中で笑みを浮かべる。
イルマの知る限り、雨に濡れるのを良しとし、こういう手段に出るような人物ではなかったと思うのだが、何か心境の変化でもあったのかもしれない。
「待たせていた覚えはないのだがな」
無益な戦闘は避けたいところだが、相手がそれを許してくれるかどうか。
避けて通れぬ道ならば、通り抜けるまで。
「で、何用だ? お嬢様」
「ミシェルを返してもらうわ」
「ミシェル?」
「とぼけないで」
エリナが長槍を一閃し、水しぶきが舞う。
「貴女とエキドナが境界島で私の元から連れ去った少年従者のことよ」
「ああ、そんなこともあったな」
イルマはわざととぼけた態度を取った。
周囲の罠を探す時間を稼ぐためだ。
エリナがただむざむざとここで待っていたとは考えにくい。
街道とはいえ、この当りでは下生えの雑草を適当に切っただけの代物であり、雨季である現在は水に沈まないだけマシという程度のぬかるみでしかない。
周囲を覆う木々は大きく高く、エリナが得意とするワイヤーを駆使した三次元戦闘を行うにはもってこいの環境だ。
気を付けるべきは頭上からの急襲。
貴族として生きてきたエリナが泥まみれで戦う道を選ぶとは考えにくい。
「黙ってないで答えたら?」
「答える利点が私にはない」
イルマは肩をすくめて嘲笑した。
「私が応じるとでも?」
「無理にでも、応じて貰うまでよ」
攻撃が来る。
対応できるようにエリナの身体の動きをイルマは注視する。
だが、予想に反してエリナは動かない。
何か仕掛けがあるのだ。
イルマもまた動かずに、機会を図る。
お互いの間に流れる緊張と雨音。
「ああ、もお~、じれったいなぁ!」
緊張感を破ったのは、地面から聞こえてきたのんきな声だった。
「何?」
直下から!
イルマが飛び上がるよりも早く、彼女の足が地面に固定される。
トリモチの類か?
否、イルマの足を捕らえたのは、そんなものではなかった。
「ああ、もうメローナ……アンタ、空気を読みなさいよ」
「だってぇ~、ぼく、退屈だったんだもん」
足首からふくらはぎへと桃色の粘液が這いあがってくる。
あまりのおぞましさに、イルマは思わず上げかけた声にならない悲鳴を堪える。
「こんにちわー、ぼく、メローナ! エリナの友達だよん!」
不自然な方向にねじ曲がった首の先に形作られた頭部が微笑みながら語り掛けてきた。
パン生地のように不定形に延び、変形する身体をもった怪物。
正体はよくわからないが、魔物の類であることは間違いない。
エリナめ、死霊を奴隷としていたばかりか、こんな魔物とも手を組んでいたのか。
「こ、こいつは……」
「こいつじゃないよ。メローナだよ」
そう言っている間にも、メローナの身体は薄く伸びてイルマの四肢を包み込み拘束する。
「まあ、いいわ。ありがとう、メローナ」
「えへへ~」
イルマを拘束したメローナが会心の笑みを浮かべる。
「さて、イルマ。案内してもらおうかしら?」
「どこへ?」
「しらばっくれないの。メローナ、ちょっとやっちゃって」
エリナの声を受け、イルマを包み込んで拘束しているメローナの一部が、イルマの下着の中へと浸透していく。
「ひあ!」
思わず悲鳴をあげ、イルマがもがく。
「ひ、卑怯者!」
「卑怯でけっこう。目的のためには手段を選ばないって、貴女のお師匠様に学んだのよ」
にっこりと僅かに鬼気を孕んだほほ笑みを浮かべ、エリナが近づいてくる。
「案内してもらうわよ。エキドナの元へ」
「すごいものね」
先をアレインの後を追いながら、カトレアは感嘆の声を上げた。
雨季の熱帯雨林、通常なら歩行することすら困難な道ではなく、アレインは樹冠と呼ばれる木上を飛ぶように進んでいく。
地形に左右されることのない最短距離の道をアレインは選んでいるのだ。
濡れていない枝、二人分の体重が載っても折れることのない丈夫な枝を足掛かりにして、先を急ぐ。カトレアから見れば、まるで森がアレインのために道を作っているようにも見えるほどだ。
「ついてこられる貴女も大したものだ」
時たま、後方のカトレアを確認しながらアレインは、道を慎重に選んでいく。
普段ならカトレアと一緒についてくるラナの姿はない。
アレインが強行軍になることを説明し、ラナに留守居をすることを納得させたのだ。
エキドナが本気になった場合、ラナを人質に取るぐらいのことは平気でする。
そうなればカトレアは戦えなくなる。
「ラナのためにも、早くすませて戻らないとな」
「すみません、気をつかっていただいて」
「気にしないでくれ」
「カトレア殿がついてきてくれただけで、十分、心強いのだから」
会話が可能な距離を保ちついてくるカトレアの技量は大したものだ。
伊達に優勝候補に名を連ねるわけではないといったところか。
「私一人では、エキドナの居場所もわかりませんでしたもの」
「お互い様だな」
カトレアの店に残された伝言を封じた札。
エキドナに拉致監禁されているという少年、ミシェルからの助けを求める伝言を目にしたアレインは迅速に行動を開始した。
それにカトレアが加わったのは、ラナのお願いということもさることながら、母親として子供が辛い目にあっているのを見過ごせないということもあった。
鍛冶職人として知られるカトレアが、極めて高い実力をもった美闘士であることは、広く知られている。
実力は五分と五分。
アレインだけでは、エキドナとの勝敗はわからない。
道を正す。
そのためなら刺し違えるのも覚悟の上だ。
だが、カトレアの助力があれば情勢は大きく変化する。
ゆえに今回はクイーンズブレイドには頼らない。
一対一という構図を排除してかかる。
エキドナは明晰な女だ。
有利不利の計算は早いし、無謀な挑戦はしない。
いわゆる不敗神話は、決して勝てない戦いを挑まないということだ。
自分とカトレア、二人を相手にすることの意味を理解できるはずだ。
「む……」
進行方向にあるものを見つけ、アレインが歩を止める。
「なにかありましたか?」
アレインは無言で前方を指さした。
その先には、一匹の蛇の姿が見える。
ただの蛇ではない。
銀色に輝く金属の鱗を持つ魔法生物だ。
「エキドナの目だ」
「ということは、目的地は近いというこですね」
「そうなるな」
とはいえ、エキドナに準備時間を与えるつもりはない。
こちらの襲来を知られ、増援を呼ばれては面倒だ。
可能な限り、気付かれないことが望ましい。
「おしゃべりはここまでにしておこう」
*
両手を腰に当てたまま、イルマは二人を先導していた。
エキドナが拠点としている岩山までは、普通なら徒歩で数日の距離がある。
「本当にこの道であっているの?」
「疑うなら自分で調べたらどうだ?」
イルマが腰から手を離せないのは、エリナが取ったとある策のせいだ。
メローナに拘束され身動きがとれない間に、エリナはなんと彼女の下着の両端を切りっとったのだ。
両手で押さえていなければ、無防備に下半身を晒す羽目になってしまう。
羞恥心がある限り、両手は離せない。
エリナにしてみれば、イルマは無視するものと思っていたのだが、意外にも顔を赤くして下着を押さえているのを見て作戦が功をそうしたことを理解した。
エキドナの愛人も務めているという噂だったが案外純情なのかもしれない。
不意にイルマが足を止める。
「ついたの?」
「いや、まだまだ。だが」
イルマが顎をふって前を見るように促す。
「なによ?」
エリナとメローナが見たのは、巨大な濁流だった。
「ここに橋があったのだが、流されてしまったようだ」
「他に道は?」
「ない」
イルマはきっぱりと断言した。
もう少し上流に行けば、渡河できる場所があるのだが、それを教えるつもりはない。
「雨季が終わるまで待つしかない。諦めて近くの街へ」
イルマが言い終わるより早くエリナが動く。
「メローナ、わかってるわよね」
「はいはい、友達使いが荒いねー」
メローナの身体がロープのように伸び、対岸へと進んでいく。
「ひ、非常識な……」
「よく言われるよ~」
対岸の大木を掴んだメローナの身体が薄く広がり橋を形作る。
「出来たよ~。でも、あんまり長くは維持できないかな」
「そういうわけだから、早くわたるわよ」
エリナがイルマを急き立てる。
思ったように足止めは出来ないようだ。
「便利すぎてやばいわね。アンタって」
「にしし、離れられなくなるでしょ」
*
「見えた」
アレインの視線の先には、さながら緑の海に浮かぶ絶海の孤島のような岩山がある。
エキドナのアジト。
別名『毒蛇の巣』と呼ばれる小要塞。
濡れた岩肌は登攀を拒み、周囲の密林に住む様々な毒虫や毒蛇、猛獣が天然の護衛役を兼ねている。
「速攻をしかける」
アレインはブーツのヒモを固く締め、カトレアに視線を投げる。
ついてこれるな。
無言の問いかけに、カトレアもまた無言で頷く。
二人は樹冠を飛ぶように駆け抜けていく。
目指すのは雨に濡れた岩山だ。
*
「やれやれ……めんどくさいのがきたもんだ」
水晶球を見るや、エキドナは隠すことなくため息を吐き、肩をすくめた。
ミシェルが初めて見る心底嫌そうな表情だ。
常に自信満々なエキドナに、こんな顔をさせる相手とは誰なのか。
興味本位で、ミシェルはエキドナが覗き込んでいた水晶球に目を向ける。
エキドナが隠れ家としている岩山をくりぬいた石窟、半ば迷宮化したその居城を守るべく、多数の魔法生物が配置されている。
蛇を模したそれらが見たものが水晶球に投影されてくるのだ。
「イルマは不在、よりにもよってこの状況で、この二人……」
水晶球に映る二人の美闘士。
緑色の外套を纏ったエルフの女戦士と、巨大な剣を手に後を追う美女。
エルフの女戦士はともかく、後を追う美女のほうにミシェルの視線は吸い寄せられる。
でかい。
ミシェルの頭が完全に挟まれてしまいそうな胸の谷間、当然のことながら乳房も巨大だ。
腰回りの安定感など、圧巻の一言に尽きる。
「おや? ミシェルはこういうのが好みかい?」
エキドナがニヤニヤと笑う。
目を奪われていたのは確かだが、好みというわけではない。
「残念ながら、彼女は人妻だからねぇ」
「人妻?」
「そ、しかも一児の母」
ミシェルは思わず絶句した。
クイーンズブレイドに参加する美闘士に年齢制限はない。
だが、彼が知る限りにおいて、母親の美闘士という存在は初めてだ。
「千年処女と最強人妻……こまった組み合わせだよ」
やれやれとエキドナは頭を振る。
「千年処女だけなら、いくらでもやりようがあるんだけどねぇ」
エキドナの手が、銀色の球体を弄ぶ。
アレインは苦手な相手だがやりようがある。
たとえばエリナを行動不能に追い込んだ魔法の蛇、休眠状態にあるこいつを活性化させれば、アレインを足止めするのも難しいことではない。
だが、背後に控えるカトレアには有効な効果は望めない。
「こいつは人妻には効果がないのさ」
球体を棚に戻しながら、エキドナはさてと腰に手を当てた。
「問題はこの二人が、なんのためにここに現れたのかってことなんだけど」
じっとエキドナはミシェルを覗き込む。
「心当たりは?」
ないといえばウソになる。
イルマの荷物に張り付けた符が効果を発揮したのかもしれない。
それをすべて見抜いたうえで聞いてきているのか。
ミシェルは唇を固く閉じ、無言をつらぬいた。
答えれば、そこからすべてが知られてしまいそうだ。
「まあ、いいさ。そろそろ動きがある頃合いだと思っていたからね」
後編へ続く
「く……」
圧倒的な力量の差に、エリナの身体が本能的に反応し、素肌に鳥肌が立つ。
おそらく、沼地の魔女は強い。
この雰囲気に打ち勝てるのは、クローデット義姉様ぐらいなものだろう。
自分が気負けしていることに、エリナは気づき拳を握る。
ここで臆してはダメだ。
「やっほー、魔女さま、お元気ぃ?」
まるで友達にでも話しかけるような気さくさでメローナが声をかける。
「息災じゃとも。メローナよ」
沼地の魔女の声が優しく答える。
それでも、周囲を威圧するような雰囲気は崩れていない。
「我が名は沼地の魔女。其方は何の用をもって我が館を訪れたのじゃ?」
衝立を貫いて魔女の視線がエリナを捕らえる。
こちらからは見えないが、向こうからは丸裸同然に見られている。
臆してはいけない。
「直接、目通りは出来ないのかしら?」
威勢を張り、エリナは尋ねた。
話し合うというのであれば、お互いの顔を見て話しをするべきだ。
「礼儀の問題を問うているのであれば許されよ。この衝立は、妾と其方お互いに守るためのもの……妾が魔力は強大すぎるが故に、衝立を障壁としておる」
沼地の魔女の言葉に偽りはないのだろう。
衝立越しにでも、本能的に恐怖を感じるほどの魔力を、直接浴びたらどうなるのか。
エリナにも想像はつかない。
ただ確かななのは、おそらく正気を保つのは難しいということだけだ。
ならば……。
メローナの背後から一歩、前へと踏み出し、エリナは名乗りを上げた。
「我が名はエリナ。ヴァンス伯爵家の末娘。美闘士としての名は絶影の追跡者エリナ」
「ほう……美闘士とな……」
「ここに来た理由はただ一つ、貴女が召喚したアイリの再召喚のためよ」
「アイリ?」
「お館様、笛の探索に出したメイドでございます」
わきに控えていた侍女がすかさず答える。
「おお……あの面白き娘のことじゃな、良きかな、良きかな」
何かを思案するような間をおいて、沼地の魔女は続けた。
「して……なぜ、アイリの再召喚を望む?」
「それは、彼女が私の奴隷だから」
「異なことを言う」
「なぜ?」
「あれは妾が召喚し、探索を命じた者、ゆえにあれは其方のものではなく、妾のもの」
「それは過去のことよ」
エリナは意を決して言い切った。
ここが勝負どころだ。
「アイリはクイーンズブレイドで敗北し、私の奴隷となった。それにも関わらず、私の許可もなく、勝手に消滅したのよ。これは重大な契約不履行だわ」
「クイーンズブレイド……なるほど、そういうことか」
エリナの言葉の中に、何か得心するものがあったのか、沼地の魔女の口調が変化する。
「妾の預言は正しかったようじゃ……」
「アイリの再召喚はしてくれるのかしら?」
「応じよう。エリナとやらよ」
柔らかな声が衝立の向こうから響く。
「アイリを再召喚し、その上で彼女に問うてみようではないか。彼の者の主人は誰なのかを、彼女が其方を選ぶか、妾を選ぶか……」
「よかったね。召喚してくれるってさ」
メローナがぼそっとつぶやく。
「だが、無償というわけにはいかぬ」
「いかなる代償を求めているのかしら?」
間髪を入れずにエリナは尋ねた。
支配者たるもの、決断は迅速でなければならない。
支払えない代償を求められたなら、あえて断ることも選択のうちだ。
「娯楽を」
「困ったわね。私、旅芸人じゃないんだけど」
エリナは心底、困惑した。
沼地の魔女を楽しませることなど思いつきもしない。
「じゃあ、提案!」
メローナの声に、沼地の魔女とエリナが彼女に視線を向ける。
「ボクとエリナがクイーンズブレイドで戦うってのはどうかな?」
「何を?」
ひゅるんと伸びたメローナの手をエリナの口をふさぐ。
「試合そのものが娯楽になるし、良い提案だと思うんだけどな」
「それは、良きかな、良きかな。楽しみじゃ」
沼地の魔女は提案に応じ、侍女たちに視線を送った。
「はい、さっそく準備をいたします」
「さーてさて、久々の登場でございますよぉって!」
エリナからのクイーンズブレイド開催宣言を受け、地上におりたナナエルが思わず絶句する。
「ちょ、ちょっと、ここ沼地の魔女の館じゃないの。こんなところに呼ぶな~!」
ナナエルの眼下に見えるのは、館の中庭に立つ二人の美闘士と、それを観戦する沼地の魔女と下邊達の姿だ。
「ナナエル! 早く開催宣言をして!」
上空に向けてエリナが叫ぶ。
「あんった、ほんとあたしの言う事聞かないのな。はいはい(いいのかな~)」
ゆっくりとナナエルが降下してくるのを確認し、エリナは長槍を手に正面に立つメローナに向けて宣言する。
「我が名は絶影の追跡者エリナ、わが追跡を阻むものは刃の散りとなる定め!」
宣言と同時に光り輝く紋章が浮かび上がる。
「ひゅーっ、かっこいいねぇ」
メローナもまた拳を突き出し宣言する。
「千変の刺客メローナ!」
「両者、要求を述べよ」
ナナエルに促され、エリナが顔を上げる。
「私の要求はただ一つ、アイリの再召喚! それだけよ」
沼地の魔女の前でクイーンズブレイドを行う。
ただそれだけで、アイリの再召喚を行うと魔女は言っていた。
だが、ダメ押しが必要だ。
クイーンズブレイドの願いでそれを確実なものとする。
「お? エリナちゃんが願いを決めてくるとは珍しいねぇ」
ナナエルがクスクスと笑う。
「茶化さないでよ。真剣なんだから」
「はいはい、ごめんごめん。んで、そっちの子は?」
「ボクの願いはねぇ……エリナのトモダチにしてほしいってことかな?」
「え?」
メローナの言葉に、エリナは思わず絶句した。
彼女が何を言っているのか理解できない。
伯爵家という身分に釣り合う同年代の知人がいないエリナにとって、友達という関係がどういうものか、今一つ理解ができないのだ。
「言ったじゃん、利用させてもらうって」
そういってメローナはニタリと口を歪める。
「さあ、良き戦いを見せて! 美闘士たちよ、もてるすべてを惜しみなく見せ、死力を尽くし戦うがいい! クイーンズブレイドの戦いを!」
ナナエルの宣言と同時に、二人の紋章が衝突し、光をまき散らしながら消滅する。
どう戦ったものか?
エリナは無防備に立つメローナをじっくりと見分しつつ間合いをはかる。
人のカタチを取ってはいるが、メローナは本来不定形の存在だ。
初めて姿を現した時と同じく液状化して潜られでもしたら、攻撃のしようがない。
そもそも、長槍で何とかできる相手なのか?
自分の武器で何が有効なのかもわかっていない。
わかっているのは、今回のクイーンズブレイドが完全に準備不足だということだ。
だが、やるしかない。
「友達に武器を突き刺す趣味はないのだけれど」
まだ友達じゃないからかまわないわよね。
エリナは意を決し、長槍をまっすぐに突き出す。
対するメローナは、意外にもそれを避けずに、受け止める。
否、受け止めるなどというものではない。
無視だ。
長槍がまるで泥を穿つかのように手応えもなく、メローナの身体を突き抜けていく。
「うわぁ、心臓一突きだよ。躊躇がないねぇ」
長槍を胸に突き刺したまま、メローナが笑う。
「こうすることもできる……よっ!」
メローナが軽く力を入れる。
それだけで、彼女の胸に突き刺さった長槍はまるで巨人の指で抑えつけらえたかのように動かなくなった。
「くっ! 出鱈目じゃないの!」
「にゅふふふぅ……エリナっちってば人間としか戦ってないでしょぉ」
突如として長槍を抑えていた力が抜け、エリナは大きく体勢を崩す。
「それじゃあ、この先、やっていけないと思うから、ボクがここで教えてあげるね」
ぐにゅんと身体を変形させ、メローナがエリナに迫る。
歩くとか、走るといった人間としての動作ではない、完全に異質な魔物の動きだ。
これではさしものエリナも行動を予測することが出来ない。
「ありがとうって言うべきなのかしらね」
迫るメローナの指先をエリナがかぎ爪で切り飛ばす。
細かく切り刻めば、そう簡単に復活はできないかもしれない。
一縷の望みをかけ、エリナは一気呵成に攻撃を続けた。
*
「良きかな、良きかな。メローナめ……楽しんでおるな」
沼地の魔女が笑う。
クイーンズブレイドというものも、そう悪いものではない。
「これは、エリナさんが気の毒ですね~」
衝立越しに二人の戦いを観戦する沼との魔女の傍らで、メナス王女が軽く頭を振る。
「そう思うか?」
「相性が悪すぎですわぁ」
千変の刺客メローナは、その名が示す通りあらゆるものに姿を変えることが出来るシェイプシフターと呼ばれる魔物だ。
切り刻まれても、すぐに再集結して一体化することが可能だ。
それを防ぐには焼くぐらいしか方法がない。
もしくは、飽和状態になるまで何かを吸収させるか……。
現状のエリナには、どちらも取ることが出来ない。
「まあ、エリナとやらの敗北は必至であろうな」
「ではなぜ、クイーンズブレイドを?」
「妾はな、見たいのじゃ。メナス王女」
沼地の魔女は笑っているようだ
「妾にはまだ身体がない。ふさわしき器の可能性があると思えば、興味も湧こうというものじゃ」
*
「痛い、痛いってば」
そう言いながらもメローナは接近を止めない。
むしろ喜んでいるようにも見える。
痛みを感じていないのか?
斬り飛ばしたはずのメローナの身体が、小さな水滴に変化し本体へ集合していく。
これではいくら切り刻んでも致命傷にはならない。
「もう、エリナってば激しいなぁ」
メローナが全身を震わし、姿を別人へと変える。
ほんの一瞬の間をおいてエリナの前に、もう一人のエリナが姿を現す。
髪の毛、肌、瞳、姿かたちそのものは完璧に一致している。
「どうかな? 似てるぅ?」
「似てるわね!」
迷うことなくエリナは、メローナの眉間に向けて槍を突き出す。
「ひゃ! 自分の姿に迷わないわけぇ?」
「支配者たるもの、決断に迷いがあってはならないのよ!」
「そっかあ……じゃあ、これは良い判断だねぇ」
頭に槍を突き刺したまま、エリナの姿をしたメローナの形が崩れる。
さながら爆発しかたのように、メローナは自分の身体を大きく薄く広げてエリナの四方から迫る。
逃げる暇もない。
メローナの身体がエリナを包み込む。
いきなり水中に引きずりこまれたようなものだ。
息が出来ない。
(んふふふぅ。これがエリナの味かぁ)
メローナの声が聞こえてくる。
何を!
反論しようにも声がでない。
口を開けば、その中にメローナが入り込んでくる。
全身を包まれ、なめまわされているような感覚に酸欠が加わり、エリナの意識が遠のいていく。
(味わい深いねぇ……ボクとしては、硬いものをゆっくりと溶かすのが好きなんだけど……聞こえてる?)
返事などできるはずもない。
(おおっといけない、人間は呼吸しないといけないんだよね)
気道からメローナが離れ、エリナの身体に新鮮な外気が吹き込んでくる。
「ぷはぁっ……」
(これで、しばらく楽しめるねぇ)
全身を撫でまわすメローナの感触にエリナの頬が赤く染まる。
エキドナの蛇に弄ばれた感触とは違う、メローナの手技に身体が予期せぬ反応を見せる。
この感覚は危険だ。
これを快感と判断したら、もう元には戻れない。
「くっ……ま……」
負けたと言うべきなのに、その一言が口にできない。
自分を包み込むメローナの身体が最後の一線を越える前に、宣言しなければ!
(いいんだよ。素直になりなよぉ)
メローナの微細な振動が、エリナの快感を喚起する。
「ひゃ……ひゃうん……」
口から出たのは敗北宣言ではなく喘ぎ声だ。
このままでは、ダメになる。
時には敗北を認めるのも支配者のつとめ……。
「くっ、ま、負けたわ! 私の負けよ!」
エリナの声が沼地の魔女の館に響き渡る。
「おやぁ、試合終了かな?」
ナナエルが小首傾げ、メローナに包まれたエリナを見下ろす。
「二度も言わせないで……」
消え入りそうなエリナの声に、ナナエルは小さく頷いた。
「勝者! 千変の刺客メローナ!」
ナナエルの勝利宣言を受け、メローナはエリナから離れる。
「それじゃ、あたしはこれで! 次のクイーンズブレイドを楽しみにしてるわ」
瘴気漂う沼地には長居したくないのか、ナナエルは早々に飛び去っていく。
「くはっ……げほっ……」
メローナの体液でずぶ濡れになったエリナは、立っていることもかなわず、膝をついて大きくせき込んだ。
「勝者の要求! ボクをエリナのトモダチにしてくれるよね!」
「要求は受け入れるわ……」
「ありがとぉ、これで、ボクは自由の身だぁ!」
メローナが大きく手を上げて喜びを現す。
その姿を見ながら、エリナは全身から力が抜けていくのを感じ、そのまま気絶するかのように倒れこむ。
「あれえ? 消化しないように気をつけたんだけどなぁ……」
メローナの声が聞こえる。
「……ごめん……アイリ……ミシェル……」
「ん~~~、そんなに落胆しなくてもいいよ、エリナぁ」
微笑みを浮かべるメローナの顔を見ながら、エリナは意識を失った。
息が上がる。
エキドナによる笛の能力を調べる行為は、ミシェルにとって体力の限界を試すことにも等しかった。
快楽も限度を超えれば苦痛となる。
「はぁん、頑張るじゃないか、坊や。あたしもあんたの"笛"が、やみつきになっちまいそうだよ」
エキドナの唇が笛から離れる。
ミシェルは身動きすらできないほど疲労したかのようにベッドで横になった。
ここ数日、エキドナは笛の限界を知りたいと言って様々な手法を試していた。
笛の効能で一番明確なのは傷の治療だが、あいにくエキドナが手傷を負うようなことはない。
一度、負傷したイルマの傷を笛で治したことがあったぐらいで、疲労回復などは本人しかわからないし、他の効能については目で見てわかるようなものはない。
「おや? やりすぎちゃったかねぇ」
エキドナが優しくミシェルの額をなでる。
「使い過ぎると、こっちが持たないってわけだねぇ……坊やも少しは鍛えないと」
そう言いながらミシェルの身体をエキドナはゆっくりとほぐすように撫でていく。
心地よい手使いに眠りそうになりながらも、ミシェルは懸命に意識を維持した。
好機を逃すわけにはいかない。
今夜はエキドナに命じられたイルマが、この地を離れる日だ。
伝言を記録した符には、気配を消す符を重ね、発見され辛い工夫を施した。
これをエキドナの目を盗んでイルマの荷物に忍ばせねばならない。
「エ、エキドナ……さん?」
「ん? なんだい、坊や」
「ぼくは坊やじゃありません。ミシェルって名前があります」
「そう、じゃあミシェルに質問だ」
「質問?」
「ここから出ていきたいかい?」
思わぬ問いかけにミシェルは目を丸くした。
イルマが来るまでの時間稼ぎのための会話だが、思わぬ方向に転がりそうだ。
「自由が欲しいです」
「そうだねぇ、ここでもずいぶんと自由にさせてると思うんだけど」
「ぼくには使命があるんです」
「ほうほう、使命ねぇ」
「マラマクスに行かないといけないんです」
「それなんだけどね?」
エキドナがぐいと顔を近づけてくる。
笛は彼女の胸の谷間に挟まれたままだ。
「マラマクスに行くのは、別にエリナ嬢ちゃんじゃなくてもいいんだろう?」
予期せぬエキドナの提案。
「そ、それは……」
「エリナ嬢ちゃんより、アタシのほうが腕は立つよ」
確かにその通りだろう。
だが、自分が選んだのはエキドナではない。
ミシェルの無言を躊躇と思ったのか、エキドナもまた黙って彼の返事を待つ。
「お師匠様」
沈黙を破ったのはイルマの呼びかけだった。
「そろそろお時間です」
声と共に旅装姿のイルマが宝物庫に入ってくる。
単身で動くエキドナと違い、長期の潜入任務をこなすことも多いイルマが手ぶらで行動することはない。
それがミシェルの狙いどころでもあった。
「おや、もうそんな時間かい?」
エキドナが身体を起こし、ミシェルの傍から離れる。
好機到来。
エキドナの視線はミシェルから離れ、イルマはエキドナしか見ていない。
この機会を逃すわけにはいかない。
ミシェルはとっさに符をイルマの荷物にむけて放った。
気付かれないことを祈る。
二人が気付くことはなく、符は狙い通りに荷物へと張り付いた。
後はイルマの旅先で落ちるであろう符が、誰かの目に留まるのを祈るしかない。
「ミシェル」
イルマとの会話を終えたエキドナが振り向く。
「返事は急がないよ。身も心もアタシのものになってくれれば言うことはないからねぇ」
くすくすと笑いながらエキドナは、宝物庫を後にした。
豪奢な天蓋付きのベッドでエリナは目を覚ました。
「ここは……」
意識を失う前の出来事を思い出す。
自分はメローナとのクイーンズブレイドに敗北したのだ。
「良きかな、良きかな。目覚めたようじゃな」
隣から聞こえてきた声に、思わず跳ね起きる。
「な、なにを?」
ベッドの脇に置かれた衝立の向こうから沼地の魔女がエリナの問いに応じる。
「なにもしてはおらぬ……ただ寝ている汝を眺めていただけじゃ。そうしたほうが良いと占いの結果が出たのでな」
眺めるって……こっちからは何も見えないんですけど!
「安心するがよい。其方には手を出しておらぬ」
魔女の言葉を受け、エリナは自分の身体に異常がないかを確認する。
おかしな入れ墨や魔術の類がかけられていたら一大事だ。
相手の言葉を鵜呑みにするのは支配者のすることではない。
「其方のクイーンズブレイド、なかなか楽しませてもらった」
「じゃ、じゃあ、アイリは?」
「必ず復活させよう。そのためには、何か、拠り所になるようなものがあると良い」
沼地の魔女の言葉を受け、エリナは荷物の中から、アイリに身につけさせていた首輪を取り出した。
「ほう、それは」
「私がアイリに奴隷の証としてつけさせていたものよ。これなら十分じゃないかしら?」
エリナの説明が終わるや、首輪がエリナの手元から消え失せる。
「しかと受け取った」
衝立の向こうから鎖の音が響く。
「だが、再召喚には時間がかかる」
「どのくらい?」
「それは、星の位置、地の流れ次第……」
「そんなには待っていらないんだけど」
ミシェル奪還のためにも、長くは待てない。
「だからトモダチがいるんじゃないかな」
エリナの焦りを見透かしたように、ベッドの下からにゅるんとメローナが姿を現す。
「魔法の笛探索任務、アイリの代わりにボクがいってもいいよね?」
メローナが沼地の魔女に尋ねる。
「面白い風……これがそれか……」
意味不明な沼地の魔女の言葉に、エリナとメローナが顔を見合わせる。
「よかろう。メローナよ、其方にかけた戒めを解く、トモダチと共に行くがよい」
沼地の魔女の言葉を受け、メローナの身体が小刻みに震える。
「んっふふふふふ、いいんだね、いいんだね、ボクを自由にして!」
「構わぬ。アイリに代わり、笛を取り戻してくるが良い」
「まーかせて! エリナ、ボクと一緒に行こうね!」
自分を無視して展開していく事態に対して、エリナは無言で頷くことしかできなかった。
「なぁんだとぉ!」
思わぬ怒号に兵士が身を固くする。
ヴァンス伯爵領の軍事上最重要施設であるクローデット将軍の執務室のドアがビリビリと振動する。
「その情報は確かなのか!」
クローデットは思わずテーブルに拳を叩きつけた。
沈着冷静で知られる彼女の激情的な姿に、居合わせた兵士らは思わず身を縮める。
「地図を!」
クローデットの指示にしたがい兵士が大テーブルに地図を広げる。
「この情報は確かなのだな!」
念を押すようにもう一度クローデットは伝令兵に尋ねた。
「はっ! 間違いありません。エリナ様は同行者一名と共に沼地の魔女の元へ向かったとのことです」
クローデットは無言で地図を睨みつけた。
エリナの目撃情報があった地点から沼地の魔女の支配地域までの日数と、現在地からの移動日数を計算する。
よし! いける!
「全軍に出立の準備を」
クローデットの言葉に兵士達が顔を見合わせる。
「沼地の魔女とはいずれ雌雄を決しなければならない相手、今こそその時!」
「お、お待ちください将軍!」
クローデットの言葉を副官が遮る。
「軍を動かすには、伯爵の許可が必要です。さらには兵站の準備も整っておりません」
冷静な副官の言葉にクローデットは自分の意識が冷めてくるを感じた。
いかん。
エリナのこととなると、どうにもよろしくない。
「すまない、副官。皆も気を楽にしてくれ」
クローデットは手を軽く振って一同に退室を促した。
同行者一名。
報告のなかにあった一言がクローデットの脳裏に引っかかる。
以前の報告では、ヒノモトに渡った時の同行者は二名だった。
いったいエリナの身に何があったのか……。
クローデットの闘気に応じるように、愛剣サンダークラップが紫電を纏う。
「沼地の魔女……エリナに手を出したなら、私が確実に思い知らせてやる」
Episode 4 終わり
ミシェルを狙うエキドナとその弟子イルマは、ヒノモトの甲魔忍軍を雇い入れ、鉄壁の布陣でエリナ一行を襲撃する。アイリが消滅し、エリナもまたエキドナとの勝負に完敗する。そしてミシェルはエキドナに連れ去られてしまった。
まずは感謝を。
エリナ様、経緯はどうあれ、貴女様を主人として共に旅をすることが出来たことは私にとって大変楽しい出来事でありました。
奴隷という立場ではありましたが、貴女が私のことを従者として扱ってくださいましたことは忘れることのできないことです。
これを読まれているということは、私の身に不慮の事態が起きたということだと思います。
おそらく、身体を維持できずに消滅していることでしょう。
もし、エリナ様が再び私を従者として雇用したいとお考えでしたら、沼地の魔女様の元を訪れてください。
かのお方は当代最高の召喚術師でもあります。
必ずや私を再び召喚してくださることでしょう。
エリナ様の奴隷、冥途に誘うものアイリ。
エリナがアイリにかけた首輪。
アイリの消滅にともないイルマの手でエリナに戻されたその内側には、アイリが密かに隠していた手紙が残されていた。
向かうべき指針は決まった。
マラマクスへ向かうには、かの地を指し示すミシェルの笛が必要不可欠。
笛を取り戻すためには、エキドナと再戦しなければならない。
エキドナとの戦いに勝つためには、アイリの力が必要だ。
己の力量を知るのも支配する者のつとめ。
「沼地の魔女……」
噂には聞いている。
瘴気漂う沼沢地に居城を構える魔性の女。
問題はいかにして、そこへと向かうかなのだが……。
「おやおやぁ……これはぁ、これはぁ、エリナ様ではありませんかぁ」
やや間の抜けた独特のイントネーション。
聞き覚えのある口調に、エリナは声の主へと視線を向けた。
そこに立っていたのは色鮮やかな貴金属を身に着けた褐色の肌の美女、古代の王女メナスその人であった。
「メナス……だったかしら?」
「はい~、メナス王女ですよぉ」
「こんなところで何をしてるのよ?」
偶然にしては出来すぎた再会。
そう考えるのは警戒のしすぎだろうか。
「えっとですねぇ、沼地の魔女さまのところに行く途中なんですよぉ」
エリナは我が耳を疑った。
あまりにも、あまりにも出来すぎている。
だが、たとえ見え透いた罠だとしても、今のエリナにはこれに賭けるしかないということも、また現実である。
「ねえ、メナス」
「はいぃ?」
「私も、沼地の魔女のところへ、同行してあげてもいいのだけれど……」
素直に連れていけとは言えない。
支配者たるもの、自らの願いを率直に口にしてはならない。
自分の願いを相手に忖度させるのが、支配者の力量というものだ。
返答やいかに。
「いいですよぉ」
あっけないほど簡単な、逡巡した時間すら感じさせないメナスの即答に、エリナの膝が砕けそうになる。
彼女を相手に緊張とか、身構えるのは無意味なのかもしれない。
自分もそうだが、王族というものは得てして決断が早いものなのだ。
「一人旅は、退屈ですものねぇ……道中、いろいろとお話を聞かせてくださいねぇ」
メナスの言葉に自分の幸運を自覚し、エリナは小さく拳を握った。
支配者たるもの、幸運を招き寄せるのも資質の一つなのだ。
*
下半身に感じるむず痒さにミシェルは目を覚ました。
ぼんやりとした視界が徐々に明確になっていく。
洞窟を思わせる継ぎ目のない石造りの空間、薄く輝く照明が室内を照らしている。
周囲に共に旅をしていたエリナたちの姿はない。
自分は連れ去られたのだ。
「おや、お目覚めかい?」
エキドナの声が聞こえてくる。
「安心しな、危害を加えるつもりはないよ」
ミシェルの半身とも呼べる魔法の笛を手に、エキドナは笑みを浮かべた。
「アンタはアタシの所有物さ。自分のお宝は大切にするよ」
そう言ってエキドナは両腕を大きく広げた。
部屋の中には、数々の棚とそこに飾られた様々な宝物がある。
どうやらミシェルもエキドナ自慢の収蔵物に加えられたようだ。
「ぼくは……誰のものでもないよ」
「いいや、アタシのものさ」
エキドナは長い舌を伸ばし、笛の先をねっとりと舐める。
「あうっ」
笛を吹くわけでもない、ほんのわずかな、だが確実に感触が伝わってくる絶妙な舌使いにミシェルは思わず声を上げた。
「あたしの技の前に、生意気な口をいつまで聞いてられるか」
エキドナが笛を自らの豊満な胸の谷間に挟む。
「楽しみだねえ」
胸に挟んだ笛に向けて息を吹きかけながら、エキドナが笑う。
「く……くぅ……」
笛を通じて伝わってくるエキドナの鼓動と体温、そして吐息にミシェルは起き上がることもできずに声をかみ殺す。
エキドナは自分と笛の共感関係を熟知している。
笛が彼女の手元にある以上、ここは大人しくして機会を待つしかない。
「まあ、いいさ。時間はたっぷりとあるんだし」
エキドナは笛を胸の奥へと押し込むと、ミシェルの傍へと近づいていく。
「お腹、空いてるんじゃないかな?」
「う、うう……」
言われてみれば、エキドナに連れさられてから今まで、食事はおろか水を口にした覚えもない。
「起きておいで、食事にしよう」
エキドナは不気味なまでに優しくミシェルに手招きした。
*
メナスとの旅は快適そのものだった。
魔法の絨毯は、揺れることもなく、地形に左右されることもなく、旅路を進み、道中での食事もまたメナスが言うところの王族にふさわしいものが、提供されるという至れり尽くせりなものであった。
沼地の魔女が住む居城は、普通の人間なら立ち入りも困難な猛毒地帯の果てに存在している。
生物を拒む瘴気溢れる毒の沼や、足を絡めとる底なしの汚泥、迷い込んだ旅人を餌食とする死霊や、沼ゴブリンといった怪物たち。
その地を超えて、生身の人間が魔女の館へと向かうのは正気の沙汰ではない。
事実、交易路すら存在していない魔界の領域といっても過言ではない地域である。メナスの魔法の絨毯が無ければ、いかにエリナとて途中で挫折していたかもしれない。
「さあ、着きましたよぉ~」
目の前にそびえる巨大な館の前で、魔法の絨毯が動きを止める。
「ここが沼地の魔女の館」
不気味さを漂わせる尖塔をつなぎ合わせたような構造の独特の洋館。
屋根に並ぶ不気味な彫像はいつ動き出しても不思議ではない雰囲気をまとい、歴史と長い年月を感じさせる古ぼけた外壁は蔦に覆われ、鬼火がゆらゆらと漂いながら周囲を照らしている。
「さて、エリナさん、わたくしはこちらで失礼いたします~」
「え?」
「ここから先は、私の支配地域ではありませんので~」
くすりとほほ笑み、メナスは館の門扉へと指輪をかざす。
するとそれが鍵であったかのように、音もなく門が開いた。
「この先は、私しか入れませんので~」
「無理に入れば?」
「あのお方たちが、エリナ様のお相手をなさるかと~」
いつの間に現れたのか、門の内側にアイリと同じメイド服を身にまとった二人の侍女が
メナスを出向かるかのように頭を下げている。
「マイムさんとミーナさん。どちらもアイリさんと同じくらいお強い方たちと聞いています~」
魔女に会いたければ自分でなんとかしろと、メナスは暗に言っているのだ。
「わかったわ。ここまでありがとう」
無理に食い下がってもよい結果は得られない。
せっかくのメナスとの友好的な関係を壊すのは得策ではないだろう。
「で、メナス、あんたって本当に何者なの?」
「わたくしはただの、この世でもっとも偉大な国でありましたアマラ王国の王女です~」
そういって腰をかるく揺らしながらメナスは魔女の館へと入っていった。
*
連れ去られてから一週間余りが過ぎた。
エキドナが自ら言ったように、彼女のミシェルに対する扱いは悪いものではなかった。
客人とまではいかなくとも、虜囚というほどでもない。
どちらかと言えば、愛玩動物的な扱いである。
食事はきちんと出るし、生活は不快なものではない。
毒や薬を警戒したが、それは取り越し苦労だったらしい。
何気に料理は「自分で食べたいと思うものを作るのだから、不味いはずがないだろう。馬鹿だねぇ」とエキドナは言っていた。
つまりエキドナ自身が調理しているのだろう。
意外にも料理上手だ。
一方肝心の笛は、つねにエキドナが手元においており、取り戻すのは容易ではない。
それ以外のミシェルが持っていた私物には興味がないのか、手をつけたような形跡はないのが救いといえば救いなのだが。
「油断しているというわけではない」
イルマが釘をさすようにミシェルに告げる。
「お前の動きはエキドナには筒抜けだ」
エキドナが留守の際には、イルマが彼の監視を務めている。
この場所に来てから、ミシェルが目にした人間はエキドナとイルマだけだ。
寝室としてあてがわれた宝物庫には窓がなく、ここが何処かもわからない。
これでは助けを呼ぶことも出来そうにない。
とはいえミシェルとて、何もせずに過ごしていたわけではない。
エキドナは一定の周期で外出することがわかってきた。
留守中はイルマがいるとはいえ、エキドナほどミシェルに関心がないのか、宝物庫にはめったに入ってこない。
すなわち、ミシェルにとって一人でいられる時間ができるということだ。
その時間を利用してミシェルは一計を案じた。
連れ去れた際に持ち出せた数少ない所持品の中にあったヒノモトの符。
武者巫女たちの連絡手段に用いられる貴重な品を、エリナは報酬としてトモエからいくつか受け取っていたのだ。
伝言を記録した符を誰かに託すことさできれば脱出の足掛かりぐらいにはなる。
問題は、符を託す相手がいないということだ。
エキドナもイルマもそれを許すほどの間抜けではない。
「考えろ、よく考えるんだ」
一人の時間を駆使し、ミシェルは懸命に手段を探した。
「ヴァンス伯爵家のエリナよ。沼地の魔女に話がある」
門扉の向こう側で、こちらを警戒するかのように立っている侍女に向けエリナが声を上げる。
だが、反応はない。
「聞こえてるの?」
侍女は無表情のまま、視線だけをエリナに向ける。
感情のない無機質な瞳はアイリとは大違いだ。
「ははは、ダメ、ダメ、その子たちは人形だからさ、魔女の命令以外には反応しないよ」
足元から聞こえてきた声に、エリナはぎょっとして身構えた。
この場にいるのは、門扉を挟んで自分と侍女だけのはずだ。
「あ~、警戒しなくてもいいよ。ボクは君の敵じゃあないから」
エリナの足元からピンク色の泡がボコボコと吹き出し、ゆっくりと不気味に波打ちながら人の形を作っていく。
「な、何者?」
「ボクはメローナ」
そこに立っていたのはもはやピンク色の固まりなどではなかった。
豊満な肢体をもつ自分と同年代の少女が、エリナと門扉の間に立っている。
魔物……。自在に姿を変えられるシェイプシフターという魔物が存在することは聞いたことがあったが実際に目にするとまごうことのない化け物だということが実感できる。
「君がエリナだね。アイリから話は聞いているよ」
「アイリから?」
いつの間に連絡を取っていたのか?
「ああ、アイリは君を裏切ってはいないから怒らないでやってほしいな、ボクが話を聞きにちょくちょく伺ってたんだよ」
エリナの思考を読んだのか、メローナは人懐こい笑顔を浮かべアイリを弁護する。
アイリがエリナの奴隷となってから、外部との接触を取っていた気配は確かになかったはずだ。
「ボクもね、アイリから話を聞いて、イイなって思ってたんだ」
「何が?」
「アイリみたいに旅をしたいって、心から思ったのさ」
「ふーん……」
エリナは無関心に生返事を口にした。
目の前の魔物の心情など、自分の目的には無関係だ。
「で、アイリのトモダチの力になりたいんだけど、迷惑かな?」
罠かもしれない。
だが、罠ならメナスとここに来た段階で、すでに掛かっているのだ。
ここまで来たなら、たとえ罠でもそれを打ち破るのみ。
「差し当たって……何をしてくれるのかしらね」
エリナは口元に笑みを浮かべ尋ねた。
当面の居場所でも構わない。
沼地の魔女と面通しなど、僥倖すぎるというものだ。
「魔女に会わせてあげるよ」
僥倖すぎる。
「で、できるの?」
思わず口にでるぐらいエリナは驚愕した。
メローナはいったい何者なのか?
アイリのはからいによって得られた協力に、膝が震えてくる。
「できないことは口にしない主義なんだ。ついてきて」
そう言ってメローナは門扉に手をかけた。
「おかえりなさいませ、メローナさま」
侍女が恭しく頭を下げる。
「ただいま~、マイムとミーナ。キミたち相変わらずマジメだねぇ。あ、同行者一名ね~」
「かしこまりました」
エリナは慌ててメローナの後を追った。
あれ程まで強固に閉ざされていた門扉が彼女を妨げることはなく、侍女もまた客人を出迎えるように頭を下げる。
支配者の幸運。
それを確信し、エリナはメローナと共に魔女の館に足を踏み入れた。
*
「これでぇ~、お話はおしまいです~」
メナスの声が占いの間に響く。
彼女の前には豪奢な装飾が施された衝立が並び、その奥にいるであろう人物の姿を完全に隠している。
「良きかな、良きかな。メナス王女、そなたを復活させた甲斐があったというものじゃ」
衝立の向こうから、威厳のある声が響く。
「現女王であるアルドラさんと縁を結べたことは、素晴らしいことでした~」
「占いの結果が良い方向へと運命を導いているようじゃ」
衝立越しに嬉しさにはずんだ声が聞こえてくる。
「まだ姿を直接、見せてはいただけませんの?」
「占いでは、まだそなたに姿を見せるべき時ではない、と出ておる。」
メナスの問いに奥にいる人物がきっぱりと答えた。
彼女こそ、この館の主にして、大陸に名を知らしめる『沼地の魔女』その人である。
天界からの干渉を避けるため、沼地の魔女は自分の行動を占いで決定している。
その占いが彼女をこの沼地に縛り付けているのだ。
故に、メナスやアイリといった存在を積極的に利用し、自らが動くことなく世界情勢に関する知識を得ることにしている。
「失礼いたします」
メガネをかけた落ち着いた雰囲気の侍女が入室してくる。
「メローナ様が客人をお連れになりました。面会を希望しておりますが、いかがいたしましょうか」
「面白い風が吹く……そう占いには出ている」
沼地の魔女が幕の奥で、慈愛に満ちた笑みを浮かべているようにメナスには思えた。
「会おうではないか……ミーナ、面会室の用意を」
*
メローナに連れられてエリナは沼地の魔女の館へと足を踏み入れた。
不気味な外観とは違い、館の中は十二分に手入れが行き届いている。
タイルで覆われた装飾性の高い床は磨き抜かれており、鏡のように歩行者の姿を映すほどだ。
「ねえねえ、魔女って今日は空いてる?」
案内係のメイドに向けメローナが声をかける。
「占いの結果次第でしょうか?」
「占い?」
エリナのつぶやきにメローナはにやりとした笑みを浮かべる。
「沼地の魔女はね。占いで行動を決めるんだよ」
「占いねぇ……」
こいつは厄介だなとエリナは思った。
理路整然とした人物であれば、いくらでも交渉の余地はある。
だが、占いなどという未知の要素が絡んでくるとなるとそうはいかない。
どちらに転ぶのか、まさに神のみぞ知るといったところだ。
「安心してよ。悪い方には転ばないと思うから」
エリナの心情を見透かしたかのようにメローナが語り掛けてくる。
「あのね、メローナ」
「ん? なぁに?」
「どうして、私に親切にしてくるの?」
「利用しようと思って」
きっぱりと言い切ったメローナの発言にエリナは思わず口元を緩ませた。
「清々しいわね。でも、私は貴女の求めるものが何かわからないんだけど」
「わからなくてもいいよ」
「え?」
「そのほうが面白いから」
*
二人が案内されたのは謁見の間というには、少しばかり手狭な感じの広間だった。
一段だけ高くこしらえられたステージの上には、禍々しい装飾の施された玉座があり、その左右には先ほどメナスやメローナを出迎えた侍女たちが控えている。
「沼地の魔女さまのお出ましにございます」
メイドが声を上げると同時に、ふわりと空気が動く。
玉座を覆うように衝立がそびえ、完全に玉座を隠すと同時に、強大な魔力を秘めた気配が出現した。
「こ、これが沼地の魔女の存在感か……」
次回に続く
「遅いわね」
港の外れ、複数の桟橋が交差する埠頭の一角でエリナはポツリとつぶやいた。
布張りの天幕によって日陰が作られ、風通しも良い。
休憩所としては理想的な環境だ。
足元のごみ入れには、団子の串が数本ほど入っている。
小腹が空いたというエリナの要求にこたえ、ミシェルが屋台から買ってきたものだ。
「もう少し、買ってこようかな?」
ミシェルが勝ってきた団子は、醤油味と餡子が半々。
どちらも大陸では味わえない味覚であり、エリナは気に入っているのだが。
「今日はこれぐらいにしておくわ」
食べ過ぎると太りそうなので、止めておくことにした。
実際、ヒノモトの食生活が予想していたより豊かなものであったため、若干、太り気味になっているような感じがしている。
脇腹のあたりがちょっと気になっていることは自分だけの秘密だ。
「じゃあ、ちょっと様子を見てこようかな」
桟橋に腰掛け、波を見ていたミシェルが立ち上がる。
「大丈夫よ、もう少し待ちましょう」
「え? でも、さっき遅いって」
「アイリにしては遅いってだけよ」
そう言ってエリナは視線を彼方の水平線から手元へと戻した。
揺れは大分治まってきている。
長い船旅の後だけに、まだ多少は揺れているような感覚が残ってはいるが、日常生活に支障が出るほどではなさそうだ。
とはいえ、ここはまだ中継地点、大陸に戻るためにはもう少しだけ船旅を続ける必要がある。
そのことを思うと少しだけ憂鬱になるのだが、ミシェルにそんな表情は見せられない。
支配者たるもの、常に自信を持つべし。
上に立つものが不安な顔をしていれば、それは下々にまで伝わり、漠然とした不安となって失敗を呼び込む原因となる。
「アイリみたいな手練れなら安全だけど、ここはそんなに治安が良いわけじゃないわ。ミシェルみたいな子が一人でうろついていたら大変なことになるかもしれないわね」
「大変なことって?」
「見知らぬ誰かにさらわれるかもしれないねぇ」
ミシェルの問いに答えたのはエリナではなかった。
声の主に向け、エリナとミシェルが同時に顔を向ける。
褐色の肌に巻き付いている蛇が視界に飛び込んできた。
「お久しぶり……かしらね」
そこに立っていたのは褐色肌のワイルドエルフ。
一際、目を引くのは下着代わりに蛇を巻き付けただけの下半身。
「エキドナ……」
エリナは自然とミシェルを背後にかばうように動いた。
首筋にチリチリとした感触が走る。
危険な兆候だ。
「何か私に用でもあるのかしら? ようやくレイナお姉さまの居所が判明したので、報告に来てくれたっていうのならうれしいんだけど」
軽口を叩きつつエリナはゆっくりと呼吸を整える。
エキドナと戦う事態だけは可能な限り避けなければならない。
彼女の強さは折紙付きの超一級品、クローデットなら勝てるかもしれないが、船酔いの残る今の自分では勝利を得るのは難しいだろう。
それぐらいの自己分析は出来ている。
「ああ、そっちはアンタたちのお父様に報告済さねぇ」
「わたしには教えてくれないわけ?」
「代金しだい……かねぇ」
舌なめずりしながら、エキドナがエリナの背後へ視線を向ける。
「いくらかしら? レイナお姉さまの情報なら、高値でもよくってよ」
「金じゃぁないんだよ」
「金以外?」
「大事なのは信用でね。まあ、今回は欲しいものが出来たんで来たんだけど」
ミシェルを見つめ、エキドナが微笑む。
「その子、譲ってくれないかしらね」
「残念だけど、譲れるものじゃあないと思うわ」
エリナは一歩も引かずに言葉をつづけた。
「本人の意思も大事だしね」
「そこは関係ないんだよ。大事なのは、あたしが欲しいってことなのさ」
エキドナの手が蛇剣にかかる。
次の瞬間には、エキドナの姿はエリナの眼前にまで迫っていた。
「くっ!」
ミシェルを庇い、エリナは長槍を立て蛇剣を受け取める。
甲高い金属音が響く。
「ク、クイーンズブレイドで……」
天使の加護があるクイーンズブレイドなら、エキドナが相手でもエリナにもわずかな勝機が見込める。
「残念ながらクイーンズブレイドにはしないよ!」
エキドナは微笑みながら、蛇剣を回転させエリナを翻弄した。
波打つような刃に流され、長槍が大きく揺れる。
「おとなしく譲ってくれないなら、お嬢ちゃんを打ち倒して手に入れることにするわ」
エキドナの顔から微笑みが消える。
百戦錬磨の戦士の表情に、エリナが一瞬だけ竦む。
「エリナさま!」
ミシェルの声がエリナを踏みとどまらせる。
自分の敗北は、自分だけのものではない。
「来るなっ!」
割って入ろうとするミシェルをエリナは制した。
この戦いはクイーンズブレイドではない。
天使の加護がない以上、巻き込まれれば無事ではすまない。
場合によっては命の危険もありうる。
「ミシェルは動かないで!」
「でも!」
「言ったはずよ。守るって」
言い放ちながらエリナは鋭い蹴りをエキドナに見舞う。
長槍以外にも攻撃の手段はある。
「おう、いいわねぇ。その反応」
見透かしていたかのように軽く跳躍し、エキドナはエリナの蹴りを回避する。
悔しいが、エキドナの実力は自分より上だ。
反応も素早い。
だが、勝機がまるでないわけではない。
こっちには切り札がある。
今はこの場にいないアイリ、彼女の存在が勝利の鍵だ。
エキドナは自らクイーンズブレイドを放棄した。
乱入があったとしても、異は唱えられない。
今のエリナが取るべき戦術として有効なのは『時間稼ぎ』だ。
蹴りを回避したエキドナが間合いを図るかのようにやや離れた位置に着地する。
一般論の話だが、武器の性能で言えば長槍と蛇剣では、長槍の方が有利といえる。
攻撃範囲の広さは当然そのまま使い手の安全に直結する。
敵の攻撃範囲に入ることなく一方的に攻撃することが可能なのだ。
実際、これまでの戦いにおいてエリナは長槍の特性をうまく活用してきた。
長槍に仕込まれた鋼線の射出巻き取り機能を駆使し、アイリを牽制したり、トモエを翻弄したりし、自分にとっての最適な間合いを維持し戦ってきたのである。
「上から目線なの、気に入らないわね」
エリナはエキドナを睨みつけた。
*
クイーンズブレイドではない。
エリナとエキドナの間で交わされた言葉に、二人の戦いを遠巻きに見守っていた人々がざわめく。
どのような結果になるのか……。
異質なのは、街頭で行われるクイーンズブレイドのように、賭けをはじめる者がいないことだ。
賭けが成立しない。
それほどまでにエキドナの強さは世間に浸透しているのだ。
*
「うん、良い顔つきだねぇ」
エキドナはまっすぐに、エリナと向き合う。
余程の油断さえしなければ、自身の勝利は確実。
不確定要素であったミシェルの乱入は、エリナが自分で封じてくれた。
自ら数少ない勝機を減らしたことにエリナは気づいていない。
「この戦いをクイーンズブレイドにしなかったことを後悔させてあげるわ」
仕切り直しとばかりにエリナが宣言する。
「それは楽しみだねぇ」
エキドナは蛇剣を構えた。
本当に後悔というものを味合わせてくれるのならこの戦いにも価値がある。
「だけど、ちょっと考えてもいいんじゃないかい」
「何を考えろというのかしら?」
「この戦いの意味」
エキドナは諭すように告げた。
「お嬢ちゃん、あたしに勝てると思ってる? 自分の実力がわかっているんなら、黙って後ろの子を差し出した方が賢明だと思うんだけど?」
「守ると誓ったものを無抵抗で差し出すような真似は出来ないわ。支配する者の務めとしてね」
エリナは支配者の矜持を口にした。
ならば、その矜持に見合った代償を払ってもらうだけだ。
「交渉の余地なし……か」
「交渉って言うのはお互いに落としどころを決めて話し合う物じゃないから?」
エリナは会話の引き延ばしを図っている。
おそらくは援軍となるであろうアイリの到着を狙っているのだろうが……。
そっちはすでに対策済だ。
「落としどころねぇ……」
さすがはヴァンス家の人間、交渉の本質を理解している。
「あたしにその子を渡せば万事解決なんだけど」
「それじゃあ、私が得るものが無いわ」
「自身の無事……無傷で事が済む。じゃあダメかしらね」
「ダメに決まってるでしょ」
会話を交えながらエリナは適時動いて間合いを維持している。
話に気を取られて、隙を見せるような真似はしてこない。
ヴァンス家の姉妹は基本が出来ている。
そこいらの美闘士との違いが、こういうところに現れてくる。
油断すると自分でも足元をすくわれかねない。
「なら、戦うしかないわね」
エキドナは盾を構えてエリナへと接近した。
エリナは半身ほど軸線をずらし、最低限の動きで攻撃を回避しようとする。
防がれるとわかっている盾に向けて攻撃するような真似はしない。
高評価にあたいする動きだ。
だが、この盾は防御のためのものではない。
エキドナは盾でエリナを殴りつける。
エリナは大きく飛びのくのではなく、身を低く伏せてそれをやり過ごす。
間合いを変動させることなく、回避から攻撃へと移る位置を維持する的確な動きだ。
「上手いねぇ」
「お褒めにあずかり恐縮するところかしらね」
まだ軽口を叩くような余裕がある。
弟子として鍛え上げれば、二人の姉を超える潜在能力を持っているかもしれない。
ちゃんと、二手、三手先を考えて動いている。
もう少し、エリナの動きを見ておきたい。
この種の欲求は油断につながる。
遊びはここまでだ。
エキドナは豊満な胸元に手を入れた。
つかむのは銀色の球体。
それを無造作にエリナに向けて放り投げる。
エリナの反応は素早い。
球体を避けることなく、迷わずに長槍の穂先で両断する。
予想通りの動きにエキドナは口元をゆがめた。
「な!」
エリナが驚きの声を上げる。両断された銀の球がバラバラに崩壊し、細かい破片となって降り注いできたのだ。
「なによ? これ?」
「読み通りで助かるわぁ」
ただ単に避けただけなら、銀色の球はその効力を発揮しない。
衝撃を受けて初めて動き出す魔法の物品。
エキドナお気に入りの玩具の一つ。
「え? ええ?」
エリナが身体をくねらせる。
「んふふふ、始まったわね」
なによ? これ?
素肌の表面を無数の何かが這いまわるような感触にエリナは大いに困惑した。
エキドナが投げた銀色の球体、その無数の破片がまとわりつき蠢いているのだ。
破片は爪の先ほどの大きさの蛇となって、首筋、胸元、脇腹、内腿、あらゆる敏感な部位を遠慮なく刺激してくる。
「ひあっ!」
これでは立つことすら難しい。
「ひ、卑怯者……」
胸元から乳房へと潜り込んだ蛇の微細な動きにエリナの頬が赤く染まる。
「あらあらぁ、良い表情になったじゃないの」
エキドナの声に笑いが重なる。
エリナの実家であるヴァンス伯爵家は大口の顧客だ。
もとより命まで取るつもりはないし、家出娘に多少の恥をかかせる程度のことなら伯爵も多めに見てくれるだろう。
「降参すれば蛇を止めてあげるけど……どう?」
「だ、誰が、降参なんて……」
話している間にも服の下に潜り込んだ蛇はエリナの敏感な部位へと迫ってくる。
蛇を取るために武器から手を放せばその段階で敗北は決定的となる。
「降参なんてするもんですかぁっ!」
羞恥を抑え、エリナは鋼線をエキドナに向けてはなった。
絡みとって自由を奪い、この嫌らしい魔法の蛇を解除させる。
「あはは、どこを狙っているんだい」
現実は残酷だ。
狙いは荒く、鋼線にも勢いがない。
エキドナはあっさりと鋼線を避け、蛇剣の間合いへと入り込んできた。
「どれ? お姉さんに見せてごらん。恥ずかしい姿を」
エキドナの蛇剣が一閃し、エリナの長槍をはじき飛ばす。
「あ!?」
魔法の蛇による刺激で力が入らない。
長槍は思いのほか遠くへと飛んで行った。
そう簡単には取り戻せない距離だ。
普段なら絶対に起こりえないであろう失態に、エリナは唇を噛んだ。
「はい、これで手ぶらだねぇ」
さらに蛇剣が一閃し、エリナの胸元を白日の下に晒す。
「きゃっ!」
白い乳房を弄ぶかのように魔法の蛇が絡みついているのが見える。
「このぉ!」
エリナは左手で乳房を隠しつつ、右手のかぎ爪でエキドナを狙った。
ガツッ!
硬いものに打ち当たる感触に続いて、左の脇ばらをくすぐられ力が抜ける。
「く……」
攻撃を盾で受け止められたあげくに、魔法の蛇による凌辱じみたくすぐりがエリナの身体から力を奪っていく。
もはや立つこともできない。
エリナは両膝を地面につき、エキドナを見上げた。
「敗北は……認めないわ……こんな蛇さえなければ……」
身体は屈しても、心まで屈しはいない。
戦意のこもった眼差しで、エキドナを睨む。
「戯言はそれぐらいにして敗北を認めなよ。お嬢ちゃん」
エキドナの手の中で蛇剣がきらめく。
「蛇を解き放ったのはアンタの失敗。普通に避ければ蛇はほどけずに、そんな目に遭うこともなかったのさ」
蛇剣の切っ先がエリナの腰元を狙う。
「これ以上続けるなら、全裸で街をうろつくことになるよ」
胸はすでに大きくはだけ、腰回りまで切り裂かれてしまったら、エリナは全裸も同然の姿となることだろう。
「そ、そこまでにして!」
二人の戦いを注視していたミシェルが、エリナとエキドナの間に飛び込んだのは、まさにエリナが裸体を衆目に晒しかねないという寸前の出来事だった。
*
ミシェルは勇気を振り絞った。
アイリが戻るのを待ってはいられない。
今まで守られていた自分が、今度はエリナを守る番だ。
「そこまでにして!」
「ミシェル! 駄目!」
エリナの悲鳴にも似た叫びが上がる。
エキドナは自分を欲している。
ならば、傷つけるような真似はしないはず。
そう信じた上での行動だった。
果たして、目論見はうまくいくのか。
*
「良い勇気だねぇ」
エキドナが蛇剣を止める。
「ミシェル……駄目よ。アンタは私が守るんだから……」
身悶えしながらエリナは声を絞り出した。
少しでも力を抜けば素肌の上を這いまわる無数の蛇が体内へと潜り込んで来ようとする。
すでに戦うどころではない。
「そ、それに……もう少しすればアイリが……」
もはや、勝敗は決した。
「残念だけど、従者は来れないんじゃないかなぁ」
エキドナの言葉と共に、エリナたちの背後からあるものが投げ入れられる。
「これは!」
エリナとミシェルの目が大きく開く。
投げ入れられたのはアイリが身に着けていた首輪と鎖だ。
死霊であるアイリの衣服は、彼女の身体と同じ霊体で構成されている。
精気を得ることで維持されているそれらと違い、首輪と鎖は従属の証としてエリナが彼女に着けさせたものだ。
それが今、ここにあることの意味にエリナは絶句した。
「宿は銀の黄昏亭、従者からの伝言だ」
首輪を投げ入れた従者がエリナに告げる。
「いい従者を持ったな」
アイリは助けに来れない。
精気を失い消滅したという事実の前に、エリナの瞳から戦意が消えていくのをエキドナは見取った。
「ナガレ、少年の捕縛を」
首輪を投げ入れた女の声と同時にミシェルの足元の影がうごめき、彼の身体を拘束する。
「あ! ああっ!」
この技には見覚えがある。
ヒノモトでトモエと共に討伐した甲魔忍軍とやらの捕縛術だ。
エキドナは甲魔と手を結んでいたということになる。
「ミシェル!」
エリナが手を伸ばすよりも早く、拘束されたミシェルをエキドナが捕らえる。
「戦いはおしまいだよ。お嬢ちゃん」
ミシェルを脇に抱え、エキドナはエリナの背後に現れた味方に合図を送った。
「この子はアタシがいただいていく」
エキドナの勝利宣言。
「サギリ、撤退の支援を」
背後に立つ女の声に合わせ、エキドナとエリナたちの周囲を濃い霧が包んでいく。
エリナは背後を振り向くことなく、ミシェルを抱えたエキドナを睨みつける。
「必ず取り戻しにいくわ」
精一杯の強気をこめた言葉に、霧の中へと消えていくミシェルが無言で頷いているのが見えた。
*
煙幕よりも濃霧と呼ぶにふさわしい視界奪う白い闇。
エリナの身体を弄んでいた蛇たちが力を失い、地面に落ちていく。
そこにあるのは蠢く蛇ではなく、ただの蛇を模した金属の塊にすぎない。
エキドナは去った。
彼女の望むものを手に入れて……。
「うああああああああああっ!」
エリナは絶叫した。
初めての敗北に、そして自らの迂闊さにいら立ちを覚えながら叫んだ。
ミシェルを狙っていたのは、アイリの主人だけではなかったのだ。
エキドナはヒノモトでの一件で、ミシェルに興味を持ったのだろう。
そのうえで、自身の勝利を確実にするための策を十全に整えてやったきた。
普通に戦っただけでも勝てたかどうか。
自身の敗北につながる要因を排除し、相手に隙を与えず完膚なきまでに叩き潰す。
それがエキドナの強さの源だ。
だが、今回エキドナは小さなミスを犯した。
本人は気づいていないだろう。
エリナとの戦いをクイーンズブレイドにしなかったこと。
誓いとして、ミシェルを取り戻さないことを約束させなかったことをエキドナの敗因にしてみせる。
「見てらっしゃい……必ず、必ずミシェルを取り戻してみせるわ」
エリナはアイリが残した首輪を手に、自身への誓いを立てた。
兵を養うこと百日、用いるは一朝にあり。
東方の格言ではあるが、事実ではある。
ヴァンス伯爵家長女にして一軍を預かる将として、クローデットは兵たちの訓練には欠かさず立ち会っていた。
レイナを追って伯爵家を後にしたエリナの動向には十分に気を配っている。
それゆえに心配でしかたがない。
最新の情報によれば、死霊を従えヒノモトに渡ったそうだが……。
無事であればよいのだが……。
ヒノモトと言えば、武者巫女。
武者巫女といえば純白の着物に朱色の袴……エリナにも似合うに違いない。
巫女装束を身に着けたエリナ姿が、クローデットの脳裏に鮮やかに浮かび上がる。
「愛らしいものだな……」
クローデットの頬が自然と緩む。
舞踏会でのドレス姿も愛らしいものであったが、異国情緒あふれる巫女装束も悪くない。
戦馬鹿の自分と違い、エリナは華やかな衣装もよく似合う。
戻ってきたら多少は嫌がられようとも、着せ替えを楽しませてもらってもいいだろう。
「いかがなさいましたか?」
傍に控えていた副官が彼女の表情の変化を見逃すことなく尋ねる。
兵の訓練に落ち度でもあれば直ちに改善する。
将軍の指摘は余すことなく汲み取り実行に移すのが彼女の仕事だ。
「いや、何でもない」
内心で感じていたものを悟られぬようにクローデットは冷静に答えた。
「兵たちは見事にその職責を果たしている。私としても彼らを率いて戦場に立つのが楽しみなぐらいだ」
クローデットは本心を隠すのは得意だ。
できることなら、今すぐにでもヒノモトに向かいエリナの支援をしてやりたい。
というか、巫女装束をまとったエリナを見たい!
だが、残された長女として、一軍の将としての責任が彼女を伯爵家にしばりつけている。
(信じて待つしかできぬのは……辛いものだな)
ため息交じりの息を吐きつつ、クローデットは遥か東の空へと視線を向けた。
Episode 3 終わり
クイーンズブレイドでトモエに勝利したエリナは、姉レイナが向かったという秘境マラマクスへの手がかりを求めてトモエの故郷である島国ヒノモトに行く。少年ミシェルの力でトモエの願いをかなえ、ヒノモトの地で下僕のアイリとともに冒険を終えたエリナだが、結局手がかりをほとんど得られることなく大陸への帰路につこうと港町に向かっていた。
周囲のすべてを窓で飾られた不可思議な部屋。
窓に映る景色は、どれ一つとして同じものはなく、また時間もまちまちである。
ある窓は夜明けの港町を映し、また別の窓は夕焼けに染まる白銀の連峰を映し出しているといった具合だ。
「すべての病を治す魔の笛……」
褐色肌のワイルドエルフがうっとりとした表情を浮かべながら、手にした書類を机の上に放り投げる。
彼女の名はエキドナ、歴戦の傭兵というクイーンズブレイドでの字名が示すように、傭兵として各国の要人に雇われ、雇い主に勝利をもたらしてきた不敗神話の持ち主である。
「欲しくなったわね……うん、コレはあのお嬢ちゃんには過ぎたるシロモノだわ」
書類の正体は報告書。
エキドナの配下、幾人かの密偵からもたらされた情報が書かれている。
各国の要人らの依頼を受け、様々な情報を収集分析し報告していく過程で、古今東西のあらゆる秘宝に関する知識もまた彼女もとに集まってくる。
「イルマ、イルマはいるかい?」
椅子から腰を上げ、窓の一つへと声をかける。
窓の一つが開き、短髪の美少女が姿を現す。
牙の暗殺者イルマ。
世界各地を飛び回り、情報収集から実力行使までも担当するエキドナの弟子だ。
「ここに」
「出かけるよ」
「まだ目的を聞いていません」
イルマは師匠に対し冷淡に返す。
多くの言葉を交わさずともイルマは、エキドナが何を欲しているかを理解し行動することができる。だからといって素直に良い返事を返すかどうかは別問題だ。
「ヴァンス家の末娘から、彼女には過ぎたお宝を取り上げることにするわ」
「今度はあの妙な笛が欲しくなったのですか」
ため息交じりのイルマに対し、エキドナが唇に笑みを浮かべる。
笛には繊細な細工が施されており、美術品として通用する逸品だ。
確かにエキドナの所有欲をそそる出来あいだとイルマは納得していた。
エキドナが欲しがるものには大きく分けて二つの特徴がある。
一つは希少性、二度と手に入らない、もしくは製造者が滅びてしまった古の品物。
もう一つは、魔法の物品だ。
今回の品物は、両方の条件を満たしている。
「さてイルマ、末娘は今、どこに?」
「ヒノモトの港町です」
エキドナの問いにイルマは正確に答えた。
笛に関する報告書を提出したのは他ならぬイルマだ。
現在位置も的確に捕捉しつづけている。
「へえ。見事にいろいろとやってのけてきたみたいだね」
イルマの報告書に記載されていた追記事項に目をやりつつエキドナが頷く。
エリナら一行がマラマクスの情報を求め、ヒノモトで何をしてきたのか、そして今、大陸に戻るべく武者巫女らと別れ、単独行動へと移っていることまで記載されている。
「我が弟子ながら見事な仕事ぶりね」
率直な賞賛にイルマの表情が固まる。
エキドナが弟子を褒めることは滅多にないのだ。
「お師匠様に褒められても、う、嬉しくないです」
「大陸につく前にしかける。あのあたりで雇えるのは……」
「甲魔忍軍」
イルマのつぶやきにエキドナがうなずく。
「良い答えだねぇ。雇うのならサギリとナガレを頼むよ。あの二人の能力は役に立つ」
エキドナが名を上げた甲魔の能力はイルマもよく知っている。
様々な濃度の霧を自在に操る濃霧のサギリ、その能力を有効に使えば戦場を支配することすら可能だ。
そして、影のナガレ、影の中に潜み、自らの身体を影として相手の自由を奪う異能の持ち主。
それぞれに異質な得意能力を持つ甲魔の中でも、この二人をエキドナは好んで雇うことが多い。
「あとは、久しぶりに玩具を使おうかね」
そう言ってエキドナは銀色の球を取り出した。
「それは……」
「んふふふ、イルマも好きだよね。これ」
「お、お師匠様のそういうところが嫌いです」
イルマは顔を赤らめ、ぷいと顔を背けた。
「なんといっても相手はヴァンス家の末娘だからね。傷をつけるわけにはいかないさ」
エリナに傷をつけることなく勝利を得る秘策を秘めた銀色の球を、エキドナが胸元へとしまい込む。
希少な魔法の物品であっても、使うときには出し惜しみはしない。
それが勝利を確実なものとすることをエキドナは良く知っている。
「さて、作戦会議だよ」
自分の意見が必要とされていることに、イルマはわずかな微笑みを浮かべた。
ヒノモトと大陸の間に広がる海原のちょうど中央に存在する孤島、境界島。
大陸にもっとも近いヒノモトの領地でもある。
ヒノモトの港で、トモエに見送られてから一週間あまり後、エリナたちは交易商人たちの中継地として賑わいを見せるこの島の港街に到着していた。
「エリナさまぁ、お約束の精気をくださいません?」
船から降りるやアイリが要求を突きつける。
よくよく見れば、アイリの衣服は薄く透けはじめている。アイリの衣服は実体ではないため、精気が不足してくると消えてしまい、さらに精気が失われるとアイリ自身が消えてしまうのだ。
ヒノモトを出てからというもの、エリナが船酔いで体調を崩していたこともあり、精気の吸収ができていないのだ。
「もう少し待ちなさい」
荷物に腰を下ろして休息をとりつつ、エリナが答える。
船から降りてもなお、まだ少し揺れているみたいな気がする。
「そもそも、こんな往来で口づけなんてできるはずないでしょう」
「お、往来でなければよろしいのですか?」
アイリがきょろきょろを周囲を見渡す。
桟橋の上に築かれた雨除けの屋根に敷かれた瓦が、この島がヒノモトの領土であることをつよく強調している。
船着き場には荷下ろしのために多くの労働者が行き交い、乗り継ぎの乗客たちの姿で大きな賑わいを見せている。
さらには彼らを相手にする行商人たちまで加わり、とてもではないが人気のない場所を探すことなどできそうもない。
「そうね。宿で一息ついたらわけてあげてもいいわね」
唇に指を当て、エリナが告げる。
「きっとですわよ! 宿を探してまいります」
一礼し、アイリは雑踏に向けて進んでいった。
宿の手配や交渉においてエリナは、アイリに信頼を置いている。
彼女の献身ぶりには、クイーンズブレイドの願いで奴隷化していることを忘れてしまいがちになるほどだ。
「いいんですか? 一人でいかせて」
ヒノモトでうけとった褒章品のはいった布袋を背負いながら、ミシェルが心配そうにアイリの去った方向へ視線を向ける。
「心配はいらないわ。ミシェルだってアイリが有象無象な美闘士やごろつきよりも強いことは知ってるでしょ」
「でも、なんだか、いつもより元気がないというか、精気がないというか」
「だったらなおさら精気をうけとるために励んでくれるんじゃないかしらね。下僕のやる気を引き出すのも、支配する者の務めよ」
そう言ってエリナは緊張感とは無縁の笑顔を浮かべた。
トモエと共に天子の病を治すために、ミシェルの笛を使い、マラマクスの手がかりを求めヒノモトの山麓で武者巫女たちと共に甲魔忍軍と一戦を交えたりといった大冒険を繰り広げてから半月あまり、慣れ親しんだ大陸へと近づいたことでエリナの気は緩んでいる。
「さて、大陸に戻ったら何からはじめようかしらね」
「マラマクスへ行くんじゃないの?」
「そのために何をするかよ」
マラマクスへの道程に関する進展はない。
そのことにエリナは歯がゆい思いを感じていた。
「それを考えるためにも、ちょっと休憩でもしましょう」
エリナは、波止場の外れに軒を並べる屋台へと目を向けた。
港町で宿の手配をすることなど、アイリにとっては造作もないことだ。
日差しを受ければ、メイド服がわずかではあるが透けてきているのがわかる。
「死霊づかいが荒いんですから……もう……」
小さく愚痴りながらアイリは微笑みを浮かべた。
なりゆきとはいえ、エリナの従者となってからの日々は充実感に満ち溢れている。
メイドとして召喚されたものの、仕事ぶりに満足していただけなかったのか、屋敷から半ば追い出されるように魔法の笛の探索を命じられた経緯を思い出す。
「最初からエリナさまが主人なら……」
自らのつぶやきに、アイリは自分の忠誠心が揺らいでいることに気づき頭を振った。
「いけません、いけません、エリナさまはあくまでも仮初のご主人様ですわ」
自分に言い聞かせるように口にしながら、宿屋街の裏通りに出た瞬間……。
(空気が……変わった?)
死霊であるアイリは常人と異なる察知能力を持っている。
常人の五感と同様に、アイリは他者の精気を察知することができるのだ。
裏通りの入口と出口にある種の結界じみたものが仕掛けられたらしい。
アイリが入り込んだ後についてくる人間がいないのがその証拠だ。
察知できた気配は四つ、いずれも巧妙に身を隠している。
アイリでなければ気付くことすら難しいだろう。
「私に用事でもおありですか?」
気配の方向に向け、アイリは声をかけた。
先制攻撃の機会をあえて放棄することで無駄な戦闘を避けられればいいのだが。
「急ぎの用事がございますので、できれば日を改めていただきたいのですが……」
「そうは行かぬのだ。従者よ」
アイリの足元から男の声が響く。
影の中から異形の忍者が姿を現す。
「甲魔忍軍、影のナガレ……」
名乗りを無視し、アイリはナガレの頭を踏みつける。
だが、ナガレの身体はアイリの足をすり抜けていく。
まさに影そのものの姿だ。
「従者よ。汝には恨みはないが、ここで足止めをさせてもらう」
ナガレの身体が漆黒の影となってアイリの身体に絡みつく。
「やっ? なんですの」
「我が身体は影、戒めとなって汝を捕らえる」
アイリの耳元でナガレが囁く。
「影ですのね……ならば! 低級霊!」
アイリの呼び出しに応え、低級霊の鬼火が周囲を照らす。
「くっ!」
新たな光源の出現により影の形が変わり、ナガレはアイリの身体から追いやられる。
「くくく、抜かったなぁ、ナガレ」
板壁の一部が盛り上がり、ぶよぶよとした体躯の忍者が姿をあらわにする。
「甲魔忍軍、ぬめりのハンザキ」
「ご丁寧な挨拶ですけど、答えている余裕はございませんの」
アイリはハンザキの頭を踏み台にして、宿屋街の屋根へと飛び上がる。
気配の位置から察するに、隊長格は上から様子を見ているはずだ。
「させるかぁ!」
アイリの足が瓦屋根に届くよりも早く、空中の彼女に向けてハンザキの舌が延びる。
「ちょっと、なんですの?」
ぐるりと舌がアイリの足に巻き付く。
「くっ!」
路地裏へと引き落とされたアイリは迷うことなくハンザキに向け低級霊をけしかける。
精気が十分であれば、甲魔を相手に勝つ自信は十分にある。
実際、ヒノモトではエリナと共に幾人かの甲魔を倒している。
だが、現状は極めて不利だ。
もとより精気は不十分、さらに先ほどの低級霊召喚により、メイド服の維持も難しくなってきている。
あと一撃でも攻撃を相殺すれば、下着姿で行動することになるだろう。
まあそれもエリナから精気をもらえば解決する話だ。
今はここを切り抜けねば……。
低級霊がハンザキに迫る。
鬼火の直撃を受ければ火傷ではすまない。
低級霊の攻撃は実体以外にも霊障を伴うのだ。
だが、ハンザキは避けるわけでも、攻撃するわけでもない行動に出た。
なんと低級霊を飲み込んだのだ。
「不味いな……」
ハンザキがゲップと共につぶやく。
「な?」
予想外のハンザキの行為にアイリは驚愕した。
低級霊が食べられたのは初めてだ。
「ナガレェ、いつまで影に潜んでいるつもりだ?」
ハンザキの呼びかけに答え、影の中からナガレが再び姿を現す。
「戦いは避けられないみたいですわね……」
意を決してアイリは鎌を実体化させた。
「何が狙いかはわかりませんが、降りかかる火の粉は払わねばなりません……」
アイリ自身には自分が狙われる覚えはない。
甲魔たちの狙いはおそらく足止め、一刻も早くエリナたちと合流しないとならない。
「覚悟なさってくださいませ!」
アイリが言い終わるのと同時に、上空から短刀が飛来する。
「くっ!」
鎌で短刀をはじいたアイリの足にナガレの影が絡みつく。
「いいぞぉ! そのまま押さえ込め!」
身動きの取れないアイリに向け、ハンザキが突進してくる。
ぶよぶよしているとはいえ、巨漢の部類にはいるハンザキの体当たりを喰らえば、無事では済みそうもない。
「て、低級霊!」
メイド服と引き換えにアイリは低級霊を再召喚し、ナガレの影を消し去る。
目の前で下着姿になったアイリを見て、ハンザキが感嘆する。
「その覚悟、褒めてやるぜ!」
この距離、間合いまでつめればハンザキの突進から逃げることはできない。
それを判っているからか、アイリは逃げなかった。
自由を取り戻したアイリは迷うことなく鎌をハンザキの頭にむけて振り下ろした。
最高の切れ味を誇る鎌が、鮮やかにハンザキの頭を両断する。
普通なら間違いなく絶命するはずの一撃。
だが、ハンザキは止まらない。
「な?」
両断された頭もそのままにアイリを押しつぶしにかかる。
「ぐふふ、ぐふ……」
「は、放しなさい! この!」
ぬるぬるとした体液がアイリの身体を汚す。
「くくくく……このハンザキの体液は痺れ毒の効果がある……」
両断されたはずの頭が、ゆっくりとくっついていく。
「ふ、不死身ですか!?」
アイリが驚愕の声を上げる。
「ハンザキを殺したければ、燃やすか、溺れさせるしかない」
三人目の甲魔の声が聞こえてくる。
先の二人は男性だったが、三人目は女性のようだ。
「これで、依頼は果たせたとみてよろしいか?」
「まだだ。蛇の支援を」
もう一人、少女の声が応える。
甲魔に今回の襲撃を命じた依頼主らしい。
となると、今頃、エリナさまは蛇とやらに襲われているのだろう。
精気さえ万全なら、退けをとることはなかった。
アイリはくやしさに唇を噛みつつ、ハンザキの精気を吸収しようとして……。
止めた。
エリナ以外から精気を摂取しない。
クイーンズブレイドでの約束、エリナとの契約は絶対だ。
誓いを破り、誇りを失うぐらいなら、このまま敗北を受け入れた方が良い。
「どうやら、私はこれまでのようでございますわね」
清々しさすら感じられる口調で、アイリはハンザキの下から声を上げた。
「ほう……」
ハンザキに押しつぶされ、消えつつある彼女を警戒していた二人の女が、それぞれの武器へと手を伸ばす。
「ぐ……げげげげっ」
ハンザキが奇妙なうめき声を上げ、全身を痙攣させはじめる。
ぬっとハンザキの背中から、アイリの鎌が出現し、その身体を切り裂いていく。
「ぐああああああっ!」
ハンザキの絶叫と共に、鎌によって引き裂かれた彼の身体からうっすらと透けた姿のアイリが剥いでてくる。
「エリナさまをお助けできないことが残念ですが……よろしければお名前をお聞かせ願えませんか?」
身体に付着したハンザキの体液をぬぐいながらアイリは尋ねた。
「答えると思うか?」
三人目の甲魔が飽きれたように肩をすくめる。
「牙の暗殺者イルマ……命を受け、お前を足止めしている」
敗北を認めるのは簡単なことではない。
ましてや自分が消滅するという瀬戸際において、ここまで潔い態度をとった相手は彼女がはじめてだ。
その態度に敬意を払う意味も込め、イルマは自ら名乗った。
「ではイルマ様、二つほど伝言がございます。よろしければ我が主人たるエリナさまにお伝え願えませんでしょうか」
イルマは無言で頷く。
それを無言を同意と判断し、アイリは話を続けた。
「感謝いたしますわ。一つは『宿は銀の黄昏亭を抑えております』とお伝えください。エリナさまは船旅で疲れておいででしたので、一番上等な寝室をお願いしておきました」
「こんな時でも、主人の心配か?」
つぶやいた女甲魔をイルマがにらみつける。
「もう一つは、これを」
アイリは鎖のついた首輪に手を当てた。
消え行く彼女の衣服や身体の中で、首輪だけが明確な実体を保っている。
「この首輪はエリナ様より頂いたもの。お返ししたいのです」
その言葉を最後に、ハンザキの身体を押し広げていたアイリの存在が消える。
「ぬあっ!」
ハンザキが驚きの声を上げる。
恐るべきハンザキの生命力、アイリによって切り広げられた傷口が粘液に覆われて瞬く間にふさがっていく。
「消えた? 消えちまったぞ!」
ゆっくりと立ち上がったハンザキの足元に残っていたのは、アイリが身に着けていた首輪だけだ。
「やれやれ……もう少し楽しめると思っていたのによぉ、拍子抜けだぜぇ」
ハンザキは不承不承といった表情を浮かべ、ゆっくりと引き下がった。
「俺様をどこまで切り刻んでくれるか、期待してたんだがなぁ」
自分の身体が切り刻まれることは、ハンザキにとって快楽でしかない。
イルマはハンザキの足元に残された首輪を拾い上げる。
「まさか、あいつの願いをかなえてやるのか? 理解できないな」サギリがイルマの行動を訝しむ。
「わたしは蛇とは違う。あの死霊は誇り高いやつだった。」
イルマは首輪を荷物にしまうと甲魔たちに命令を下した
「では、もう一つの仕事に移ってもらおうか」
次回に続く
エリナ・アイリ・ミシェル一行は宿で武者巫女トモエと同室となる。エリナとアイリがレイナの足跡を追うためリスティの聞き取りに出かける間、ミシェルは異国からはるばるやってきたトモエが闘技会に懸ける使命と決意を知るのだった。一方その頃、トモエに興味を抱いた女王アルドラは天使ナナエルが気まぐれで推薦したエリナとの女王御前試合を手配させる。
疲れが取れない。
天上を見上げながらエリナはぼんやりと思いを巡らせた。
昼間にアイリに精気を与え、食事もそこそこにリスティと飲み比べて……我ながら無茶をしている。
(こういう場合はアレを使っても問題はないわね)
そっとベッドを抜け出して、ミシェルのベッドへと向かう。
カーテン越しの薄明かり、ランプの明かりに照らされながら、ミシェルはすうすうと寝息を立てている。
(良く寝ちゃってまあ……)
愛らしい寝顔に微笑みを浮かべ、エリナは物音を立てないようにミシェルのベッドへと潜り込む。
目当てのものは肌身離さず持っていなさいと命じておいた。
言いつけを守っていたならきっとこの辺りにあるはず……もぞもぞとミシェルの腰回りに手を伸ばし……あった。
指先にあたった固い感触を確実にするため、エリナは手を握りしめた。
「あ……ん……」
ミシェルが身を動かす。
「あれぇ……エリナさまぁ……」
「んふふ、起きちゃった?」
「何をしてるんですかぁ」
寝ぼけ顔でミシェルが尋ねる。
「ちょっと吹かせてもらおうと思って」
エリナが笛をぎゅっと握る。
「え? あ……ちょっと!」
伝わってきた感触にミシェルは頬を赤く染めた。
「ダメ、使い過ぎは良くないよ」
「決めるのは、私よ」
「だ、ダメだってばぁ!」
「声を出さないの。あいつに聞こえちゃうでしょ」
エリナに言われ、ミシェルは口元を抑えた。
カーテンの向こう側には、戻ってきたトモエが寝ているのだ。
「抵抗は無意味よ」
「ひゃぁ、エ、エリナさまぁ!?」
エリナが体をすばやく一回転させて、ミシェルを抑え込む。眼前にエリナの股間が見える体勢だ。
「優しくしてあげるから、観念なさい。あら、ずいぶんとやる気になっているみたいじゃない」
手の中で大きくなっていく笛の感触にエリナは笑みを浮かべた。
「や、やめて~」
「やめないわよ。決めるのは私だもの……何度も言わせないの」
エリナの舌先が笛に触れる。
「そんなにされたら出ちゃう」
「んふふ……いいのよ。出して」
「だめ、だめだって、聞こえちゃうからぁ」
*
カーテンの向こう側から聞こえてくる妙な声にトモエの忍耐は限界に達した。
もともと、左腕の疼痛が酷く熟睡が出来ていない。
(静かにするということが出来ないのでしょうか……)
そんな願いを込めてトモエは小さく咳き込んでみた。
女王アルドラからの召喚状を受け、明日には御前試合に臨むというのに……。
言わずとも気付いてほしい。
「そんなにされたら出ちゃう」
「んふふ……いいのよ。出して」
「だめ、だめだって、聞こえちゃうからぁ」
だが、一向に何やら怪しげな様子の声は収まる気配がない。
(まったく……これは一言いわねばなりません!)
意を決し、声のする方向へと視線を向け、トモエは絶句した。
(な! なんといかがわしい!)
カーテンに浮かび上がる男女の影。
ミシェルをエリナが押さえつけ、弄んでいるではないか!
(子供相手になんと!)
「下品な行為におよぶなど言語道断ですわ!」
カーテンを開けると同時に、トモエは声を荒げた。
息も荒く顔を紅潮させ涙ぐんだ彼をエリナが弄んでいるようにトモエには見えた。
「あら下品に見えるのは、貴女がそう思ってるからじゃないの? もしかして欲求不満なのかしら?」
ニヤリと笑うエリナ。
自分の行為を悪びれもしていない。
「私はちょっと笛で遊んでいただけなのだけれど」
そう言ってエリナは手元に握った笛をトモエに見せた。笛は精緻な象眼細工で飾られた工芸品として一級の価値を持っていることが一目でわかる。
「嘘だと思うなら検分してごらんなさいな」
差し出された笛に、トモエはおずおずと手を伸ばした。
「ひゃっん」
「え?」
ミシェルが身悶えしたことにトモエは目をしばかせる。
「吹いてもいいのよ。演奏できるのなら?」
「奉納の儀として、多少の心得はあります」
トモエは笛に口を付け、息を吹き込んだ。
だが、一向に音の出る気配はない。
「ト、トモエさんまで、や、やめて」
「吹き方がちがうわよ。もっと口に含むようにしなければダメよ」
言われてトモエが笛をくわえるように吹いてみたり、口の中を真空状態にして吸い込んでみたり散々試してみるが結局音は出ず、笛が大きくなるばかり。
(これは笛ではなく、わたくしの想像を絶するようないまわしい目的に使用する器具なのではないでしょうか。今のところ証拠はありませんが、品性下劣な美闘士であることは間違いないようですね)
トモエが笛をエリナに返し、ミシェルへと視線を向けるとなぜか悶絶していた。
(彼が解放されていられるのならば、今夜のところは良しとしましょう)
「とにかく、夜は静かにしてください。今度またこのような疑わしい行為をするようであれば戦いも辞しません」
トモエは二人に告げて、カーテンの向こう側へと退散した。
「あーあ、なんか気がそがれたわ。おやすみ、ミシェル」
「お、おやすみ~」
カーテンの向こう側から聞こえてくる二人の声を聴きながら、トモエは左腕の震えが収まっていることに気付いた。
(なぜ? 急に治るなんて……)
また芯に残る疼痛はあるものの、痛みで眠れないということはなさそうだ。
その感覚通り、トモエはほどなく深い眠りにつくことができた。
「今日は、どうなさるおつもりですの?」
翌朝、ゆっくりと遅めの時間で目覚めたエリナの世話をしながら、アイリが尋ねる。
「ん~~~」
寝ぼけたような返事をしながら、エリナは力なくアイリに身体を委ね、衣服を着替えさせていく。
体力的には「笛」のおかげで回復しているとはいえ、やはり長旅の疲れは一晩程度では完全に取り切れなかったようだ。
「これからのご予定でございますわ」
レイナの後を追うという旅の目的は変わっていない。
問題となっていた足取りも、おおざっぱながらリスティから得ることもできた。
「後を追うのでしたら、一日も早く出るべきかと思いますけど」
「そうねぇ……」
リスティから聞いた話によれば、レイナは東方を目指していたという。
マラマクスの手がかりがヒノモトにあるという話だったらしいのだが……。
(ヒノモト!)
エリナの目がくわっと開く。
失念していた。
昨夜は酒に酔っていた上に、夜中にひと悶着あったせいで完全に忘れていたのだ。
同室の武者巫女がヒノモトの人間だという事実を!
(うわぁ~、やらかしたわ)
エリナは頭を抱えた。
自らが認める失点である。
どうでもいいと思っていた存在が急に重要度を増す。
そのことを、つい軽んじてしまうのは、エリナの悪い癖だ。
「アイリ……あの武者巫女は?」
「さて、わたくしが目覚めた時にはすでに外出しておりましたけれど……闘技場でございますかね?」
「闘技場、そういえばあの女も美闘士だったわね」
「そういうあんたも美闘士なんだけどな~~~」
不意に聞きなれた声が響く。
コンコンと窓をたたきながら、宿の外で微笑む青髪の天使。
「ちょっと用事があるの。入れてくれない?」
「で、あたしに試合に出ろと」
「ん、そういうこと~、別に強制してもいいんだけどね。ナナエル様って優しいから、当事者の意見をちゃんと聞いてあげるってわけ」
仏頂面のエリナと対照的にナナエルは笑顔でまくしたてる。
審判の天使ナナエルの要件は簡単だ。
今日、闘技場の全試合が終わった後、女王が個人的に開催する御前試合への参加を要請しにきたのだ。
「参加しなくてもいいんだけど、その場合は罰則があるのよね」
「罰則ぅ?」
「美闘士の特権って知ってる?」
「説明を受けていないわね」
「いい機会だから、教えてあげる。ナナエル様ってなんていい天使なのかしらねぇ」
自分を持ち上げるナナエルに対し、エリナは冷ややかな視線を向ける。
「まず、移動の自由。美闘士は大陸内であれば自由に往来できる。ただし、クイーンズブレイドを認めていないいくつかの所領を除いてね。まったくもって神の威光を恐れない蛮族の地よねぇ」
(ほっといてちょうだい)
故郷を蛮族領あつかいされたことに対し、エリナは心の中で毒づく。
「次に宿泊地の確保。最低限度の宿なら無償で提供される。まあ、闘技場に隣接してたりするんだけど」
「最低限の宿になんて泊まる気ないから結構よ」
「で、これ重要」
「なによ?」
「週に一回は勝敗関わらずクイーンズブレイドの試合を行うこと。エリナは最後に試合したのいつ?」
問われてエリナは眉をしかめる。
美闘士になったのはなりゆきであり、積極的に戦いを求めていたわけではない。
「御前試合をブッチしたら、最悪資格はく奪もありうるわねぇ」
「そうなったらどうなるの?」
「美闘士として得た権益を放棄してもらうことになるわ」
「つまり、私が自由の身になるということですわ。エリナ様」
エリナにお茶、ナナエルにミルクを運んできたアイリが言う。
「自由になったら、アイリはどうするの?」
「ミシェル坊ちゃまの身柄を確保いたしますわ。そこから先は内緒ですわ」
「ええ? それは困る!」
黙って話を聞いていたミシェルが抗議の声を上げる。
ミシェル一人では、アイリから身を守ることは出来ない。
「安心して、美闘士を辞める気はないわ。ミシェルを守るのは当然として、良くできたメイドを手放す気もないから」
一度交わした約束を違えることは、エリナの貴族としての沽券にかかわる。
「いいわ、その試合、受けてあげる」
「最初からそう言えばいいのよ」
ナナエルはにっこりとほほ笑むと、蜜蝋で封印された女王からの参加要請がかかれた密書を取り出す。
「はい、これ」
「何よ、あらたまって」
「御前試合への参加証明書。これを見せれば闘技場に入れるわ」
「本当に女王からの要請なのね」
エリナは蜜蝋に押された印章が本物であることを確認し開封する。
そこに書かれていた対戦相手の名前に思わずエリナは笑みを浮かべた。
どうやら運はこちらに向いているらしい。
「アイリ、旅支度は後回しにして」
「はい、エリナさま。でも、よろしいのですか?」
「急がば回れっていうでしょ、アレよ、アレ」
エリナの態度にミシェルは小首を傾げた。
歓声に圧倒されながらも、エリナたち三人は指定された貴賓席から美闘士たちの闘技を観覧した。
三人の視線の先、闘技場に用意された闘技台の上では、美闘士たちの戦いが繰り広げられている。
街角や、外で行われる辻試合と違い、闘技場での正式な試合には、いくつかのルールがある。相手が負けを認めなくとも、闘技台から落とされれば負けとなるのだ。
「エリナさま。見知った顔が出てきましたよ」
アイリの言葉にエリナが視線を闘技台へ戻す。
闘技台へと続く花道を歩いていくリスティの姿にエリナは視線を集中する。
リスティの武器は戦棍。
先端に取り付けられた鉄球は重たく無骨。
一撃でも当たれば肉は裂け、骨は砕けることは必定だ。
(ふむ……トモエは彼女に勝ったのよね)
エリナはリスティとトモエの戦いを想像する。
宿でのトモエの見た目と装備を想定する限り、リスティの一撃を受けて無事でいられるとは思えない。ならば、身のこなしの素早いタイプのかもしれない。
思案するエリナの視線の先で、リスティが対戦相手の美闘士を容赦なく叩き潰す。
手加減無しの一撃を受けた相手は、闘技場に倒れたまま、ピクリとも動かない。
「意外と強いんじゃないの、あの女」
「でも、結構、大ぶりですわよ。うまくかわせれば反撃も容易かと」
さすがは美闘士、アイリもしっかりと戦いを見ている。
「う、うわぁ」
ミシェルが顔を覆う。
「ざ、残虐なんじゃないのかな……これ」
「優しいのね。ミシェルは」
青ざめた表情のミシェルにエリナがそっと話しかける。
「でも、よく見ておいて……これが戦いなの」
「エ、エリナさまは平気なの?」
「平気よ」
迷いなくエリナは断言した。
「一たび刃を交えたら、どちらかが傷つき倒れるのが勝負の世界よ」
ミシェルはあらためて、エリナの強さに息をのんだ。
「その覚悟がなければ、アイリから貴方を守ろうとは思わないわ」
「まんまとしてやられましたわ」
アイリが深々と頭を下げる。
「実力が拮抗していたなら、勝敗を決めるのは想いの強さよ。私には負けるわけにはいかない理由があるもの」
歓声を浴びながらリスティが闘技台で勝利の雄叫びを上げる一方で、敗者が静かに退場していく。
「実力差を見誤ったものの末路ですわね。彼女はもう戦えないかもしれませんわ」
アイリが敗者に視線を向ける。
「そのほうが幸せかもしれないわね」
重たい戦棍を自在にあやつるリスティの実力は確かなものだ。
「己の強さを知ることも大事なことよ」
再び闘技場が歓声に沸き替える。
次の試合が始まったのだ。
「あ、あの……エリナさま、ぼく、お願いがあるんだけど」
*
観客が去り、闘技場が静けさを取り戻す。
「何だかんだ言って、結局、すべての試合を見てしまいましたね」
「ほ、ほら、あれよ。この先、私の敵になるかもしれない美闘士がいるかもしれないし、敵を知るための大事な情報収集よ。決して楽しんでたわけじゃないわよ」
「そうですわね」
ほほえましくエリナの言い訳をきくアイリ。
「これからが本番だしね」
闘技場を見渡し、ミシェルがとある視線に気づく。
バルコニーに人影が……女王アルドラだ。
アルドラがまっすぐにこちらを見つめている。
「エリナさま、あの人……」
ただ物ではない威圧感に、ミシェルは言葉を止めた。
「そうね、彼女が女王のようね」
「そうだけど……そのとなり!」
ミシェルの言葉を受け、エリナはアルドラの傍ら、貴賓室の奥へと視線を向ける。
「え? なんで?」
思わず口に出た。
アルドラの傍らに立っていたのは、彼女たちをこの街まで乗せてきてくれた人物、メナスその人であった。
「女王と知り合いだったんだぁ」
関心するようにつぶやくミシェルと対照的にアイリが眉をしかめる。
そんな一行の動向など気にも留めず、アルドラは闘技場全体を睥睨し、芝居がかった仕草で身体を動かした。
「すべての試合は終わったが、余はまだ満足しておらぬ。誰ぞ、余のために戦ってはくれぬものか?」
アルドラの声が響く。
「茶番が始まったみたいね」
エリナは眉をしかめた。
この後、繰り広げられることになる舞台の主役は自分だ。
「私でよろしければ女王陛下の願いをお受けいたしましょう」
アルドラの座する貴賓室の真下、闘技台へと進む花道の入口に、武者巫女が姿を現す。
「え? エリナさまの対戦相手って……」
「そう、彼女よ」
リスティに勝利したトモエ。
その実力は、同じようにリスティに勝利を収めたレイナと互角といっていいだろう。
トモエに勝てれば、自分の強さがどれ程のものかを知ることができる。
エリナが試合を受けた理由の一つだ。
三人が見つめる中、トモエは悠然と緋袴をゆらしながら闘技台へと歩み上がる。
「我が名は武者巫女トモエ、女王アルドラの願いを受け、ここに立つものなり、品性下劣にて淫猥を好む西洋武者どもに正義の何たるかを身をもって教えて差し上げましょう」
「品性下劣とはよく言ってくれたものね」
すたっと華麗にエリナが闘技台へ舞い降りる。
鮮やかな身のこなしにミシェルは目を見張った。
「淫猥の権化そのものじゃありませんか」
「私が?」
「昨夜のこと、忘れたとは言わせません。年端も行かぬ少年従者をあのような器具で、破廉恥な……」
口にしていて、昨夜の痴態を思い出したのかトモエが頬を赤くする。
「何か勘違いしてるみたいだけど……」
言いながらエリナが長槍を構える。
「そういう風に思うってことは、あなたの方が淫猥なんじゃないの?」
「な!」
トモエの顔がさらに紅潮したのを受けて、エリナはさらに畳みかけた。
「混ぜてほしかったの? それならそういってくれればよかったのに」
「な、何を言い出すのです!」
「ああ見えて、ミシェルって意外とたくましいのよ。あの子じゃないと、私、満足できないし」
わざとらしく長槍を抱きしめるかのようにエリナが身体をくねらせる。
「な、なんという破廉恥な! そもそも本人の同意を」
「得てればいいの? あの二人は私の持ち物なんだから、どう扱おうと私の勝手よ」
くすくすとエリナ笑った。
勝負の前に口先で相手の心を乱すのはエリナの十八番だ。
「はーい、二人ともそれまでー」
天上からの光が闘技台を照らし、二人は頭上を見上げる。
「審判の天使ナナエルさま、降臨!」
ゆっくりと光の通路を下るように天使が姿を現す。
そしてアルドラの声が響き渡る。
「女王アルドラの名において命じる、エリナよ! 汝が美闘士であるのなら持てるすべてを使い武者巫女と戦え!」
「ナナエルさんは働き者だねぇ、で、通り名は決まった?」
気安い口調でナナエルがエリナに尋ねる。
「決まってないなら、ナナエルさまが超絶かっこいい通り名を付けてあげるわ。そうね、にゃんにゃん耳の……」
「それには及ばないわ」
「なぬ?」
「きちんと考えてきたから」
エリナはそう言って大きく胸を張った。
「我が名は絶影の追跡者エリナ、わが追跡を阻むものは刃の散りとなる定め!」
宣言と同時に光り輝く紋章が浮かび上がる。
絶影、つかず離れず存在する影、レイナの後を影のように追いかける追跡者。
「ぜつえい?……字が難しすぎて書けないんだけど、綴りは?」
ナナエルが手元のメモに名前を書き込む。
これで通り名の登録は完了した。
「武者巫女トモエ! いざ尋常に勝負!」
トモエの正面にも紋章が浮かぶ。
「両者、要求を述べよ!」
「私が勝利したならば、奴隷を解放すること」
トモエの要求にアイリとミシェルが顔を見合わせる。
どうやらトモエは完全に三人の関係を誤解しているようだ。
「奴隷解放ねぇ……本人が進んで奴隷をやってる場合はどうなのかしら?」
「それでも、解放していただきます!」
「わかったわ。まあ、負けるはずはないけど、本人に聞いてみてあげる」
エリナは笑いを堪えながら答えた。
さて、何を要求してやろうか……。
「んで~、エリナは何を要求するのかな?」
エリナが答える前にトモエが口を挟む。
「聞くまでもないでしょう。その方の願いは私を奴隷にすること。血も涙もない暴君です」
「よくわかってるじゃない。あたし、奴隷の扱いには自信があるから期待していいわよ」
エリナはわざとらしく下卑た笑いを浮かべて否定しない。
「たとえ身体を支配できても心まで支配することはできません!」
「みんな最初はそういうのよね」
二人の視線がぶつかり合う。
「あ~、時間がないから、もういいよ!」
こほんと咳払いをして、ナナエルが上空へと舞い上がる。
「さあ、良き戦いを見せて! 美闘士たちよ、もてるすべてを惜しみなく見せ、死力を尽くし戦うがいい! クイーンズブレイドの戦いを!」
ナナエルの宣言と同時に、二人の紋章が衝突し、光をまき散らしながら消滅する。
戦いの始まりだ。
(間合いをはからないとね)
トモエの刀が届く範囲は長槍よりも短い。
一般的に一定の距離間を保つ限り、エリナの有利は揺るぎようがないはずだ。
だが、相手は武者巫女。
どのような隠し技を持っているか。
警戒を怠ることなく、エリナは間を開けた。
*
(飛び込んでこない?)
エリナが間合いを取ったことにトモエはわずかな関心を抱いた。
長槍と刀では、長槍の方が有利だ。
己の武器の有利さを知りながらも、あえて仕掛けずに間合いを図る。
そこには何らかの意図が含まれているはずだ。
エリナの動きを誘うべく、トモエは懐の符に手を伸ばした。
(仕掛けます!)
符を投げ、一気に間合いを詰める。
エリナが符に気を取られるか、それとも無視するか。
気を取られたならば、その隙をつき、無視したならば符に仕掛けられた呪符が発動し、彼女の自由を奪うことになる。
はたして、エリナの反応は。
エリナは符を警戒し、さらに後方へと飛び退く。
「後がないですよ」
街角と違い闘技台の広さは限られている。
トモエはエリナの着地点、闘技台の際を目指して走った。
*
(意外と早い)
空中に飛び上がりながらもエリナの視線はトモエから外れることはない。
跳躍の最高点で、エリナは行動を起こした。
長槍の向きを変え、捕縛用に槍に仕込んである鋼線付きの石突を射出する。
狙いはトモエの緋袴。
着地するよりも早く放たれた石突が緋袴を捕らえ、巻き取られた鋼線がエリナを高速でトモエの元へと近づける。
「くっ!」
トモエの決断は早かった。
鋼線で自由を奪われた緋袴を迷うことなく脱ぎ捨て、抜き打ちを放つ。
エリナの眼前で火花が走る。
速度はほぼ互角。
前もって長槍を構えていなければ、手痛い一撃を受けていたのはエリナの方だ。
「へえ、やるじゃない」
「そちらこそ」
エリナが体勢を整える前にとトモエは一気に畳みかけに入った。
武者巫女は戒律で肌を衆目に晒すのを嫌うものと聞いている。
緋袴をうしない素足となったことで鈍るかに思えたトモエの動きに変化の兆しは見られない。むしろ、足にまとわりついていた緋袴を失ったことで、かえって動きは加速しているようにも思えるほどだ。
「くっ!」
十分な間合いを取れると思っていたエリナは、予想外の猛攻に防戦一方となった。
金属が打ち合う甲高い音と火花が闘技台を飾る。
*
(この長槍、思ったよりも固い)
トモエの刀は、伝説の刀鍛冶クチナワが鍛え上げたヒノモト最高峰のもの。打ち合えば必ず相手を両断してきた逸品である。
それが両断しきれずに火花を散らしているのだ。
(この刀、なんでできているのよ?)
エリナもまたトモエと同じように相手の武器に驚嘆していた。
ミソチル鋼で作られた長槍で弾かれながらも刃こぼれすらしていないのだ。
武器の性能もまた互角。
ならば、この勝敗を分けるのは……。
*
「すごい……早すぎて剣筋が見えない」
「お気づきになられましたか、ミシェルさま」
貴賓席から戦いを見守るアイリとミシェルが手を固く握る。
「火花と打ち合う音の数が……あっていない?」
「はい、あの武者巫女の打ち込みは、常人の三倍以上の速度がありますわ」
「三倍?」
「おおざっぱな感覚でございますけれど」
「アイリでも勝てない?」
「お忘れでございますか? 私は死霊ですわよ。死霊と武者巫女では相性が悪いことこの上ないではありませんか」
アイリがニコリと笑う。
「あ、でも、あのトモエ様の精気は一度味わってみたいものですわ」
茶化して言いながらも、アイリの視線はしっかりと二人の戦いを注視している。
剣筋を見て受ける余裕がエリナにはある。
(この勝負、エリナさまの勝ちでしょうね)
「ねえ、アイリ、エリナさまは本気でトモエさんを奴隷にする気なのかな?」
「心配なのですか?」
「うん、あの人には果たさなければならない使命があるんだ」
「ずいぶんと気にかけていらしてますのね。でもご安心くださいませ、エリナさまはミシェルさまとのお約束を必ず守ってくださいますわ」
*
「決めます!」
トモエが声を張り上げ、符を抜き出す。
膠着していた状況が変化する瞬間を見逃すことなく、エリナはワイヤーを放った。
まるで意思をもった生き物であるかのように、ワイヤーは自在に動きトモエの身体を捕縛する。
「残念、私の勝ちね」
エリナが勝利を確信した瞬間、捕縛されていたトモエが突然燃え上がった。
「何よ? これ」
予期せぬ高熱に長槍を手放したエリナの前に、炎を散らして下着姿になったトモエが飛び込んでくる。
呪符による発火と身代わりの術を合わせた必殺の一撃。
恥を忍んで、勝利を呼び込む。
この一撃をかわされたなら勝機はない。
トモエがここまで追い込まれたのは初めてのことだ。
長槍を失った相手は丸腰。
(勝てる!)
お互いに勝機が二転三転した勝負に決着が見えた瞬間、またしても勝負が逆転する。
「恥知らずなのはどっちだったのかしらね」
エリナのつぶやきと同時に、トモエが身に着けていた最後の一枚がちぎれ飛ぶ。
(なぜ?)
ニヤリと笑ったエリナの左腕、鎧に覆われた指先にきらりと光る金属のかぎ爪。
(猫の爪……不覚)
衣服を失ったトモエが、その場に座り込む。
さすがにもはや羞恥を抑えることはできなかった。
「これで、試合終了……でいいかしら?」
「勝者! 絶影の追跡者エリナァ!」
トモエの戦意喪失を感じ取ったナナエルがエリナの勝利を宣言する。
(何もできなかった……)
瞳に涙がにじませ、トモエは唇を噛んだ。
終わってみれば、エリナの身体には傷一つついていない。
かたや自分は衣服をすべて失い、本来秘すべき裸体を余すことなく晒している。
(申し訳ありません天子さま、トモエはお勤めを果たせそうにありません)
*
衣服を失い涙ぐむトモエを見下しながら、エリナは冷や汗をぬぐった。
(危ないところだった……)
エリナの鎧はミソチル製ではない。
一撃ですら受けることが出来ずに切り裂かれる可能性が高く、トモエの刀に対して防御力という点では期待できなかった。
そして戦場となった闘技台も、得意とする鋼線を使った空中機動を封じられたエリナにとっては極めて不利な状況な上に、トモエの連撃はすさまじく奥義を繰り出す暇すらなかったのだ。
勝機を呼び込んだ一点はトモエの羞恥心……もし彼女が全裸になっても、裸体を晒すことを厭わず戦いを継続したなら、負けていたのはエリナの方であっただろう。
見物していた者たちには、決してわからない薄氷を踏むような勝利だったのだ。
(でも、なにかしら……この感覚は……)
ギリギリの接戦を経た末に、自分の内側から湧き上がる未知の感覚に戸惑いながら、エリナは深く息を吸った。
今は自分の感情よりも、トモエの処遇を決める時だ。
「さて私が勝利した以上、貴女がどうなるかはわかっているわよね?」
「そ、それは……」
自分の身に起こるであろう不幸にトモエが身を震わせる。
「エリナさま、待って!」
貴賓席から身を乗り出したミシェルをアイリが後ろから抱きしめて留める。
そんなミシェルに向けて、優しい笑みを投げ、唇を動かす。
(貴方の『お願い』を叶えてあげるわ)
唇の動きでエリナの言葉を読んだミシェルが、安堵の息を吐く。
「それでは……と」
エリナはトモエへと向き直った。
「勝者として、武者巫女トモエに命じる」
覚悟を決めたトモエがエリナを見上げる。
「私たちをヒノモトへ連れて行きなさい」
「え?」
「聞こえなかったの? 私たちをヒノモトへ連れていけって言ったのよ」
「ど、奴隷にするのでは?」
「あたしはそんな要求を言った記憶はないわ。それにアイリより働きが悪そうな奴隷なんてこっちから願い下げよ」
トモエに向けてくすりと笑い、エリナはアイリを手招きする。
「かしこまりました。エリナさま」
闘技場に降り立ったアイリがトモエの裸体を隠すようにローブをかぶせる。
「このあたしの案内人が裸だなんてみっともないのよ」
エリナの厚意にトモエは顔を伏せた。
「エリナよ。見事、大陸の美闘士の矜持を見せてくれたな」
アルドラの声が闘技場に響き渡る。
「褒美だ。受け取るがよい」
キラキラと輝くブローチがアルドラの手から放たれる。
「それは我が証、我が女王である限り、汝の旅を手助けすることであろう」
エリナは女王の印証の刻まれたブローチを受け取ると、拳を高くつき上げた。
翌朝、宿の広間に一行とトモエの姿があった。
「さて、ヒノモトへと案内していただこうかしら?」
「仕方ありません……、ですが、上陸前には服装をあらためていただきますわ」
「どういうわけ?」
「エリナさま、エリナさま……」
トモエの提案に眉をしかめるエリナにアイリがそっと声をかける。
「ヒノモトの女性は慎み深いのではありませんわ。貧相なのでエリナさまの豊かな御身体に嫉妬してしまうのですわ」
トモエには聞こえないように小声でそっと囁く。
「ま、いいわ。上陸までには考えておくわよ」
「よろしくお願いしますね」
トモエは複雑な表情を浮かべながらため息を吐いた。
使命を果たせないままヒノモトに戻るのは恥辱以外の何物でもない上に、西洋武者を連れてなど……天子さまに合わせる顔がない。
憂い顔のトモエを見かね、ミシェルが前へと進み出る。
「トモエさん、これ……」
ミシェルはそっと笛を差し出した。
「笛? これを?」
「試しに吹いてみて」
言われるままトモエがそっと笛を手に取る。
伝わってくるやさしい感触にミシェルはもじもじと身を揺らした。
「やはり、音……出ませんね」
笛を返しながら、トモエは困惑したように言った。
「うん、でも、あることがトモエさんの身に起きていると思うんだ」
「あること?」
「疲れとか、痛みとか、やわらいでいない?」
言われてみて初めて、リスティ戦から続いていた左腕の疼痛が消えていることにトモエは気付いた。
「これは?」
「ミシェルの笛には、傷や病を治す不思議な効果があるのよ」
エリナの言葉にミシェルがうなづく。
「この力があれば、トモエさんの目的も果たせるよね」
「よ、よろしいのですか? ミシェルさん」
トモエの表情が明るく輝く。
これで使命を果たせる。
「本当は、もっと早く教えたかったんだけど……機会が無くて」
「ありがとうございます。感謝します。ミシェルさん、ありがとう」
トモエはミシェルの手をぎゅっと握り、エリナへと視線を向ける。
「エリナさん、もしかしてこのために?」
「何見当違いなことを言っているの? あたしがヒノモトに行きたいのは、姉様がヒノモトへと向かったって話を聞いたからよ。勘違いしないでほしいわね」
「エリナさん……」
「さあ、アイリ出発よ!」
「それでは皆さま、出発いたしましょう!」
荷物を背負ったアイリが出発を促す。
聖地マラマクスを目指していたはずのレイナがなぜヒノモトへ向かったのか。
謎とレイナを追う三人の旅は続く。
次回に続く
エリナはクイーンズブレイドに参加する美闘士となり、少年ミシェルを追っていたアイリを倒し、勝利者の権利としてアイリを奴隷とし、ミシェルと3人で姉レイナの足取りを追う旅を続ける。一方ヒノモトから使命を帯びてやってきた美闘士、武者巫女トモエも強豪リスティを破る快進撃を続けていた。
「……遅いなぁ」
街道の脇に荷物を置いて、ミシェルは空を見上げていた。
青い空を白い雲がゆっくりと流れていく。
日差しは暖かく、空気は穏やか。
平穏と表現するのにこれほど適した時間はないだろう。
「誰かを~お待ちですのぉ?」
不意に声をかけられ、ミシェルは背筋をビクンと伸ばした。
誰?
近づいてくる気配も音もなかったのに!
警戒しつつ視線を向けると、そこには街道の上に浮かぶ天蓋付きの絨毯と、それに乗った褐色肌の美女の姿があった。
「こんにちはぁ? お話、わかりますかぁ?」
呆気にとられるミシェルに向け、にこやかにほほ笑みながら美女が小首をかしげる。
「あ、はい! わかります」
「よかったぁ、言葉、通じてないのかとぉ、思ってしまいましたぁ~」
不思議な口調で語る褐色美女、その出で立ちも一風変わったものであった。
身に着けた衣服は要所のみを隠す布のみ、素肌の大半を晒しながらも決して下品には見えず、様々な貴金属で飾られた胸当て、両腕、両足を彩る数々の輪冠によって一種の高貴さすらも漂わせている。
「見たところ、お困りのご様子ですねぇ~」
「は、はい。ちょっと難儀してます」
ミシェルも思わず困った顔になってしまう。
どう対応していいものやら……。
「申し遅れましたぁ~。わたくしはアマラ王国の王女、メナスと申しますぅ~。威光にひれ伏してくださいね~」
アマラ王国などという国の名前は聞いたことがない。ひょっとするとおかしい人なんだろうか。いや、この大陸はいろんな人種・種族のるつぼだ。このくらいの異常さはまだ想定の範囲内だと、ミシェルは思い込むことにした。
「お荷物、たくさんですねぇ~、よろしければこちらへいらっしゃいませんかぁ~」
「え?」
「街まで歩くのは、大変でしょう?」
「いいんですか?」
「ええ、構いませんよぉ~、ちょうど退屈していたのです~、なにかお話をしていだければ楽しく旅ができるかと思いましてぇ」
「ありがとうございます。でも……」
どうしたものか?
正直言って、この申し出は大変ありがたい。
だが、勝手に決めてしまっていいものか。
エリナは自分の知らないところで物事を決められることを嫌がる節がある。
ミシェルが返答に困っていると、不意に草むらをかき分ける音が聞こえてきた。
「あらあら、お連れ様がいらしたのですねぇ?」
メナスの視線の先、草むらの影からエリナとアイリが姿を現す。
「エリナ様、こちらの親切なお姉さんが街まで乗せてくださるそうですよ」
ミシェルの言葉を受け、エリナは街道上に浮かんでいる魔法の絨毯に目を丸くした。
「すごい! 本当に浮いてるの?」
「はい~、浮いてますよぉ~」
「いいわね! 乗せてもらいましょう」
エリナは二つ返事で快諾するや、物怖じすることなくメナスの絨毯へと乗り込んでいく。
このあたりの豪胆さは、平時において自分に危害を加えられる者はいないと思い込んでいる大貴族の性と言ったところか。
「アイリ! 荷物を運んで、ミシェルはこっちへ」
「あ、はい」
手招きされるまま、ミシェルも絨毯へと乗り込む。
「あのう、これ、何人まで大丈夫なんでしょうか?」
「さあ? 試したことはありませんけどぉ、たぶん、皆さんとお荷物ぐらいなら大丈夫だと思いますよぉ~」
メナスの言うように絨毯がたわむことはなかった。
「さぁ、使用人の方もどうぞ~」
「感謝いたしますわ。メナスさま」
メナスに対して一礼し、荷物を載せを終えたアイリが乗り込む。
(あれ?)
アイリの態度にミシェルは小首をかしげた。
彼女たちが茂みから出てきてから、メナスは自己紹介をしていない。
なぜアイリは彼女の名前を知っていたのだろうか?
ほどなくして、皆を乗せた絨毯は地面の上を滑るようにして移動を開始した。
馬車のように揺れることもなく、車輪が立てる騒音もない。
「便利よねぇ、これ、欲しくなったわ」
鳥のさえずりが聞こえてくる程に静かで快適な旅に、エリナが関心したようにつぶやく。
「ねえ、この絨毯あたしに売りなさいよ」
「そういうわけにはいきませんよぉ~」
メナスいわく、魔法の絨毯はアマラ王国の秘宝であり王族以外の者には扱うことが出来ないらしい。手に入れても、宙に浮かぶことが出来なければ、ただの高価な絨毯でしかないことを知るや、エリナの興味はあっという間に失せてしまった。
「ま、今回はありがたく乗せてもらうわ」
「こうして困っている方を助けるのも、支配する者の務めですからぁ~」
(……それは、あたしの台詞よ)
「うわぁ……」
市街を取り囲む巨大な城塞を前にミシェルは思わず声を漏らした。
一行がたどり着いたウィトウルは、大陸中央に位置する帝都へと続く大街道上に関所として建設された無数の城塞都市のひとつだ。
クイーンズブレイドを支援する都市らしく、市内には大小を含めいくつかの闘技場と観客たちをもてなすための、旅館や食堂、市場などが完備され大きな賑わいを見せている。
美闘士として、クイーンズブレイドを戦い抜いているのであれば、レイナがここに立ち寄った可能性は高い。
「ま、まあうちの都ほどじゃあないわね」
レイナを追う旅に出て初めて到着した主要基幹都市を前にして、故郷との圧倒的な国力の差を感じ、エリナは強がりを口にした。
「そうなんですか?」
「そうよ。我が故郷、ヴァンス伯爵領は風光明媚にして、華麗かつ流麗な都なんだから」
エリナの言葉を受け、ミシェルは彼女の故郷を想像した。
実際にはのどかな田園地帯が広がる典型的な田舎の風景なのだがミシェルには知る由もない。
「一度、行ってみたいですね」
「そのうち行けるわよ。レイナお姉ちゃんを見つけたら、あなたも一緒に帰るんだから」
「え?」
「さあ、さっさと入るわよ。やることは多いんだからね」
エリナとミシェルがそんなやりとりをしていた一方で、アイリは絨毯から荷物を下ろし、メナスと何事かを会話している。
「アイリ、行くわよ」
エリナの声を受け、アイリはメナスに軽く一礼し、荷物を手にした。
「では、皆さま、ごきげんよう。楽しいひとときでしたぁ~」
メナスはにこやかに告げ、一行に手を振り去っていった。
「さて、エリナ様、まずは宿の手配をしてまいりますわ。お二人は広場でお待ちくださいませ」
「任せたわ。この街で最高の宿を頼むわね」
アイリが軽く頭を下げ、雑踏の中へと姿を消していく。
言わずとも次の行動に即座に移る、アイリは使用人の鏡のような存在だ。
「ん~~~、ちょっと疲れたわね」
エリナは胸を大きく広げ、大きく体を伸ばした。
ミシェルはその傍らで、彼女のしなやかな肢体へと視線を向ける。
「ところで、ミシェル」
「はい、なんでしょう。エリナさま」
「見てたでしょ」
「な、なんのことですか?」
確かにエリナの胸が揺れ動くさまは見ていたけれど、凝視していたというほどのものではないし、咎められるほどのことではないはずだ。
「メナスだったっけ? ああいうのが好みなのかしら」
どうやら見ているものが違ったらしい。
「やっぱり、あたし露出度が足りないかしら? あんな恰好、ちょっとはしたないと思うんだけど……魅力的な姿をするのも支配する者の務めだしね」
「エ、エリナさまは今のままで十分、お美しいと思いますよ」
「当たり前じゃない。聞き慣れてるわ」
エリナの頬が赤く染まったように見えたの気のせいだろうか?
「でも、ただ待つというのも、退屈なものね」
焦れたようにエリナがつぶやく。
アイリが雑踏に消えて五分と立っていない。
心底、待つのが苦手なのだ。
二人がアイリを待っているのは、街道から直接続く大通りをまっすぐに進んだ市街の中心近くにある広場、あちらこちらに露店が立ち並び、ややもすると混沌と言いたくなるような状況にありながらも、楽し気な賑わいを見せている。
「あ、エリナさま、試合結果が張り出されてますよ」
「どれどれ?」
ミシェルの指さした先、〇と×が描かれた名簿が立て看板に張り付けられているのが見える。
名簿はこの街の闘技場で戦った美闘士のもの、〇×は勝敗、その後に書かれている数字は賭けの倍率といったところだろう。
「お姉ちゃんの名前は……」
名簿に目を走らせ、エリナはレイナの名前を探す。
が、残念ながら見つけることは出来なかった。
「三日分ぐらいしか張り出してないみたいですね」
「ねえ、店主。過去の張り紙は残ってないの?」
エリナの問いに店主は鼻で笑いながら、四日から前のは残っていないと答えた。
「誰をお探しだい?」
「レイナ……流浪の戦士レイナの行方を捜してるの」
「ん~、いちいちおぼえちゃいねえが、この街で戦ったことがある美闘士なら、闘技場の方に記録が残ってるんじゃないかな」
店主の返答にエリナは穏やかな笑みを浮かべた。
手がかりを得たのだ。
「エリナさま、お待たせいたしました~」
ちょうどよいタイミングで、アイリが戻ってくる。
「アイリ、宿に荷物を置いたら出かけるわよ」
「は、はい? 何か目的ができたのですの?」
「闘技場にいくわ、美闘士たちの記録が残ってるかもしれないのよ」
「わかりました。で、宿の方なのでござまいますけれど……」
ちょっとばつの悪そうな表情を浮かべるアイリ。
「何かあったの?」
「手違いというほどのことではないのでございますが、貸し切りが出来るような宿が埋まってしまっておりまして……相部屋ということになってしまいました」
「なんですってぇ……このあたしが、あ、相部屋ぁ」
町の賑わいからして、想像しておくべきだったのだが、致し方あるまい。
エリナは、ここしばらくの旅においてアイリの侍女としての調整能力には信頼をよせるようにはなっていた。
移動、食事、休憩に宿、どれも及第点以上のものを準備してくるのだ。
そのアイリが、相部屋しか確保できなかったという時点で、この街の賑わいがすさまじいものであることをエリナは知ることができた。
「相手の方も女性ですし、問題はないかと思いますけれど……いかがなさいますか」
メナスのおかげで早めについたとはいえ、長旅の後だ。
今から宿を探しなおすとなると……条件もかなり落ちることになるだろう。
しっかりと休める宿であることが第一条件。
虫が湧いているようなベッドは願い下げだ。
「仕方ないわね。寛容も支配する者の務め。案内しなさい」
ベッドの上で座禅を組み、目を閉じ意識を穏やかにしていく。
瞑想はトモエの日課のひとつだ。
意識を集中することで、自分の身体の不具合に気付き、健康を維持することができる。
今回のような長期にわたる単独任務となれば、なおさら自己管理は重要性を増す。
札を使い反射したとはいえ、リスティの一撃は十分に重たいものであった。
直撃していれば左腕は使い物にならなくなっていただろう。
現に今も重いものを持ち上げようとすれば激痛が走る。
(完全に反射できなかったとは、私もまだまだ未熟ですね……)
足音と共に近づいてくる気配に、トモエは目を開けた。
「失礼します~」
ノック音、つづいてドアを開け、宿の女が入ってくる。
頼んでいた湯あみにはまだ早い時間だ。
「トモエさま、よろしいでしょうか?」
「何でしょう?」
ゆっくりと宿の女に視線を向ける。
申し訳なさそうな表情を浮かべ、彼女は小さく頭を下げた。
「申し訳ありませんが、今日から相部屋をお願いします。」
元々、多人数用の部屋をたまたま空いていたという理由で、一人で使っていただけのことだ。不満を言える立場ではない。
「構いません。このまま、相部屋でお願いします」
トモエの返事に宿の女の表情が明るいものへと変わる。異国の美闘士相手の申し出でさぞ緊張していたのだろう。
「ありがとうございます。では、そのように……」
「相部屋ですか……落ち着いた人なら良いのですけれど」
トモエは瞑想を再開した。
*
宿は予想したものよりも上質なものであった。
馬車でも通り抜けができるように大きなアーチ型となっている入口をくぐって、中に入るや庭園を思わせる玄関口が来客を出迎える。
ふんだんに流れる水と、豊かな緑は衛生環境が快適に保たれていることの証だ。
「ふん、まあまあね」
「お待ちしておりました。エリナさまご一行でございますね」
旅館の女たちがエリナを出迎え、荷物を受け取る。
「案内しなさい」
エリナも慣れたもので、荷物を躊躇なく預け案内を命じる。
「失礼いたします」
先を行く侍女の後を追い階段を上がる。
エリナたちが移動している間にも、馬車が次々と到着し、客を下ろしては去っていくのが見えた。
「結構な賑わいね」
「はい。女王陛下がお見えになってまして……」
「へぇ、女王アルドラが」
クイーンズブレイドを二連続で制覇した最強の美闘士、アルドラ。年はエリナより上のはずだが幼い少女のような外見だと聞いている。何か人外の力を弄んでいるのかもしれない。そんなことを思っていると部屋に到着する。
「では、失礼いたします」
一礼し、荷物を置いて侍女が去っていく。
先行したアイリがドアを開け、エリナを迎え入れる。
「あら、意外と広くて片付いてるじゃないの」
板張りの床に、ベッドは四つ。
それぞれのベッドは天井から下げられた布で仕切ることで個人空間が確保できるように配慮されており、この宿が上質なものであることを感じさせる。
四つのベッドの一つ、カーテンで仕切られた向こう側に人影が見えることに気付き、エリナが足を止める。
すうっとカーテンが開き、布地の向こう側から見覚えのない異国の装束に身を包んだ黒髪の美女が姿を現す。
「こんにちは、はじめまして」
ベッドの上で正座したまま、黒髪の美女が頭を下げる。
「武者巫女トモエと申します。こうして同室となったのも何かの縁、どうぞよろしくおねがいいたします」
トモエの自己紹介を受けて、アイリが一歩前へ歩み出る。
音もなく滑るように移動したアイリの姿に、トモエは条件反射で札へと手を伸ばす。
死霊は、武者巫女にとっては倒すべき存在だ。
「警戒なさらなくとも結構ですわ。私はアイリ、こちらは我が主人のエリナ様とミシェル様でございます」
「ここで戦うつもりはないけれど、もし貴女があたしの奴隷に手を出すのなら、私は支配する者の務めとして見過ごすことは出来ないわよ」
エリナの言葉を受け、トモエは奴隷という単語に眉をひそめながらも札から手を放す。
「失礼しました。戦うつもりはありません」
「そうね。お互いそのほうが良いわ。アイリは不用意に誰かを襲うような恥しらずな真似はしないように教えてあるから警戒は無用よ」
アイリが無作法をしたら自分が処分すると暗に示し、エリナはカーテンを引いてトモエと自分たちの境界を明確化した。
「アイリ、荷物を置いたらすぐに出るわよ」
「あ、はい」
エリナはトモエの存在など、気にも留めずに指示を出す。
「ミシェルはどうする?」
「残っていてもいい? ちょっと疲れちゃった」
「構わないわよ。ミシェルを襲ってきそうな相手はいないだろうし」
エリナがちろりとアイリに視線を向ける。
クイーンズブレイドの約束としてアイリを奴隷にして以来、ミシェルを狙ってくる輩の気配は微塵もない。
「貴女、トモエといったかしら?」
「はい?」
不意に声をかけられ、カーテンの向こう側でトモエが背筋を伸ばす。
「貴女、武者巫女だったわね?」
「はい。魔を祓い、弱きを助けるのが我ら武者巫女の矜持です。」
「そう……なら、心配はいらないわね」
エリナの言葉にトモエは首をかしげた。
何が心配いらないのだろうか?
「もし誰かに襲われそうになったら、トモエに頼りなさい」
「え、ええ?」
唐突な提案にミシェルが目を丸くする。
「同室になったのも何かの縁よ、上手くやっておきなさい」
一方的に告げエリナは早々に部屋を後にする。
「お、お待ちくださいエリナ様」
アイリが当然のように後を追って部屋から出ていく。
残されたミシェルとトモエは、カーテン越しにお互いの顔を見合わせたまま、呆然と二人を見送った。
*
「いいんですか? ミシェル様を一人にして」
闘技場に向かう道すがらアイリが尋ねる。
「構わないわよ。理由はさっき言ったとおりだし」
エリナが知る限り、ミシェルを狙っていたのはアイリだけだ。
そのアイリも今は味方である。
「武者巫女といえば、ヒノモトの最強戦力と聞いているわ。それが同室なら下手な騎士団より頼りになるはずよ」
「お詳しいのでございますね」
「教養よ。教養。他国のことを知っておくのも、支配する者の務めよ!」
エリナはひらひらと手を振って、アイリに視線を向ける。
「心配なら戻ってもいいのよ?」
「ご冗談を……死霊が巫女と同室なんてゾッとしますよ」
「あら、じゃあなんで同室にしたわけ?」
「エリナ様たちのためです。出来る限り夜は安らかに過ごせるようにと」
「気をつかってくれたのね」
エリナの素直な返事に、アイリは思わず微笑みを浮かべた。
「はい、主人の健康を第一に考えるのが従者の勤めですから」
時折見せる年相応な素直さがエリナの魅力のひとつだ。
彼女が健康でないと精気をもらえないという本音を隠し、アイリは従者らしく歩を進めていく。
*
「お待たせしました~」
大き目のタライと湯の入った桶を手に宿の女が部屋へと入ってくる。
「え?」
戸惑うミシェルの前を一礼し通過すると、女はカーテンで仕切られたトモエの一角へと入っていった。
「ここでよろしいですか?」
「お願いします」
侍女がタライを床に置き、湯の準備を始める。
「あ、あのう……」
「大丈夫ですよ。カーテンで仕切られていますから、他のお客様からは見えません」
侍女の言葉にトモエは安堵の息を漏らす。
大陸とヒノモトの生活習慣の違いの中で、彼女にとって最も困難を伴ったのは、入浴であった。
武者巫女はみだりに肌を晒してはならない。
この戒律のおかげで公衆浴場が使えず、入浴はこのように行水で済ませざるを得ない状況が続いていた。
「では、失礼いたします」
支度を終えた侍女が部屋を後にする。
「ミシェルさん……いらっしゃいますか?」
カーテン越しにトモエは部屋に残っていた少年に声をかけた。
どうしても確認しておきたいことがある。
「は、はい?」
「そちらから、こちらを見ることは出来ますか?」
「えっと……」
言われるままミシェルはカーテンに視線を向ける。
カーテンにトモエの影が映ってはいるが、様子をうかがい知ることは出来ない。
「見えませんよ。大丈夫です、安心してください」
「そうですか」
「それに、誰か不審な人物が来たら僕が追い返します」
「紳士なのですね」
「女の人は守るべき相手です」
ミシェルの言葉にトモエは笑みを浮かべる。
エリナとは距離感をつかめなかったが、ミシェルとは打ち解けた会話が出来そうだ。
「ありがとう。期待させていただきますわ」
そう言ってトモエは巫女装束を脱ぎ始めた。
(う、うわ……)
ミシェルは声を抑え、喉を鳴らした。
見えないとは言っても、影はしっかりと見えている。
巫女装束を脱いだトモエの女性らしいしなやかな身体の線がくっきりと見て取れる。
静かな部屋の中、絹擦れの音が聞こえ、肌が露わになっていく様子を想像し、ミシェルは思わず拳を握った。
(だめだ。何を考えてるんだ僕は!)
「ミシェルさん?」
「は、はいぃ?」
「少し、お話していいですか? 気がまぎれるので」
湯の温度は少し暖かいぐらい、タライの中へゆっくりと足を踏み入れ、腰を下ろしてゆく、半身浴と呼ぶには少し少ない湯量だが、これは仕方がない。
「ミシェルさんたちは何のために旅をしているのですか?」
「えっと……」
尋ねられてミシェルは言葉につまった。
エリナは、姉であるレイナを追って旅している。
レイナが目指しているマラマクスが、自分の目的と合致しているため、エリナと一緒に旅をしてるわけで、本来の旅の目的とはちがっている。
「言いたくなければ、言わなくても構いません。無理に聞く気もありませんから」
「じゃあ、どうして聞いたの?」
「あなたもあの死霊のように、あのわがままな方の奴隷にされているのではと、気になっていたものですから」
「ぼくは……奴隷じゃないよ」
「そうなんですね。少し安心しました」
トモエの素直な返事にミシェルは自分の目的を話すことを決めた。
「僕の目的はマラマクスにたどり着くこと」
「マラマクス!」
トモエの声が高まる。
「知っているの?」
「え、ええ……私の知っているマラマクスと貴方の目的地が同じなら……行くべき場所ではないと思うのです」
マラマクス、ヒノモトでは魔羅魔窟と記される魔界の総称。
「聖地って聞いているけど」
「大陸ではそうかもしれませんが、ヒノモトでは魔界と思われています。この世界の傍らに存在する魔族たちの住む世界……そう教わりました」
「この世界の傍らに……」
ミシェルはトモエの言葉を反芻した。
マラマクスが地図に乗っていない理由がわかった気がする。
「詳しいことは私にもわからないんですけどね」
湯を流しつつトモエは苦笑した。
「トモエさんは、何のためにクイーンズブレイドに参加したのですか?」
ミシェルは話題を変え、トモエに尋ねる。
「ある人の病気を治したいのです」
「病気を?」
「ヒノモトでは治せない病気なのです」
トモエの声が沈む。
「クイーンズブレイドに勝利すれば願いが叶う。そう聞いてきたのですが」
「願いが叶えられるのは、女王になった者のみ」
「ええ、そうだったのですね」
クイーンズブレイドの掟。
美闘士の誇りに賭けて、敗者は勝者の望みをかなえねばならない。
ただし、敗者の能力的に不可能なことはかなえることは出来ない。
知らないことを答えろと命じられても答えようがない。
「病を治す秘薬、満魂丹がこの大陸にはあるそうです。後は薬を手に入れるだけです」
「薬を手に入れるために戦うの?」
「はい。すぐには無理かもしれませんけど、戦い続けていけばいつの日か満魂丹を手に入れることが出来るはずです」
雲をつかむような話だ。
美闘士が満魂丹につながる手がかりを知っている確率は決して高くはない。
リスティのように知らないことの方が大半だろう。
それでも、微かな可能性を信じてトモエは戦い続けるしかない。
「長い戦いになる覚悟はできています」
トモエは湯から上がりながら、自らに言い聞かせるようにミシェルに言った。
長い戦い……。
その戦いをしなくても済む方法をミシェルは知っている。
ミシェルは笛を手に悩んだ。
素直に病気を治す手段があることをトモエに知らせるべきか。
それとも黙っているべきか。
「トモエさん……」
「はい?」
「自分に他人を救う手段があるとしたら、迷わずに使う?」
「使います」
トモエはためらうことなく言い切った。
「私にとってはクイーンズブレイドがその手段です」
口にしたことでトモエの中で決意が新たに固まったのかもしれない。
トモエが、巫女装束を身にまとう。
「ありがとうございます。ミシェルさん」
「え? ぼく、お礼を言われるようなことはしてないよ」
「話し相手になっていただきました」
トモエはすっとカーテンを開けた。
「あ……」
背後からさす日差しを後光のように浴びた神々しいトモエの姿に、ミシェルは思わず言葉を失った。
「おかげで揺るぐことなく戦いに望めそうです」
トモエはミシェルに向けて一礼し、部屋を後にした。
「……言い出せなかったな」
ミシェルは笛を手に、トモエが去っていったドアを見つめた。
*
闘技場に備え付けられた宿泊施設兼坂場。
クイーンズブレイドに参加する美闘士と付き人、さらには彼女たちを相手に商売を行う武器屋、薬屋、道具屋やら専門マッサージ師など多くの人々でにぎわいを見せる一角で、エリナはリスティの姿を見つけた。
「あなたに聞きたいことがあるわ」
「おいおい、不躾にもほどがあるぞ」
自己紹介もないままに尋ねてきたエリナの無礼を咎めつつもリスティは、笑いながら答えた。どうやら少し酒が回っているらしい。
「だが、今日は機嫌がいい。許してやる」
「あなたの許す許さないはどうでもいいの」
エリナは指を鳴らしてアイリに、エールの入ったジョッキを持ってこさせる。
こういう相手と円滑に話を進めるには、酒を飲ませてしまうのが一番だ。
「私のおごりよ」
「ほう、わかってるじゃねえか」
リスティは迷わずアイリからジョッキを受け取り、一気に飲み干す。
「協力者に酒をふるまうのも、支配する者の務めよ」
「で、何を聞きたい?」
「あなたが以前戦った美闘士、負けたと思うんだけど……」
リスティが眉をしかめる。
「勝ち試合の後で、負けた試合のことを聞くたぁ、いい度胸をしてるな」
「いつも言われるわ」
エリナは肩をすくめ、リスティに向けてほほえみかける。
「その顔、どこかで見た覚えがあるんだがなぁ……」
「自己紹介がまだだったわね。荒野の義賊リスティさん」
「リスティで構わねえ、どうせ、お前も美闘士なんだろ?」
「私はエリナ、こっちは冥土へ誘うものアイリ」
「通り名はないのかい?」
「良いのが思いつかなくて」
「天使が適当な通り名を決めてくる前に自分で気に入ったのを付けたほうが良いぜ」
「天使が決めるの?」
「ああ、あのナナエルとかいう天使に酷い通り名を付けられて引退した美闘士もいるからなぁ、通り名は重要だぜ」
「酷い通りなって?」
「女の口からは言いづらいなぁ。」
リスティがやや下品にニヤリと笑う。
「そう……考えておくわ」
思わぬ盲点にエリナは顎に手を当てて思案する。
通り名のことなど考えてもいなかった。
美闘士になったことですら父上はお怒りのはず、この上、無様な通り名などつけられれば、家名に泥を塗る不始末になりかねない。
もっとも美闘士になったのもなりゆきでなっただけで、エリナはクイーンズブレイドで何かを果たしたい目的もない。
「で、通り名はさておき、聞きたいことがあるんだろ?」
考え込み始めたエリナをリスティが引き戻す。
「誰だ、トモエか、レイナか? その二人にしか負けてねえぞ」
聞いた名前にエリナは笑みを浮かべる。
「私が聞きたいのは、レイナ……のことよ」
指を鳴らしアイリにエールのおかわりを要求する。
「しっかりと話してちょうだい」
「今日は飲み放題ってわけか……いいだろう、話してやるよ」
リスティはジョッキを受け取ると、自分とレイナの戦いを語り始めた。
*
すべての闘技が終わり、闘技場へと続く門が閉められる。
「退屈なものだな」
篝火に照らされた闘技場にゆらめく影を見ながら、女王アルドラはため息を吐いた。
観覧試合として都市をめぐりながら、将来の強敵を探す。
毎日、十組以上の戦いを観覧するものの、面白いと思える試合はほとんどない。
唯一の例外が、ヒノモトから来た武者巫女の戦いだった。
刀と符を使った臨機応変な戦術は見ていて飽きがこない。
「口に出して言うほど退屈なさってますのねぇ」
微かな香木の匂いを漂わせ、褐色肌の女性が入ってくる。
「メナス王女……そなたの戦いぶりも見てみたいものだがな」
クイーンズブレイドの勝者として女王を名乗るアルドラと違い、メナスは生まれながらの王族である。
「私の出番はぁ~、まだまだ先ですのよぉ~」
うふふと笑いながらメナスはアルドラの傍らに立った。
「それは残念だな」
太古の時代から受け継がれてきたメナスの格闘術は、アルドラにとってみるべきものの多い戦闘スタイルだ。
御前試合という名目で試合をさせることもできるが、メナスにそれを命じたところで、やる気にならない彼女が試合を放棄するのは目に見えている。
ならば、別の方法で満足のいく戦いを用意するしかない。
「天使を呼ぶとするか……」
夕暮れから夜へと変わる空を見上げ、女王アルドラは決意を固めた。
*
「うわぁ、酒臭いッ」
アイリに連れられて帰ってきたエリナに対するミシェルの躊躇のない第一声。
「ん~~~、女の子に臭いってのは酷いんじゃないかしらねぇ~」
酒臭い息を吐きながらエリナがミシェルに顔を近づける。
幸いにもエリナの機嫌は良い。
酒の相手からレイナの情報を十分に聞き出せたのだろうか。
「ちょ、ちょっと離れてぇ」
嫌がるミシェルを無視し、エリナが馬乗りになる。
しっかりとした太ももに挟み込まれ、ミシェルは身動きがとれなくなった。
(う、うわ……)
エリナの衣服がはだけて、胸の谷間が露わになっている。
「どこを見ているのかなぁ?」
「ど、どこって」
(エリナさん、酒癖わるいよぉ!)
一生懸命、目をそらしながらミシェルはアイリに助けを求める。
だが、アイリは荷物の整理に意識を集中していて、こちらに気付いていない。
「あるえ?」
不意に顔を上げたエリナが首をかしげる。
「あの女は?」
「トモエさんなら出て行ったよ」
「護衛を頼んだのに、期待外れもいいところね~」
「あっ、あなた、まさかあの女に襲われたりしなかったんでしょうね!あの女、
みょうちきりんな衣装の中にとんでもなく我儘な身体を隠し持っている雰囲気だったし!」
エリナの言葉に思わずミシェルはカーテン越しに見えたトモエの肢体を思い出した。
「そんなわけないでしょ! エ、エリナさまはトモエさんのことが嫌いなの?」
「ん~~~、好きも嫌いもないわよ」
目を閉じて小首を傾げる。
「ただね、自分の生活空間に他人が入り込んでくるのが嫌なのよ」
貴族として生きてきたエリナにとって、レイナ追跡の任務を継続している現状の生活は忍耐の日々なのだ。
「ミシェルはどうなのよ?」
上にまたがったままエリナがぐいっと顔を近づけてくる。
吐息が届くほどの距離だ。
「意外と、ああいうのが好み?」
「いや、その……」
「黒髪が好きなのかしらね。そういえば、メナスも黒髪だったわよねぇ」
「そんなんじゃないよっ!」
ミシェルは声を張り上げた。
彼自身はトモエに対してやましい気持ちは持っていない。
自分ためではなく、大切な人のために、終わりの見えない戦いに身を投じた彼女に対して敬意すら抱いている。
「良く知りもしないで!」
珍しく大声を上げたミシェルに驚き、エリナとアイリが目を丸くする。
「メナスさんの時と言い、僕が女の人なら、誰彼構わず好きになるみたいなこと言わなくてもいいじゃないかッ」
「ご、ごめん……」
ミシェルの権幕に思わずエリナは詫びの言葉を口にした。
「ちょっと悪ふざけが過ぎたわね」
しょんぼりと落ち込んだような口調で告げ、エリナはゆっくりと身体を放した。
「エリナさま、お風呂に参りましょう」
助け船を出すようなタイミングで、アイリが湯あみ道具を手にする。
「そ、そうね……あたしとしたことが悪酔いしているみたい」
*
天上からの光が闘技場のバルコニーを照らす。
「来たか……」
光の中に浮かぶ天使の姿を見上げ、女王アルドラはつぶやいた。
「あのねー、クイーンズブレイドでもないのに天使を呼び出せるのが、女王の特権とはいえねぇ、ほいほい呼び出されちゃ困るんだけどぉ」
ふわりと天使がバルコニーの縁に降り立つ。
青髪の片翼天使、クイーンズブレイドの審判を行う、審判の天使ナナエルだ。
「呼び出しに応じてもらい感謝する。ナナエル」
「はいはい、感謝してちょうだい」
軽い口調で答えながら、ナナエルが縁からぽんと飛び降り、アルドラの隣に立つ。
「で、要件はなに? アタシも結構忙しいんだけど」
「それは悪いことをしたな」
アルドラは天使への貢ぎ物として定められている聖乳を差し出す。
「まあ、アルっちは心得てるから許してあげるわ」
受け取った聖乳を飲み干し、ナナエルが口元をぬぐう。
「御前試合を開こうと思う」
「ん~~~、好きに選べば? アルっちなら誰でも選び放題でしょ」
「面白味が無くてな」
アルドラはため息を吐いた。
「単に強いだけ、技が早いだけ、見た目が美しいだけ、そんな美闘士はもう飽きたのだ」
「もう、わがままだなぁ」
「女王とはそういうものであろう」
「まあそうかもねー」
「一人は目星をつけた。そちらには召喚状を送っている。問題は対戦相手だ。面白い美闘士がいれば紹介してくれぬか」
アルドラから手渡された書状に目を通しながら、ナナエルが目を細める。
「ん~、この娘、クイーンズブレイドのこと良くわかってないみたいね」
「だからこそ面白い。希望と落胆、そして再起の姿が連続で見れるのは、そうあるものではない」
「意地が悪いなぁ」
ナナエルがにやりと笑う。
「そういうことなら、面白い相手がちょうどこの街に来ているわね」
「ほう」
「美闘士に任命してあげたんだけど、試合数が少なくて……御前試合なら逃げられないしちょうどいいわね。じゃ、忙しいからこの辺で~」
天に戻っていくナナエルを見送ることもなくアルドラがつぶやく
「願わくば、余を倒せる力を持つ美闘士であってほしいものだ」
次回に続く
エリナはクイーンズブレイドに参加する美闘士となり、少年ミシェルを追っていたアイリを倒し、勝利者の権利としてアイリを奴隷とし、ミシェルと3人で姉レイナの足取りを追う旅を続ける。
円形闘技場の観客席を埋め尽くす群衆。
騒めきと喝采の混じった歓声のなか、闘技場の競技台へと美闘士が歩いていく。
彼女の名は、荒野の義賊リスティ。
褐色の肌を彩る蛮族風の入れ墨と野性味を感じさせる印象的な赤毛、手にした重量級の戦棍(バトルメイス)を軽々と扱う体躯、すべてが高次元で合わさった美闘士と呼ぶにふさわしい女戦士だ。
「で、あんたがあたしのお相手ってわけか」
闘技台に立ったリスティを待っていたのは、大陸では見かけることも稀な巫女装束の美闘士。大陸東方、海の彼方に存在する神秘の国ヒノモトの武者巫女だ。
天衣無双と称される彼女たちがクイーンズブレイドに参加するのはきわめて異例。それだけに観客の視線も熱気を帯びる。
「武者巫女トモエと申します」
トモエはうやうやしく一礼し、腰元の刀に手をかける。
まだ抜刀はしない。
「はいはーい、勝手に試合をはじめなーい」
天上から射すまばゆい光を背に受けて、非対称の翼を持った天使が明るい声で告げる。
「審判の天使たるナナエル様の合図なしに試合をしても無効になっちゃうからね!」
「そうなんですの?」
「そういうものなの!」
トモエのやや間の抜けた質問に答えながら、ナナエルは大きく胸を張った。
「では、改めて試合開始の宣言を!」
おうと声を上げたのはリスティだ。
「荒野の義賊リスティ、要求は単純だ。全財産をアタシに寄越しな」
宣言と同時にリスティの前に紋章が浮かびあがる。
「武者巫女トモエ、要求はただひとつ、満魂丹(まんこんたん)をください」
「はあ?」
トモエの要求にリスティは思わず間抜けな声を上げた。
「あー、トモエちゃん、それはダメなお願いだねぇ」
ナナエルのダメ出しを受けてトモエが首をかしげる。
「クイーンズブレイドの勝者は、どんな願いでも叶えていただけるのでは?」
「うん、それは最終勝利者だね」
「そういうこった。あたしはその満魂丹とやらは持ってねえし、知らねえから叶えられねぇんだよ。残念だったな」
そんなこともしらねえのか、とリスティは半ばあきれ顔になった。
「そうですか……残念です」
「他に望みは? リスティに出来そうなのがいいと思うよ」
「そうですね……では、闘技場の玄関を清掃してくださいませんか?」
「そんなんでいいのか? 欲のねえ奴だな」
「はい、できれば満魂丹の情報を頂きたかったのですが、知らないとあれば致し方ありません」
「では、承認っと」
ナナエルの声に合わせ、トモエの前に紋章が浮かび上がる。
「さあ、良き戦いを見せて! 美闘士たちよ、もてるすべてを惜しみなく見せ、死力を尽くし戦うがいい! クイーンズブレイドの戦いを!」
ナナエルの宣言と同時に、二人の紋章がお互いに吸い寄せられるように近づき、衝突し、光をまき散らして消滅していく。
「行くぜェ!」
勇壮な雄叫びを上げ、リスティがトモエに向けて走る。
対するトモエは冷静に近づいてくるリスティを見つめ、刀へと手を伸ばす。
動と静の対峙。
迫っていたリスティが突如として急停止する。
少なくとも観客たちにはそう見えていた。
だが、実際は違う。
居合いと呼ばれる極意、一瞬のうちに刀を鞘から抜き、相手に打ち込んで戻す高速抜刀術の間合いに気付いたリスティが距離を置いたのだ。
「気付かれてしまいましたか」
トモエの冷静な声がリスティに届く。
「あんたみたいなのが一番厄介だってのを忘れるところだったよ」
「見抜かれた以上、二度目はありませんね」
しゃりんと金属の音をたて、白銀の刀身が鞘から引き抜かれる。
「私の間合いは、貴女の武器よりも長く早いものと自負しております」
「そうかよ!」
抜き身になった以上、居合いでの攻撃はありえない。
そう判断したリスティが一気に間合いをつめ、戦棍を振り下ろす。
飛び散る火花と、甲高い金属音。
戦棍の一撃をトモエの刀が受け流す。
「その細っこい刀で、いつまで耐えられるかな!」
二撃、三撃とその形状からは予想外の速度でリスティが戦棍を連打する。
リスティの膂力があって初めて可能となる強烈な一撃、騎士の重甲冑すらゆがませる威力のそれが、さながら雷雨のように激しくトモエに降りかかってくる。
強靭なヒノモトの刀が持ちこたえたとしても、それを手にするトモエの身体がもちそうにない。事実、真っ向から受けず、受け流しているだけでも、衝撃に腕が震えてくる。
長く続けば、トモエに勝ち目はない。
「もう、後がないぜ」
後ずさるトモエの踵が闘技台のふちにかかる。
闘技台からの落下も敗北条件の一つだ。
「後がないのは、貴女の方です」
「な?」
トモエとてただ単に攻撃を受けていたのではない。
リスティの攻撃の流れをよんで反撃の好機をうかがうために、わざと攻撃を受け流していたのだ。
一見すると途切れる隙も無いようにみえる戦棍の猛攻であっても、身体の動きによって一定の流れが生まれる。三回に一回の流れで、振り下ろされる速度が若干遅くなることを見抜き、トモエは反撃に転じた。
カンと小さな音を立てて戦棍がはじき飛ばされる。
「何を?」
リスティが驚いたのは、戦棍をはじいたのが刀ではなかったことだ。
刀なら、力任せにねじ伏せる自信があった。
だが、実際に戦棍を彼女の手から失わせたのは、トモエが左手に持った一枚の護符だったのだ。
「力に驕るもの、己が力に滅ぶ……見切らせていただきました」
武者巫女の巫女たるゆえん、ヒノモトの神々の力を顕現化させる護符により、リスティの戦棍は振り下ろされたのと同じ力で跳ね返されたのだ。
戦棍を手放したリスティの判断は間違っていない。もし、無理に保持しようとしていたら、筋肉は断裂し彼女の手首は使い物にならなくなっていただろう。
「くっ」
リスティが体勢を整え反撃に転じるよりも早く、彼女の首筋をトモエの刀が捕らえる。
死を覚悟し、リスティは目を閉じた。
クイーンズブレイドは真剣試合、死ぬこともありうるのだ。
だが、その瞬間は訪れなかった。
はらりとリスティの服が闘技場の床に落ち、筋肉に支えられた形の良い乳房が衆目の前に露わとなる。
「ごめんなさい。無傷というわけにはまいりませんでした」
「なんだと……あたしをバカにしてるのか?」
「バカになどしておりません。クイーンズブレイドが真剣試合なのは承知の上、貴女の戦棍が私の頭蓋を砕いたとしても、それは私の力が及ばなかっただけのこと」
トモエの真剣なまなざしを受け、リスティは口元を緩めて胸元を隠した。
「それに貴女を殺してしまったら、誰が闘技場の入口をきれいにしてくださるのですか」
「あたしの負けだよ。畜生め」
大番狂わせであったのだろう、リスティの敗北宣言を受け、観衆が大きく騒めき、歓声が地響きのように闘技場を震わせる。
「はーい、勝者は武者巫女トモエ! 負けちゃったリスティはトモエのお願いどおり、しっかりとお掃除してねー」
*
一礼し闘技台から降りていくトモエを見つめる隻眼の瞳。
「武者巫女トモエ……面白い美闘士だ」
闘技場において全ての闘技を一望できる貴賓室。
「余裕、それとも見切り上手か……御前試合を組んでみるのも一興か」
女王アルドラは口元に笑みを浮かべ、手元の羊皮紙にトモエの名前を刻んだ。
陽炎が揺らめく街道を歩く三つの影。
長槍を手にした金髪の美少女エリナと彼女が保護している少年ミシェル、そして大きな荷物を背負って二人の後を追う従者のアイリである。
「そろそろ歩くのにも飽きてきたわね」
エリナのつぶやきにアイリの表情がぱっと輝く。
「そうですわ、そうですわよぉ! 休憩、休憩いたしましょう! ついでに精気もくださいませ!」
「それはダメ」
「なぜですの。街を出てからというもの、これっぽっちも精気を分けて頂けていません、このままじゃ私……消えてしまいますわ」
「消えれば?」
そっけないエリナの言葉に、アイリが頬を膨らませる。
「エリナ様、冷たい、冷たすぎますわ! 私が消えたら誰がエリナ様の荷物を運ぶというのでございますか! そもそも歩くハメになったのもエリナ様の不用意な発言のせいではありませんか!」
アイリの猛烈な抗議にミシェルはうんうんと頷いた。
三人の旅が徒歩になったのは、昨日の事。
乗合馬車の揺れが酷い、他の乗客が臭いなどと他の人から見ればわがままとしかいえないことを言い出したエリナに業を煮やした御者によって追い出されてしまったのだ。
ヴァンス伯爵家の次女を物怖じせずに叩き出した御者の胆力に、ミシェルが思わず関心したのは内緒にしておくことにして……。
「あ、あのう、エリナ様?」
「なによ?」
不機嫌な口調と表情でエリナが答える。
「荷物……たぶん、ぼく一人じゃ持てないと思う」
「むぅ」
わざわざ言われなくてもエリナとてそんなことは理解している。
乗合馬車を追い出されたのは、アイリが言うように自分のせいだ。
貸し切り馬車を確保できなかったアイリの不手際と言いたいところもあるが、従者の不手際は主人の不手際、しっかりと命じていなかった自分にも非があることは間違いない。
「仕方ないわね」
エリナはため息を吐くと、アイリを手招きした。
「エ、エリナ様ぁ!」
荷物を置いてアイリがエリナに駆け寄ってくる。
「こら、がっつくんじゃないの」
近づいてきたアイリを手で制しつつ、エリナは周囲を軽く見渡した。
いくら人気のない街道とはいえ、真昼間から路上で口づけなど破廉恥にもほどがある。
「急がないとレイナお姉さまの手がかりが手に入らなくなるかもしれないから、今回だけ特別よ」
エリナが街道脇の茂みへと歩いていく。
「ミシェル、ちょっと荷物をよろしくね。アイリにご飯をあげてくるから」
「は、はい。エリナ様」
*
「この辺りまでくれば、よろしいかと」
低級霊を駆使し、アイリは街道から自分たちの姿が見えなくなったのを確認した。
木漏れ日の差し込む木立ちの下、周囲を覆う茂みはさながら壁のように視線を妨げている。これなら、何をしようとも街道側から見えることはない。
「そうね……いらっしゃい、アイリ」
「はい、エリナ様」
まるで長らくお預けをされていた飼い犬のように飛びついてくるアイリを、エリナがさっと避ける。
「ひ、ひどいですわ。受け止めてくださらないんですのぉ」
「受け止め切れずに押し倒されそうだったから避けたのよ」
アイリの抗議に反論し、エリナは彼女に跪くように命じた。
「いいことアイリ。精気は私が貴女に与えるものなの。貴女が私から奪っていくものじゃないのよ。そこのところをよく覚えておきなさい」
そう宣言し、エリナは顔を上げたアイリの唇に自らの唇をそっと重ねた。
「ああ……エリナ様ぁ……」
半開きになった唇からアイリがさらなる精気を求め舌を伸ばす。
エリナはそれに応えるように、唇をひらき彼女の舌先を受け入れる。
飢えた獣のようにうごめくアイリの舌を自らの舌先であしらいながら、エリナはそっと唇を離した。
「調子に乗らない」
軽くアイリの頭をこづく。
「あいたぁ」
*
「……遅いなぁ」
街道の脇に荷物を置いて、ミシェルは空を見上げていた。
青い空を白い雲がゆっくりと流れていく。
日差しは暖かく、空気は穏やか。
平穏と表現するのにこれほど適した時間はないだろう。
「誰かを~お待ちですのぉ?」
不意に声をかけられ、ミシェルは背筋をビクンと伸ばした。
誰?
次回に続く
死霊アイリに追われる、気力を回復させる不思議な力がある笛を持つ少年ミシェルを行きがかり上救う形となったエリナ。二人で逃げ込んだ浴場での会話で、偶然にもミシェルの目的地がエリナの探す姉レイナが目指しているというマラマクスであることがわかった。
二人で旅をすることを決めたエリナの前にふたたびアイリが現れる。
とりあえず今日のところは宿を探して、出発は明日にしよう。
宿に関しては浴場で入れ違いとなった美闘士から、良い宿の情報を得ることが出来たので問題はない。
光輝の聖女と称される教会の重鎮が使用する宿だ。
エリナを満足させるサービスは期待できるだろう。
それになりより、そのような人物が宿泊しているとなれば、死霊対策も完璧なはず。
場合によってはアイリをメルファに押し付けてもいい。
死霊対聖女、クイーンズブレイドの公式試合としても問題のない好カードになるだろう。
我ながら良いアイデアね。
満足そうに微笑んで夕暮れの空を見上げた瞬間、エリナは全身から力が抜けていくのを感じた。
「な、なにこれ……」
足元から冷気が上がってくる。
「エ、エリナ様」
駆け寄って来ようとするミシェルを止め、エリナは自分の足元に展開した魔方陣に向け槍を突き刺した。
ぶわっと花びらが風に乗って舞い散るように青白い光を上げ、魔方陣が夕暮れの街角に溶けていく。
「さすがですわね。良い判断です」
足元の影から、メイド姿の少女アイリが姿を現す。
「十分に良いお味ですわ」
指先で唇をなぞりながら、アイリはゆっくりと一礼した。
「ヴァンス伯爵のご令嬢、エリナ様。ひとときお預けしていたミシェル様をお迎えに参りましたわ」
「な、なにをしたの?」
力が全身から激しく抜けていく。
エリナは崩れ落ちるまいと槍をつかんだ。
「精気を頂きました。エリナ様は美闘士ではないのですから、最初からこうするべきだったのですわ」
勝利を確信したアイリは微笑みを浮かべたまま、エリナに背を向けた。
「戦う相手に背を向けるとは良い度胸ね」
「戦う? 御冗談を」
ふふふとアイリは笑い、言葉をつづけた。
「もはや立っているのがやっとなのでしょう? これ以上、私が精気を奪えば、エリナ様は私の下僕になるしかないのですけれど……」
くるりとスカートのすそを翻しながら振り返り、アイリは口元を愉悦にゆがませた。
「それがお望みとあれば、受けて立って差し上げますわ」
「エリナ様!」
「ミシェル、慌てないの」
アイリの向こう側にいるミシェルに向けてエリナは力強い笑みを見せた。
この程度で倒れるわけにはいかない。
まだレイナの行方に関する本格的な手がかりすら得ていない上に、保護を誓ったミシェルの身柄すら守れないなど彼女にとって恥辱以外の何物でもない。
「不意打ちで勝った気にならないことね」
エリナは石突をミシェルに向け、柄を強く握った。
「何を?」
射出された石突が鋼線の尾を引いて、ミシェルの背後にある壁へと突き刺さる。
アイリが戸惑った隙にエリナはワイヤーを巻き取り、一気にミシェルの傍へと移動した。昼間は上方向への高速移動に使った戦法を並行に使用したのだ。
「この子は私が守る」
ミシェルを背後にかばい、エリナはアイリに向けて言い放った。
「うふふふ……立っているのがやっとなのに?」
「あんたに吸われた程度、ハンデとして十分よ」
エリナは強気な態度を崩すつもりはない。
確かにアイリによって精気を奪われた肉体が感じている疲労感や脱力感は、ひとたび気を抜けば崩れ落ちるには十分な物だ。
目の前にベッドがあれば、やすらぎを求めて問答無用に倒れこんでいることだろう。
だが今はそんな場合ではない。
「その気位、叩き潰すのは楽しそうですわね」
鬼火と共にアイリの手の中に鎌が出現する。
「否、叩き潰すのではなく、切り刻んで差し上げますわ」
アイリの鎌がエリナへ迫るまさにその時、奇蹟が起きた。
天上から差し込む一筋の光。
「これは!」
思わずアイリが引き下がる。
死霊としての本能が忌み嫌う天界の輝きだ。
「その闘志、自らの不利を知りながらも庇護したものを守ろうとする覚悟、まさに美闘士にふさわしい!」
頭上から響く天使の声。
見上げたミシェルの瞳に片翼の天使の姿が映る。
「エリナ様、これを!」
アイリがたじろいでいる隙をついて、ミシェルが笛を手渡す。
「吹いて!」
言われるままエリナは笛を吹いた。
手の中で、笛が脈動し大きくなっていくのと同時に、全身を襲っていた疲労感や倦怠感が消えていく。
「エリナ・ヴァンス、汝、美闘士になることを望むか?」
天使の問いかけにエリナは槍を突き上げて答えた。
「よろしい! 審判の天使ナナエルの名において汝を美闘士に任命する!」
エリナの正面で、美闘士の紋章がかがやきだす。
「良い試合を! 楽しませてちょうだい!」
楽し気なナナエルの声が響く。
試合を監督する天使にとって、個々の勝敗などどうでもいいようだ。
「今度はこっちから公式試合を挑ませてもらうわ!」
笛をミシェルに返し、エリナはアイリに向けて叫んだ。
「望むところですわ!」
アイリの正面にも、美闘士の紋章が浮かぶ。
「両者、試合を受諾! 望みを宣言せよ!」
公式試合の敗者は勝者の望みをかなえねばならない。
「私の望みは単純なのものですわ」
鎌を手にアイリが先に宣言する。
「ミシェルを助けないこと」
アイリの目的はあくまでもミシェルの確保だ。
エリナを倒すことではないし、下僕にする必要もない。
「私は……」
どうしたものか。
エリナには、アイリに対しこれといった望みはない。
強いて言うなら、ミシェルを狙わないことぐらいなのかもしれないが、アイリのような手合いは手を変え品を変え、解釈を変えてしつこく迫ってくるものだ。
「ほらぁ、悩んでないで早く決めて~」
ナナエルが急かしてくる。
「んーーーー、勝ってから考えるわ」
とりあえず保留。
却下されたら、その時は思いついたものを言えばいい。
それぐらいのノリでエリナは宣言した。
「そ、そんなのアリですの?」
アイリが目を丸くする。
エリナの望みは前代未聞の提案だ。
「こんな後出し、承認されませんわよね!」
上空のナナエルに向けて抗議するアイリ、だが彼女は無情にも微笑を浮かべ……。
「あ~、もう、時間も少ないし、めんどくさいし、クイーンズブレイド開始!」
エリナの望みは承認された。
「くっ! なんていい加減な天使ですの!」
「決めるのは私!」
アイリの抗議を一蹴し、ナナエルは大きく胸を逸らせ手を広げる。
「さあ、良き戦いを見せて! 美闘士たちよ、もてるすべてを惜しみなく見せ、死力を尽くし戦うがいい! クイーンズブレイドの戦いを!」
ナナエルの宣言と同時に、二人の紋章がお互いに吸い寄せられるように近づき、衝突し、光をまき散らしながら消滅していく。
「見てなさい、コテンパンにしてあげるから」
負ける気など微塵も感じていない強さを胸に、エリナはミシェルに向けてウィンクをすると、手にした槍を軽く一閃させた。
何もない空間にバチッと火花が飛び散る。
「牽制にもなってないわよ」
開始と同時に死角を狙って飛ばした人魂をエリナは難なく排除すると、アイリに向けて槍をまっすぐに突き出して突貫した。
「早いッ」
思わずアイリが口にするほどエリナの攻撃速度は素早いものだった。
並の美闘士が一手を繰り出す間に、エリナは二手以上どころか五手、六手と繰り出してくるのだ。
通常の三倍どころの騒ぎではない。
それはすなわち、相手の攻撃を完全に見切ったうえで、攻撃をしかけることが可能だということ。
だが、アイリとてただの美闘士ではない。
死霊としての能力を駆使し、勝ちを収めてきたのだ。
しかし、今回は勝手が大きく違っていた。
攻撃用の人魂が召喚できない上に、いつもよりも身体の動きが重たいのだ。
呼び出せるのは牽制用の弱い鬼火程度の人魂。
これでは勝利を得るのは難しい。
この街にしかけられた結界がアイリに対して不利に働いているのだ。
地の利を失い、自らの能力を十全に発揮できない状況では、いかに強い美闘士といえども勝てるものではない。
結果は火を見るよりも明らかだった。
エリナはアイリの攻撃を完全に捌ききり、一太刀も触れることを許さなかった。
「なんだ。意外と弱いんじゃない」
数々の偶然がエリナに対して有利に働いていた。
これはもはや天運といっても過言ではない。
ただの武器では死霊を傷つけることは出来ない。
本来、死霊に傷を負わすことが出来るのは、教会で聖別された武器か、銀をはじめとする魔力を帯びた鉱物で加工された武器だけだ。
そして、エリナが使用して槍は鋼鉄山の特殊鉱物であるミソチル鉱で加工されたこの世界に二つと存在しない業物ある。
アイリにとって有利となる点は一つもなかった。
「そんな……私が負けるなんて……」
絶望を浮かべ、アイリは懸命に致命傷を避けつづける。
ほんの一瞬が命取りだ。
エリナの一撃を紙一重でかわすたびにメイド服が避け、肌が露わになっていく。
もはや衣服としての原型をかろうじてたもっているだけだ。
「そろそろ終わりにしましょ」
エリナは宣言と同時に槍をまっすぐに構えた。
「ヴァンス流槍闘術、奥義「龍星」とくと味わいなさい」
かつて創始者が龍を討つために編み出した一撃。
ヴァンス伯爵家がお飾りの貴族ではない証をもって、エリナは戦いに決着をつけた。
「勝者、エリナ!」
天使の声が高らかに響く。
「さあ、要求を!」
勝ってから決めると宣言した以上、アイリになんらかの要求をしなければならない。
エリナは高速で思考を始めた。
先ほど保留しているため、ナナエルもそう待ってはくれないだろう。
「精気をあたし以外の人物から吸うことを禁じます」
エリナは背筋をまっすぐに伸ばし、堂々と胸を張って宣言した。
浴場で出していた結論に基づく判断だ。
野放しにするぐらいなら手元において監視する。
精気を自分以外から吸えなくすることで、管理も容易となる。
奪われた精気はミシェルの笛で補填できるのだから、エリナは何も失うものはない。
「どう? 私の願いをかなえてくれる?」
エリナの言葉にアイリが唖然とする。
だが、逆らうわけにはいかない。
勝者の命令は絶対だ。
無視すれば、この公式試合を宣言したナナエルを相手に戦うことになる。
見事勝利を得られればエリナの願いを無効にできるが、敗北すれば美闘士としての資格を失うだけでなく最悪この世から消えてなくなってしまう。
エリナとの戦いで消耗した今、ナナエルとの戦いで勝機をつかむのは不可能に近い。
「受諾……しますわ」
アイリは唇を噛んでエリナの条件を受け入れた。
*
精気の吸収先を制限されるのはアイリにとって望ましいものではない。
かといって美闘士の資格を失うのは、主人からの命令を実行するうえで最も避けなければならない事態だ。
エリナはミシェルを保護すると宣言した。
それは彼女がミシェルの目的に協力するということでもある。
つまり、エリナの傍にいることができれば、主人からの命令を実行することが出来、なおかつ美闘士の資格を失わずに済む。
場合によっては精気を奪いつくしてしまえばいい。
エリナが死んでしまえば願いは無効だ。
ここまで考えた上で、アイリはエリナの願いを受け入れることにした。
当初の策とはちがってしまったが、アイリにとってそれほど悪い条件ではない。
「受諾……しますわ」
「よくできました」
エリナがにっこりと笑い武器を収める。
「じゃ、あたしはこれで! あんた、新人にしちゃあなかなかやるじゃない。これからの活躍に期待してるわよ」
アイリが勝者の条件を受け入れたことを確認し、ナナエルが去っていく。
「こちらに来なさい。ほら、精気を分けてあげる」
エリナが差し出した手に、アイリは思わず喉をならした。
彼女の指先が光り輝いて見れる。
精気に満ち溢れた命の輝き。
「気が変わらないうちに受け取っておきなさい」
エリナに誘われるままアイリは跪き、その手に口を付けた。
一瞬にしてボロボロになっていたメイド服が再生され、アイリの瞳に精気が戻る。
「では、ご主人様、指示をいただきたく存じます」
丁寧に頭を垂れるアイリ。
「顔を上げて」
言われるまま顔を上げたアイリの首に、エリナは鎖のついた首輪を巻き付けた。
シャリンと金属音を立てて鎖がアイリの胸元に垂れる。
「こ、これは……」
「従属の証よ。これでアンタは私の奴隷ってわけ」
アイリの指先が首輪をなぞる。
「無理に外そうとすれば、きゅっと締まるし、鎖は重くなるからそのつもりで」
「わかりました……」
目論みが外れたことを表情に出すことなく、アイリは鎖に手を伸ばした。
この首輪がエリナの言う通りのものだとしたら、解除できるのは彼女だけ。
これでは、エリナを亡き者にして自由を得るということはできない。
「で、指示だけど、まずは目的地を知らせておくわ」
エリナは深く息を吸い込むと、一拍おいて口を開いた。
「マラマクスを目指すわ」
「マラマクス?」
「そう、そこを目指して旅をしているのよ。貴女にも付き合ってもらうわ」
「かしこまりました」
「その前にまずは……もう一度、お風呂かしら、汗かいちゃったし」
*
翌朝、シェルダンスの正門前に三人の旅人の姿があった。
「さあ、がんばって運んでちょうだい」
「え、えええ?」
アイリが後ずさる。
彼女の前にあるのは、一人で背負うには大きすぎる量の荷物だ。
「私とミシェルの分の旅支度よ。従者が運ぶのは当然でしょ」
「う、うわあ……着替えに食料……人間って不便なのですわねぇ」
死霊であるアイリは旅支度など必要としない。
「あ、良い考えが浮かびましたわ」
「聞いてあげるわ。言ってごらんなさい」
「エリナさま、いっそのこと死霊になりませんか? そうすればこんなに荷物がなくても旅ができますよ」
「却下にきまってるでしょ。冗談はメイド服だけにしておきなさい」
エリナがアイリの頭を軽く叩く。
「あ痛ぁ!」
その様子に、ミシェルがクスクスと笑う。
この先で何が待つのか。
エリナは見事、レイナを見つけ出せるのか。
ミシェルは何者なのか。
アイリの真の目的とは。
三者三様の思惑を胸に、マラマクスを目指す三人の旅が、いま始まる。
Episode 1 終わり
姉レイナを追って旅に出たエリナは、死霊のアイリに追われる少年ミシェルと出会い、“支配する者のつとめ”として、共に逃げることとなる。
身体を回復してくれる不思議な力のある笛を持つミシェルはレイナと同じ目的地に向かうことを知ったエリナは、彼からもっと詳しい話を聞こうと浴場へ誘う。
しかしミシェルの笛は、彼の身体と感覚を共有する神秘的な道具であった。
「完全に見失いましたわ」
人気のない裏路地で、アイリは悔し気に爪を噛んだ。
見た目こそ可憐な少女そのものではあるがアイリは死霊である。
その能力を完全に発揮すれば、ミシェルを追うことなど造作もないはずだった。
だが、そうはならなかった。
この街に入るや、追跡用の低級霊を召喚することが出来なくなったのだ。
これは、現在この街に滞在している光輝の聖女メルファが施した結界によるものであるが、それをアイリは知る由もない。
また彼女自身は美闘士であるがゆえに、結界の影響を受けずに済んでいる。
そのため、なぜ人魂たちを行使できないのか、アイリには理解ができないのだ。
「これはいけませんわ。まったくもって、よろしくありません」
つぶやいた後でアイリは目を閉じて意識を集中した。
ミシェルを連れ去った女の装備、衣装を思い出す。
特注品の槍に、品の良い衣装、旅装束を所持していないということは、この街の住人もしくは、旅に必要な装備をいつでも手に入れることが出来る立場にある存在ということだろう。
あの傲慢な口調から、アイリは後者であると推測した。
となれば、貴族階級にある人間が激しい運動を行った後に向かうべき場所を押さえれば、ミシェルの居場所も特定できるはずだ。
「方針が決まりましたわね」
*
肌をなでるむあっとした湿気と鼻孔をくすぐる心地よい香り。
目隠しをされているので、周りの景色こそわからないが、ここが何を目的にした施設なのかはミシェルでも理解できた。
旅人が疲れをいやし、戦いを終えた美闘士たちが緊張をときほぐすための公共施設。
浴場というやつだ。
この種の浴場は混浴が基本であり、ミシェルとエリナが同じ浴室に入ることはなんら珍しいことではない。
「足元、気をつけなさいよ」
ミシェルの手を引きながら、エリナが注意を促してくる。
「う、うん……ありがとう」
浴場の床に敷かれたタイルの目は細かく、滑りやすい。
慎重に歩かなければ、転んでしまうかもしれない。
「そこから湯船だから、ゆっくりとね」
先を進むエリナの方向から水音が聞こえてくる。
ミシェルは導かれるままに足を進め、湯船の中へと入った。
「ふうーっ、気持ちいいものね」
エリナの言葉に同感しつつ、湯船の中で浮かび上がりそうな腰布を抑える。
「さて、ちょっと整理しましょうか」
湯を手を軽くかき混ぜながら、エリナはもじもじとしているミシェルに視線を向けた。
しっかりと少年らしい体つきをしている。
脱がしてみたら女の子でした、なんてことはなかった。
となると腰布の下、男性としての部位が気になってくる。
知識と実際のすり合わせをしたいという欲求はあるのだが、それをあからさまに口にするような破廉恥な真似は貴族の息女としてできるはずがない。
目隠しされているミシェルが、こちらの視線に気づかないことを幸いに、エリナは彼の裸体を鑑賞しながら話をつづけることにした。
「まず、ミシェル」
「はい」
「記憶喪失なのよね。自分がどこの誰かも、親兄弟家族、暮らしていた場所も思い出せない」
「はい。覚えているのは名前と……あの笛のこと、そして美闘士をつれてマラマクスへ行くという使命だけです」
「アイリに襲われる理由は?」
「わかりません。その……最初は助けてくれたのかなって思ったんですけど……」
「けど?」
「彼女の手に触れた瞬間、ものすごく危険な感じがしたんです。上手くは言えないんですけど……連れていかれたら最後だ。みたいな感じの」
ミシェルが感じたのは本能的な恐れだ。
「そうしたら、彼女……死霊だったわけで」
「うん、それは正しい判断ね」
「で、とにかく逃げなくちゃと思って……そしたらエリナ様にぶつかって、アイリの時とは違って、暖かいというかやわらかいというか……」
ミシェルが何かを思いだすかのように手を動かす。
「えっと……気持ちよかったです」
「そっちは忘れなさい」
エリナの頬が赤くなったのは湯のせいだけではない。
「そして、現在に至るというわけね」
ふーんと気のない返事をしながら、エリナは空を仰いだ。
周囲をのぞき防止用高い柵に覆われているものの、露天風呂は心地が良い。
ちょっと考えをまとめてみる。
「マラマクスに連れていくのは美闘士じゃないといけないのかしら?」
「たぶん、そうだと思います」
なら、美闘士ではない自分は失格だ。
しかし、レイナ姉様なら問題はない。
笛を手がかりにマラマクスに近づけば、レイナ姉様にも近づける。
笛とミシェルを狙ってくるアイリが問題だが、笛の効能を考えれば対処は可能だ。
疲労を回復する能力を駆使すれば、持久戦で勝利を得るのは難しいことではない。
美しさの欠片もないが。
「よし、決まったわ」
ザバッと湯船から立ち上がったエリナの身体が湯しぶきが飛ぶ。
レイナ姉様と合流するまで、ミシェルと共に行動すれば良い。
それがエリナの出した答えだった。
「わわわっ」
「あたしは支配する者の務めとして、保護を求めてきた平民ミシェルの身柄を守ることを宣言するわ」
「え?」
「だから、もう逃げなくてもいい。アイリが襲ってきたら返り討ちにしてあげる」
自信に満ち溢れた口調でエリナは告げた。
「大丈夫よ。あたし、強いんだから」
*
「聖なるポーズって難しいよね」
「当たり前です。厳しい修行と信仰をもって初めて習得できるものなのですよ。見様見真似で出来るものではありません」
通りでの公式試合を終え、メルファとノワは戦いの汗と埃を落とすべく、浴場へとその姿を現した。
試合は双方共に決定打を欠き、時間切れの引き分け。
それでも良い経験になった。
ノワは聖なるポーズに興味を持ち、メルファはエルフたち(ノワはハーフエルフなのだが)の宗教観が気になり、お互いに話をしようという流れになったのである。
「ここで、衣服を脱いで浴場へ向かうのですよ」
街のルールに疎いノワをメルファがサポートする。
この娘、油断したら街の噴水で行水をしかねない。
周囲の視線など気にもせずに、全裸になりかねないことが容易に想像できた。
「なるほど、わかった」
言うが早いか、すぱすぱと衣服を脱ぎ落していくノワ。
「ああ、脱いだものはきちんとたたんで、こちらの籠へ」
メルファが籠に手を伸ばした瞬間、何かがことんと滑り落ちてきた。
「ひゃっ」
思わず驚いて一歩退く。
「あはは、メルファは怖がりだなぁ」
ノワは無造作に落ちてきたものを手に取った。
「ただの笛じゃない」
そういってノワはおもむろに笛に口を付けた。
*
「ひゃうっ」
突然の刺激にミシェルは思わず声を漏らした。
「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもないです」
この感覚には覚えがある。
笛が、誰かに咥えられているのだ。
だが焦る必要はない。
感触から、咥えているのは死霊ではない。
持っていかれることがなければ、このまま耐えていれば問題はないだろう。
今は、エリナの厚意と決断に感謝をしなければ……。
*
「これ、壊れてるよ。音でないもん」
ノワが何度も息を吹きいれてみるも、笛が音色を奏でることはなかった。
「見た目がきれいでも、音が出ないんじゃ意味ないじゃない」
興味を失ったノワが笛を放り投げる。
「だ、ダメですよ」
たとえ壊れていたとしても、造形の見事さ、装飾の繊細さから言って、かなりの値打ちの物と見受けられる。
粗雑に扱うわけにはいかない。
メルファは慌てて笛を受け止めようと手を伸ばした。
「あらぁ」
ばしっと指先で笛がはじける。
「きゃ! そんな!」
再び空中へと跳ねた笛が、メルファの柔らかい谷間を目指し落下してくる。
手を伸ばしている余裕はない。
「えいっ!」
メルファの決断は早かった。
笛を胸で挟み込み、床に落ちるのを防いだのだ。
「ふう……」
「お見事! ノワにはできない芸当だね!」
「芸ではありませんっ」
唇を尖らせながら、メルファは笛を落とさないようにそっとやさしく胸の谷間から引き抜く。
「と、とりあえず、持ち主がいるかもしれませんから、きれいに洗って戻しておきましょう。ね、そうしましょう」
「う、うん……ノワも手伝うよ」
*
「大丈夫よ。あたし、強いんだから」
エリナがそう宣言するや、繊維の荒い布の目隠しで覆われていたミシェルの視界がまるで霧が晴れるかのように、うっすらと開けてきた。
ぼやけてはいるものの、エリナの鍛え上げられた、それでいて過度に筋肉質ではない柔らかな肢体が見えてくる。
しかも、どこも隠してはいない。
エリナ本人はミシェルが目隠しされていて、見えていないと思っているのか、彼の目の前で大胆な姿勢を気にもとめずに取っている。
ごくり。
ミシェルは思わず喉を鳴らした。
「どうしたの? のぼせちゃったかな」
エリナが近づいてくる。
目の前に腰が、下腹部が、さらにはゆっくりとかがんで胸の谷間が見えてくる。
「あ、あう……」
その瞬間、ミシェルは自分の身体の異変に気付いた。
下半身に不思議な感覚が押し寄せてきている。
やばい……これは、やばい。
「どうしたのよ?」
*
それにしてもなんという美しい造形なのだろうか。
ノワと共に笛を丁寧に洗いながらメルファは思わずため息を漏らした。
惜しいものですね。
さぞや美しい音色を奏でたであろう笛も、このままではただの工芸品でしかない。
「あら?」
形が変わっている?
気のせいだろうか……。
ノワが初めて手に取った時、胸で受け止めた時、そして今……。
微妙に大きさが変わっているような気がする。
そう思いながら指先で装飾をなぞった瞬間、びくんと脈動するように笛がわずかに大きくなった。
「え?」
「大きくなったよ」
メルファの疑問を一緒に洗っていたノワが言葉にする。
やはり、魔力の籠った品物だったのか。幸いにして、邪悪な気配は感じられない、メルファとしては好ましい聖遺物に近い気配がする。
とはいえ、今はノワもいる。
自分から無用なトラブルを抱え込む余裕はない。
「この笛の主に聖なる加護がありますように」
メルファはその豊満な胸に石鹸を泡立てると、笛を胸の谷間を使って丁寧に洗い始めた。
*
「どうしたのよ?」
湯船の中でもじもじと身体を動かすミシェルの前へと、エリナは無造作かつ無遠慮に近づいて行った。
目隠しはしてある。
パッと見てずれたりしていないことを確認し、軽く微笑む。
エリナは彼の眼前で、わざとらしく腰を突き出してみたり、尻をかるく回してみたりしてみた。
見えていないのだから、隠す必要もない。
我ながら大胆になるものだ。
「返事ぐらいしてくれてもいいんじゃないかしら」
前かがみで近づき、ミシェルの表情を確認してみる。
なんとなく困ったような、恥ずかしがっているかのような微妙な表情だ。
「そりゃあ、私は美闘士じゃないけど、無視っていうのはないんじゃないの?」
「あ……あう……その……」
ミシェルの頬が赤く染まっている。
「熱でもあるの?」
吐息がかかるぐらいにまで顔をよせ、額に手を当てる。
暖かいのは湯のせいだけではなさそうだ。
「いや……その……そういうわけじゃ……はぅっ!!」
もごもごと口ごもりながら、時折、奇声を発する。
歯切れの悪いことこの上ない。
「湯あたりしちゃったかな? まあ、汗を流せたし、そろそろ上がりましょうか」
「そ、そうだね」
エリナの提案を受け、これ幸いとミシェルが立ち上がる。
「きゃあっ」
ミシェルを避けようとした足が滑り、エリナは思わず近くにあるものに手を伸ばした。
布越しに感じる固い棒のような感触。
「え?」
「あう……」
くぐもったミシェルのうめき声にも似た叫び。
エリナがつかんだのは、ミシェルの腰に巻き付けていた布のはず。
布がこんなに硬いはずはない。
感触としてはミシェルがもっていた笛に近い。
無意識にそむけていた顔を戻し、エリナは自分が何を掴んだのかを確認した。
「あ……」
言葉がつげない。
エリナがつかんだのは、ミシェル自身とでもいうべき部位。
男性を男性たらしめている場所だったのだ。
エリナの本能が、ミシェルを男性として認識する。
たちまち鼓動が高まり、顔が紅潮してくるのがわかる。
おちつけ!
おちつけ、私、こんなの大したものじゃないわ!
自分に言い聞かせながら、指先に視線を向け、エリナは自分がつかんでいるものの感触に驚いた。
貴族の息女であるエリナは基本的に超箱入り娘である。
家族以外の異性と会話するのは、公務ぐらいなもの。
たまに機会があったとしても、相手はこちらの身分を熟知していて、距離をおいたものとなるのが常であった。
男性自身を目撃する機会などあろうはずがない。
今までの人生を振り返っても、思い出せるのはたまたま偶然目撃した父親のものぐらいなものだ。
こういうときはどう対応すればいいの?
エリナは混乱した思考の中で、最速で答えを出した。
何もなかったことにすればいい。
エリナは深く息を吐くと、ゆっくりと手を放した。
「ま、まったく……目隠しのせいで見えてないんだから、急に動かないの」
平静を装ってミシェルを叱りつけ、エリナは一足先に湯船から出ようと歩き出す。
「ちょっとまって……」
「なによ?」
「目隠しのせいで、出口が見えないんだけど……どっちにいったらいい? それとも、これ、はずしていい?」
「良いはずないでしょ」
エリナは棒立ちになっているミシェルの手を引いて歩き出した。
腰布を乱れさせている彼の下半身を極力見ないようにしながら。
次回に続く
切なげな吐息がこぼれる。
声を漏らしているのは後ろ手に縛られ、上体の自由を奪われた下着姿の少女。
豪奢なレースで覆われたその乳房は大きすぎず、かといって小さくもない絶妙なバランスの美しさをもち、くびれた腰とその先へと続く見事な尻の曲線と相まって、魅惑的な肢体を作り出している。
普通の男性なら、この肉体を前に己を抑えることは難しいであろう。
少女が身体をくねらせるたびに、首輪につけられた鎖がシャリンシャリンと楽器のような金属音を立て、その存在を主張する。
「お、お願いです……あれを……あれをください」
少女の嘆願と同時に、乳房を覆っていた布がまるで風に舞う花びらのように淡く輝きながら消えていく。
残されているのは、豊かな丸いヒップを覆う小さな布地と首輪から垂れた鎖だけだ。
「あれじゃ、わからないわね。アイリ」
衣服の消失に伴う輝きに照らされながら、エリナは床に転がり無様な姿をさらすアイリに答える。
薄暗い部屋の中にあって、アイリの身体がぼんやりと青白く輝く。
この輝きこそ、彼女が人外の存在、死霊であることの証明。
アイリが、この世界で生きていくために必要な精気が不足すれば、体調も悪くなり、衣服の維持もできなくなって、やがては消滅することになる。
残るのは従属の証としてエリナから与えられた首輪と鎖だけとなるだろう。
いま、アイリは消滅の瀬戸際にまで追い込まれているのだ。
「ほらぁ、答えなさい。なにが欲しいの?」
「精気が……精気が欲しいです」
「それだけ?」
「お、お嬢様の……エリナ様の精気を分け与えてください……」
床から潤んだ瞳でエリナを見上げ、アイリは懇願した。
このまま精気を得ることが出来なければ、夜明けを迎える前に間違いなく消滅してしまうことだろう。そうなれば使命を果たすことは不可能になる。
「ただの精気じゃないでしょ?」
淡々と冷静に冷たい口調でアイリに告げ、エリナはつま先を彼女の眼前へと伸ばす。
手が使えなくとも、舌を延ばせば届くぐらいの距離だ。
「エリナ様の瑞々しい精気を……ください……」
近づいてくるアイリからエリナがそっとつま先を離す。
お預けをくらった飼い犬のように、アイリの表情が曇る。
精気を「奪われる」のではく「与える」ことで、お互いの立場を明確にするのがエリナの目的だ。
そのためにクイーンズブレイドでの勝利条件として、他者から精気を得てはならないと誓わせたのだ。
「まだよ」
「そんな……もう、限界です……」
「貴方の限界はその程度なのね……がっかりだわ」
嘲笑しつつ、エリナはゆっくりと右足の装身具を外した。
「犬の方が我慢強いかもしれないわね」
鍛えられた筋肉を内包した美しい足が、夜気の中で無防備に晒されていく。
「アイリ、貴方は何者?」
「私は……」
アイリの表情から躊躇を読み取ったエリナが足を止める。
「貴方の主人は誰? 目の前にいるあたし? それともここにいない誰か?」
これは試しだ。
アイリ自身に忠誠を誓う相手を選ばせることで、立場を明確にする。
エリナが知る由もないアイリの「本当の主人」に忠義立てして消滅するというのなら、それはそれで構わない。
多少の愛着はあるものの数日もすれば、そんな相手もいたわねと思える程度の存在でしかない。
今のところは……。
「あたしは寛大だから、もう一度だけ聞いてあげる」
冷たい眼差しをアイリに向け、エリナはすっと立ち上がった。
「貴女は何者?」
「わ、私は……」
ごくりとアイリの喉が鳴る。
「私はエリナ様の奴隷です……エリナ様の精気なしでは生きていけない存在です……だから……精気を、分けてください」
息を細かく継ぎながらアイリは自分が下僕であることを認めた。
何かの枷が外れたかのように、アイリの身体を守っていた最後の一枚が消えていく。
このまま精気を得ることが出来なければ、次に消えるのはアイリ自身だ。
アイリの宣言を聞いてもエリナは動こうとしない。
「エリナ様、はやく……」
這いつくばったまま、首輪と鎖だけを身に着けたアイリがにじり寄ってくる。
「まだ……足りないわね。衣服と共に礼儀まで消えてしまったのかしら」
冷たく言い放ち、くるりと踵を返して、エリナはベッドへと腰を下ろす。
「メイドでしょう? 何が足りていないかはわかるはずよ」
主人としての威厳を見せつけつつ、エリナは助け船を出した。
使える下僕をむざむざ失うのは勿体ないというものだ。
エリナの言葉にアイリはハッと顔を上げた。
「お願いします。エリナ様、卑しいメイドに精気を分け与えてください」
「そうね。お願いしますって言葉は大事よ」
エリナがすっと足を延ばす。
「奴隷に餌をあたえるのも、支配する者の務め。存分に味わいなさい」
両手を縛られたアイリが、エリナのつま先へと舌を這わせる。
「あっ……」
しびれるような微かな感触に、エリナが声を漏らす。
「ふふふ……美味しい……美味しいですわ、エリナ様」
アイリの舌がエリナのつま先を丹念に舐め回しながら、精気を吸収していく。
肌の色が活力に満ち溢れていくのが、薄暗い中でもはっきりと理解できる。
心地よい脱力感に身を震わせていることを悟らせないように、エリナは身を固くした。
「あら? 感じてますの?」
「バカなことを言うんじゃないわよ」
エリナはアイリの髪をつかんで引き離す。
あくまでも主導権を握っているのはエリナでなくてはならない。
だが……。
(意外と、気持ちいいんじゃないの?)
苦痛を伴うのではないかと思っていただけに拍子抜けなところもある。
「ここで止めてもいいのよ?」
エリナの言葉にアイリの表情が強張る。
アイリの精気吸収はまだ十分には程遠い。
衣服もまだ一部しか再生できていないのだ。
「ちょ、調子に乗っておりましたわ。申し訳ありません……」
「いいわね。その態度」
エリナはにやりと微笑むとアイリの頭を離した。
「ひゃうっ!」
バランスを崩したアイリがエリナの太ももの間に崩れる。
「さあ、言いなさい。私から精気をもらえる感謝の言葉を」
「…………」
アイリの表情に迷いがあることを見抜き、エリナは半歩ほど引き下がった。
まだ心の底からこちらに忠誠を誓っているわけではない。
形だけの忠誠でも言葉にするのには躊躇いがあるようだ。
「エ、エリナ様」
「貴女の主人は誰なの? 私が精気を与えなければ、貴女はどうなるのかしら」
アイリの口元でつま先を揺らしながら、エリナが尋ねる。
「まあ、貴女が消えてなくなろうと私にはどうでもいいんだけど」
「わ、私の主人は……」
「主人は?」
「エリナ様です……」
躊躇いながらもアイリはエリナが主人であると言葉にした。
言葉だけでも、あえて口にすることに特別な意味がある。
「じゃあ、主人としての勤めを果たさないとね」
エリナは微笑みながら、つま先をアイリの口元へと向けた。
「ん……あっ……」
エリナの舌が指先から足首、ふくらはぎを経て、太ももへと伸びてくる。
「ほらほら、がっつくんじゃないの。はしたないわね」
「だって……エリナ様の精気があまりにも美味しいんですもの」
アイリの声には先ほどまでの弱々しさはない。
精気を得たことで、普段の調子を取り戻している。
「エリナ様も、気持ちよかったら声を上げていいんですよ」
吐息を吹きかけながら、エリナの柔らかい肌を舌でなぞっていく。
「むしろ、声を上げてくださったほうが、私としては精気がおいしくなるのでありがたいのですけれど」
アイリの舌がふともものさらに奥、足の付け根へと迫る。
精気の吸収効率は体内に近い部位、生殖器や唇などの部位の方が圧倒的に高い。
「調子にのるんじゃないわよ」
それ以上を許すつもりはない。
エリナはアイリの頭をぐっと抑えつけた。
「主人が下僕に奉仕することはないのよ」
快楽に飲まれるつもりはこれっぽっちもない。
興味がないわけではないが、今はその時ではない。
「エ、エリナさまぁ……」
残念そうに、さらなる精気を要求するアイリの鎖を手に、エリナは立ち上がった。
「口を開きなさい」
足元で跪いていたアイリが言われるまま、顔を上げ口を開く。
「良い子ね。ご褒美をあげるわ」
エリナは自らの唾液で濡らした指先でアイリの唇をなぞった。
赤い唇が艶めかしく濡れていく。
「あん……」
アイリの舌がエリナの指先を追って、妖しくうごめく。
「そんなに欲しいの? はしたないわね」
指先を口の中へと差し入れると、アイリはためらうことなく唇を閉じ、むしゃぶりついてきた。
「エリナさまぁ……もっとください……」
「仕方がないわね」
エリナは指を引き抜くと、上から覆いかぶさるように自らの唇をアイリの唇に重ねた。
先の項よりさかのぼること数週間前
夜であっても、エリナの室内は昼間のように明るい。
光源となるランプと、光を反射する鏡。
いずれも高価なものが、惜しみなく部屋を飾っている。
豪華な調度品の数々に交じって、無粋ともとれる布袋が部屋の片隅に置かれていた。
無骨な布袋の中身は、長旅に必要な物。
衣食住を補うための物品が収められている。
あとは移動手段さえあれば、いつでも旅を始められるだろう。
準備は完璧だ。
本当に必要なものは、それらを用意する資金なのだが、これもまたエリナには簡単に用意することができる。
なぜなら彼女は大陸を二分する巨大勢力、ヴァンス伯爵家の第二後継者なのだから。
問題はどこからこの巨大な城を出て行くかだ。
外敵の侵入を許さぬ堅牢な伯爵城、裏を返せば脱出もまた同じぐらい難しいということでもある。
まして、エリナの部屋は最上階である。
姉であるレイナの出奔を受け、ロープの代用になりそうなものは父の命令で撤去されてしまった。
窓も開かないように、職人の手で封じられている。
「お父様は何を恐れていらっしゃるのかしらね」
窓の外に広がる夜景に目を向けながら、エリナはため息を吐いた。
眼下には湖畔に広がる城下街と領土を守るための長城、さらに遠くには支城のかがり火が見える。
視界に映るものすべてが、彼女の父親が統治する世界だ。
この世界にレイナの姿はない。
「やはり後を追うのか」
夜景を見ていたエリナの背後から声がかかる。
「もちろんですわ」
エリナは振り向きもせずに声の主、義姉であるクローデットに応えた。
「第一後継者たるレイナ姉様を連れ戻すのは、支配する者としての務めです」
人払いを済ませたエリナの私室に堂々と入ってこれるのは、この地の支配者ヴァンス伯爵と義理の姉である彼女だけだ。
「支配する者の務め……おぬしの口癖だな。しかし、それが本当の理由ではあるまい」
「ふふ。それにしてもよくおわかりになりましたわね」
エリナの旅支度は極秘に進められていた。
知っているのはエリナ本人と彼女の腹心ともいうべき侍女の二人だけだ。
仮に父が部屋に入ってきていれば、あっさりと気付けたかもしれない。
だが、父がエリナの部屋を訪れることはありえない。
用事があったとしても、執事や家令を通じてエリナを呼びつけるのが常だ。
「どこから情報が漏れたのかしら? 場合によってはあの娘に罰を与えないといけないかもしれないわね」
今も隣室で待機しているであろう侍女を思い浮かべ、エリナはため息を吐いた。
口の堅い娘だが、父親やクローデットに命じられれば、知らぬ存ぜぬを突き通すのは難しいだろう。
「調べるまでもない」
クローデットが少し寂しげにふっと笑う。
「レイナを誰よりも慕うおぬしが後を追わないはずはないからな」
エリナの世界にレイナしか存在しないことをクローデットは誰よりも知っていた。
「わたしにも立場というものがある」
長女であるクローデットは妾腹という立場であり、継承権をもってはいない。
この地に残った継承者であるエリナまで出奔したとあっては、領内の混乱は避けられないだろう。
「おぬしが出奔しないように目を光らせておけと伯爵からも言われているのでな」
「そうでしょうねぇ……でも、姉様を見つけることができるのはあたしだけなのよ」
「言い切るものだな」
「当たり前でしょ、その証拠にお父様が金で雇った連中はいまだに姉様の居場所をつかむことすらできないじゃない」
「心当たりでもあるのか?」
「あるわ!」
エリナはきっぱりと断言した。
「有象無象の追跡者ごときに遅れをとる姉様じゃないわ。そのことはクローデット義姉様もご存じのはずよ」
ヴァンス伯爵家は尚武を重んじる家系だ。
長女であるレイナ、次女のエリナといういわゆる姫君であっても、一流の使い手と互角以上の武術を身に着けている。
エリナの言葉にクローデットも頷くしかない。
大人しそうな姫君の見た目に反し、レイナが身に着けた様々な技術は一軍を率いる将に任ぜられたクローデットも舌を巻くほどのものだった。
「だから、あたしが探さないとダメなのよ。クイーンズブレイドの掟とやらで、どこの誰ともわからない下賤な女にへんてこな約束をさせられる前にね!」
自信満々にエリナは宣言した。
エリナの卓越した技量もまたレイナと互角、勝るとも劣らぬものであることをクローデットもよく知っている。
「おぬしの決意はよくわかった。だが、知っていて止めなかったでは、父上に顔向けができない」
そう言ってクローデットは一振りの槍と、一本の酒瓶をエリナに見せた。
「それは?」
エリナの目が槍を注視する。
「武器屋カトレアに作らせた特注品だ」
大陸でも業物を生み出す鍛冶屋カトレアの名はエリナもよく知っている。
「わたしからの選別だな」
「選別ってことは?」
「止めても行くのはわかっている。おぬしたちの玉座はわたしが温めておくとしよう」
クローデットは寂しそうにほほ笑むと、酒瓶をテーブルの上に置いた。
「そっちは?」
エリナは酒瓶を指さした。
実はクローデットは酒に弱い。質実剛健、文武両道、才色兼備の完璧女将軍と称される彼女の唯一の弱点といっていい。
そのことを知っているのは家族だけだ。
「これは言い訳のための準備だ」
「義姉さま……」
「出奔する気配がないか調べに行ったところでエリナから酒を勧められ、断り切れなかった私の不覚という筋道だよ」
そういってクローデットは酒を煽った。
エリナは自分を見逃すために汚名を被ることを選んだ義姉の配慮に感謝した。
荒い息を吐きながら笛を手に少年ミシェルは森の中を走った。
街道から外れた獣道、手入れもされていない下生えが彼の足をもつれさせる。
「うわっ!」
転がり、泥まみれになりながらも、ミシェルは即座に立ち上がり走り出す。
痛みに震えるのは後回しだ。
「お待ちください~」
背後から女性の声が響く。
宙を飛びながらミシェルを追いかけてくるのはメイド服姿の少女。
アイリと名乗り、ミシェルの保護を申し出てきた。
だが、今、彼はアイリの手を逃れようと懸命に走っている。
「待てと言われて、逃げる足を止める人はないでしょ」
小声でつぶやき、足を速める。
心臓が激しく脈動し、足は熱をもって重たくなる。
それでも足を止めるわけにはいかない。
「なぜ、逃げるのでございますか?」
背後から追いかけてくるアイリが、人魂を飛ばす。
これこそが、ミシェルが彼女のもとから逃げ出した一番の理由だ。
人魂や鬼火を駆使するアイリもまたこの世ならざる存在、死霊だったのだ。
「足止めを」
小声で人魂に命じ、アイリもまた少年を追う。
障害物が存在しない分、 空中を飛んでくる人魂のほうが遥かに早い。
「死霊に追いかけられたら逃げるにきまってるでしょ!」
「なぜですの? 理解に苦しみますわ」
空中を滑るように移動しながら、アイリがかわいらしく小首をかしげる。
「まずは話だけでも聞いていただけませんか?」
「そういって、拘束しようとしたじゃないかーっ」
ミシェルは叫んだ。
できるだけ大きな声で、誰かの耳に届けば助けが来るかもしれない。
「逃げようとするからですわ」
アイリは呆れたように言いつつ、人魂を操る。
「捕らえなさい」
少女の言葉を受け、森の中を先回りした人魂が少年の行く手を遮る。
物理的な攻撃力をもたない人魂だが、体力や気力、生命力を奪うことはできる。
人魂に触れられれば、逃走を続けることは困難になるだろう。
「これで詰みですわ」
「うわぁっ!」
反射的にミシェルは手にしていた笛を人魂に叩きつけた。
「無駄ですわ」
実体を持たない人魂に影響を与えられるのは祝福を受けた聖なる武器か、魔法で強化された道具だけだ。
だが……その行動は無駄ではなかった。
銀色の装飾が施された白亜の笛に触れた瞬間、人魂は光り輝く霧となって文字通り雲散霧消したのだ。
「そんな……いえ、そういうことですのね」
アイリは驚きながらも、何かを納得したようにつぶやいた。
「その力……間違いございませんわ」
ミシェルが手にした笛の入手。
それは彼女が主人から受けた命令の一つでもある。
「とはいえ、うかつに近づくのは危険ですわね」
アイリが足を止める。
人魂を消滅させる威力の笛、彼女にも不利な影響がないとも限らない。
なんらかの手段を講じる必要がある。
彼女が足を止めた隙を見逃すことなく、ミシェルは逃走を再開する。
森を抜け、陽光のもとに出れば死霊たちが追いかけてくることはできないはずだ。
「街へ、少しでも人の多いところへ行けば……」
ヴァンス伯爵領にほど近い自由都市同盟に所属する都市国家の一つシェルダンス。
伯爵領を出た者が必ず立ち寄る都市に、エリナも当然のように滞在していた。
彼女がこの地にやってきたのはただの移動ではない。
身内を相手に情報工作を行うという行為には、少々の躊躇いがあったものの、伯爵領を出る前にエリナは自身の腹心である侍女を使って伯爵がレイナ探索のために雇った密偵のリストを手に入れていたのだ。
「で、報告を聞かせて」
多くの人でにぎわう市場の片隅に広げられた屋台の軒先でエリナは、正面に座る褐色肌のエルフに声をかけた。
「その前に、あんたが本物だって証拠を見せて欲しいかな」
やや露出過多という出で立ちのエルフが足を軽く組む。
腰回りを保護しているのはまるで生きている銀色の蛇のような装飾物だけという異様な風体だ。
「疑り深いのね」
「報告は直接って言われている。変更があったとは聞かされていないんでね」
そう、彼女と接触するためにエリナは面倒な手順を踏んだ。
目の前にいるエルフはただの情報屋ではない。
報酬次第では単身で要人暗殺すらやってのける手練れ中の手練れ、本来ならば接触するだけでも難しい存在だ。
「一刻も早く連れ戻すために、お父様は私を名代として派遣なさったのよ」
そう言ってエリナは伯爵家の記章をかざした。
レイナに続いてエリナまで出奔したという情報は広まっていないはずだ。
「ふうん、本物のようだね」
「当たり前じゃない」
「ご令嬢自ら護衛もなしに情報の受け取りとは……」
「何よ?」
エリナは軽く口元をとがらせた。
「不用心にもほどがあるんじゃないかと思ってね」
「あら? 貴女が噂通りの人なら依頼主の娘が目の前で危険な目にあうのを見過ごすような真似はしないでしょ」
「どんな噂なんだか」
「あたしは貴女を信用して一人で会いに来たのよ。さあ、話してちょうだい」
「大した度胸だよ。まったく」
エルフは呆れたようにつぶやくと自分が知っているレイナの動向について語りだした。
「耳を澄ましな、雑音が入っても責任はもたないぜ」
周囲を行きかう人々の耳には届かない特殊な発声方法により、彼女の言葉はエリナ以外には届かない。
「伯爵令嬢レイナは美闘士として、いくつかの公式試合を済ませ、順調に勝利を重ねている。基本的に自分から仕掛けた戦いはない。ただその中には、屈強な美闘士として知られる荒野の義賊リスティも含まれている。リスティに勝利したことで、レイナの名は多くの美闘士に知られるようになった」
「さすがは姉様、凡百の美闘士ごときに負けるはずないわ」
「リスティに勝利したレイナは、伝説の秘境マラマクスを目指すと語ったそうだ。つまりマラマクスへの道筋を追えばレイナに接触できる機会は増えるだろうね」
「マラマクス? あれって……」
最強の美闘士が統べる伝説の秘境マラマクス。
もっとも知られている伝説によれば、都へと通じる門は、最強の美闘士にのみ開かれるという。
一説には、死後の美闘士がたどり着く究極の境地、天国に存在する都とも、また都を統べる魔神王が、美闘士のハーレムを築いているなんていう説もあるぐらい、真実の姿が判明していない幻の都だ。
「お姉さま……そんな、おとぎ話みたいな話を」
「おとぎ話じゃない。マラマクスは存在する」
ややあきれ顔になったエリナと対照的にエルフは真面目な口調で断言した。
「言い切るわね」
「お嬢ちゃんたちより長く生きてる分、物事をしっているからねぇ」
エルフはそう言うと席を立った。
「ちょ、ちょっと、情報ってこれだけなの?」
「くくく……、親元を勝手に離れたお嬢ちゃんに話せるのはここまで」
「な!」
絶句するエリナに向け、エルフは微笑みを浮かべると雑踏の中へと姿を消した。
「気に食わないわね」
あのエルフは最初からエリナの出奔を知っていたのだ。
「弄ばれた気分だわ」
相手の力量を認めつつ、エリナは顔をしかめた。
「ふう……」
城塞都市の門を潜り抜け、ミシェルはようやく安堵の息を吐いた。
人魂による追跡は森を抜けたところで止まった。
そこから先は、街道を行き来する馬車に乗り込んでここまでたどりつけた。
さすがの死霊も、街の中へと入ってくることは出来ないだろう。
「ここまで来れば、大丈夫かな」
確認するようにつぶやきながら、ミシェルは笛に手を伸ばした。
記憶にある限り自分が手にしていた唯一の品物。
感触を共有するがゆえに他者には、決して委ねることはできない。
アイリはこれを狙っていた。
何のために?
死霊である彼女にとって、この笛の効果は致命的といってもいいはずだ。
欲する理由が思いつかない。
「試合だ! 試合が始まるぜ」
「本当か! よし、賭けをしようぜ」
思案するミシェルのすぐ横を、大人たちが興奮気味に語りながら通り過ぎていく。
いまの時期、ある程度の規模以上の街ではクイーンズブレイドの公式試合が行われることは珍しいことではない。
美闘士同士の偶然の遭遇による公式試合は、人々の大きな娯楽となり大賑わいをみせている。
公式試合には、天使が姿を見せ審判を行うと言われている。
さすがの死霊も天使とは会いたくないだろう。
「少しは休めるといいな……」
行きかう人々の様子をうかがいながら街路を歩いていたミシェルの足がふと止まる。
雑踏の中、こちらを見つめる視線がある。
「まさか……」
メイド服姿の少女、彼を追いかけていた死霊アイリの姿がそこにあった。
「お待ちしておりましたわ」
恭しく一礼するアイリに背を向け、ミシェルは一目散に駆け出した。
捕まったら最後だ。
そんな危機感がある。
声にならない叫びを上げ、ミシェルは走った。
「あらあら、私、そんなに怖いのでしょうか? ちょっと傷つきますわ」
人混みの中を華麗かつ優雅に迫るアイリ。
唐突に始まった追いかけっこは、唐突に終わりを告げた。
逃げ続けた疲労からか、ミシェルの足がもつれ、倒れこむ。
「ひゃっ!」
だが、ミシェルが地面に転がることはなかった。
彼が感じたのは冷たい石畳の感触ではない、柔らかく心地よい匂いのする感触だった。
「な、なによ!? 一体!」
頭上から声が聞こえてくる。
「貴方ねえ、どこに顔をうずめてるのよ?」
慌てて顔を上げたミシェルの視界に広がるのは、柔らかそうな胸の谷間だった。
「ひゃ、ひゃあ、ご、ごめんなさい!」
慌てて立ち上がろうと伸ばした指先が柔らかいものをつかむ。
むにゅんとした弾力。
「あ!」
手の中に広がる気持ちの良い感触をミシェルは思わず確かめる。
むにゅむにゅ。
「こ、こらぁ!」
恥じらいを含んだ怒りの声がミシェルを現実に引き戻す。
自分がつかんでいたのは、押し倒してしまった相手の乳房だったのだ。
自らがしでかしてしまった破廉恥な行為にミシェルの顔が一気に赤くなる。
「え……いや……その……」
*
「支配する者の胸をもみしだくとは、いい度胸ね」
エリナは冷たい口調で自分を押し倒した少年を睨みつけた。
いくら考え事をしていたとはいえ、往来の真ん中で押し倒されるとは……。
なんという失態!
この場で、この少年を叱責して打ちのめしてもいいぐらいだ。
「ご、ごめんなさい」
「いいから、早く手をどかしなさい」
自分の胸から手を離そうとしない少年を強く睨みつける。
「ひゃっ、す、すみません、すみません」
詫びながら少年が飛び退く。
「まったくねえ……」
唇を尖らせ、エリナは少年に目を向ける。
(ふん、意外とカワイイ坊やじゃないの)
汗で張り付いた髪や、やや充血した瞳に疲労の色が見えるものの、顔だちは悪くない。
幼いころのレイナに似た利発そうな雰囲気がある。
(こういう弟が欲しいと思ったこともあったかもね)
エリナにとって見事なまでの許容範囲だった。
むしろ狙いすましたぐらいにツボと言ってもいい。
「やれやれ」
ゆっくりと上体を起こし、先に立ち上がった少年の姿をしっかりと観察する。
着ている衣服は汚れてはいるものの上物だ。
名のある貴族か、裕福な家の子供なのだろう。
目を引くのは腰にさげている笛。
透明感ある白い素材、磁器か石を丹念に磨き上げたものだろうか、もしくは動物の骨かもしれない、そんな感じの本体に銀のラインが丁寧に象眼さえている。
ぱっと見ただけも名工の作品だとわかる代物だ。
「ほら、手を貸しなさい」
エリナは腰を下ろしたまま、手をまっすぐに伸ばした。
「え?」
「え、じゃないわよ」
戸惑う少年に向けて、優しい口調でエリナは話しかけた。
「貴方は自分で押し倒した女性に手を差し伸べることもできない無作法者なのかしら?」
「す、すみません。ぼく、ちょっと慌てていて」
「それは理由にならないわね」
差し伸べてきた少年の手を取り、エリナはゆっくりと立ち上がった。
ふわりと優雅に、少年にはまったく負担を感じさせない動きだ。
「でも、これで許してあげるわ」
少年の腰に下げていた笛にエリナが手を伸ばす。
「あ!」
「良い物をもってるのね」
エリナは素早く笛を取り上げると、しなやかな指先でそうっと撫でた。
「ひゃうううう、だ、だめぇ、それはダメだよぉ!」
少年が身体をびくんと震わせるが、エリナの視線は笛に注がれていて気付かない。
「懐かしいわね。よく吹いたものよ」
笛にエリナの赤い唇があたる。
ふうっと息を吹き込んでみるものの、音が鳴る気配は無い。
「あら?」
「お、おねえさん……そ、それ……返してぇ……」
頬を紅潮させ、身体を震わせた少年がエリナの手をつかむ。
「ど、どうしたの? 体の調子でも悪いわけ?」
思わずエリナは笛を強く握りしめた。
「あうっ」
少年が身体をびくっとのけぞらせる。
その様子に、勘の良いエリナはあることを察した。
握っていた笛に、もう一度唇を付け、今度は少し荒々しく息を吹き入れる。
声にならない声を上げ、少年は膝を震わせて座り込んだ。
間違いない。
この笛に与えられた刺激が少年に伝わっている。
と同時に、自身の気分も変わっている。
情報屋のエルフにしてやられて、少々腐り気味だった気分が前向きになっている。
「早く……返して! 追いつかれちゃう」
「貴方、追われているの?」
エリナの問いに少年が震えながらうなづく。
往来の向こう側から、ひんやりとした冷気が漂ってくる。
俗にいう嫌な気配というやつだ。
「あれが貴方を追いかけている者かしら?」
冷気を漂わせ、メイド服姿の少女がゆっくりと近寄ってくる。
「やっと追いつきましたわよ」
礼儀正しい口調の裏側にある威圧感にあてられたのか、少年がエリナの影に隠れる。
「その笛は正当なる所有者のもの、貴女が手にしてよいものではありません」
「正統なる所有者?」
「そうですわ、その少年、ミシェル・リヴァランシエル様と魔笛カテドラルはわが主のもの」
優雅な口調で告げながら、メイド服の少女は一振りの鎌を手にした。
「抵抗なさるなら、痛い思いをすることになりますわ」
ミシェルを背にエリナはメイド服の少女と対峙する形となった。
お互いに武器を持つ女性同士が向き合う事態に、クイーンズブレイドの発生を予感した人々が集まり始める。街角や辻で突発的にはじまる公式試合は、一般庶民にとって無料で楽しめる娯楽なのだ。
「ぼ、ぼくは誰のものでもないぞ」
「この子は、貴女から逃げているのよね」
エリナが問う。
「貴女の主とやらも、この子には所有者として認められていないわけね」
逃亡した理由は後で聞けばいい。
ミシェルと別れるのは、自分を押し倒したことの詫びをさせてからだ。
「それは貴女には関係のないことでは?」
ひゅんと鎌を回転させて、メイド姿の少女が間合いを近づけてくる。
「逃げる者、弱き者を守るのは、支配する者の務め」
槍を手にエリナはメイド姿の少女に向けて宣言した。
「お、お姉さん……」
「貴方に問うわ」
エリナは背後のミシェルに尋ねる。
「助けてほしいの? どうなの?」
エリナの問いに、ミシェルは小さく助けてとつぶやいた。
「最初から、そう言えばいいのよ」
「敵対関係となりましたわね。残念ですわ」
メイド姿の少女は鎌を大きく構え目を閉じた。
「我が名は、冥途に誘うものアイリ」
アイリの正面にクイーンズブレイドの紋章が展開する。
「公式試合、受けていただきますわ」
美闘士同士の戦いの始まりに、周囲に集まってきた民衆の期待が高まる。
だが、アイリの正面に立つエリナの前には紋章が浮かんでいない。
「残念ね」
エリナは口元に笑みを浮かべ、槍の石突を近くの軒下へと向けた。
「私は美闘士じゃないから、それに従うつもりはないわ」
そう言ってエリナは少年を小脇に抱えると槍の握りを軽く回した。
ぷしゅっと空気が噴き出す音を立て、石突が鋼線を伴い射出される。
「なにを?」
「ごきげんよう。アイリ」
呆気にとられたアイリと民衆の前で、エリナとミシェルは空中へと舞い上がった。
「ひゃああああっ!」
予期せぬ縦方向への移動にミシェルが悲鳴をあげる。
街全体が見渡せるほど高く二人は飛び上がった。
「クローデット義姉様の仕込み、役に立ったわね」
特製の槍に仕込まれていた捕縛用鋼線の巻き取り能力を利用し、戦場からの離脱に成功したエリナはミシェルを小脇に抱えたまま着地点を探す。
頑丈そうな屋根で無ければ二人の体重を支え切れない。
自由落下のわずかな時間で、エリナは着地点を見極め、屋根の上に降り立った。
「お待ちくださいッ」
階下から聞こえるアイリの叫びを無視し、エリナはミシェルの手を引いて屋根の上を駆け抜ける。
「逃げるわよ」
ここなら障害物になるような通行人はいない。
「お待ちくださいッ」
戦場を離脱したエリナに向けてアイリが叫ぶ。
即座に追おうにも、公式試合を目当てに集まっていた民衆が邪魔で身動きが取れない。
「くうううううっ」
してやられたくやしさにアイリは唇を噛んだ。
死霊に影響を与える魔笛を防ぐためにアイリが案じた策。
それは、ミシェルを美闘士に保護させ、その美闘士と公式試合を行い、勝者の権利である願いを利用してミシェルから魔笛を取り上げるというものであった。
美闘士に保護させるという策は成功したかに見えたのだが……。
最大の誤算は、ミシェルを保護したのが美闘士ではなかったということだ。
「しかるべき報いをうけさせてやらなければなりませんね」
暗い炎を感じさせる瞳でアイリは二人が逃げ去った方向を睨みつけた。
*
屋根の上をエリナは人気の多い方向を目指して飛ぶように駆け抜けた。
「お、お姉さん、ま……待ってぇ……」
不安定な足場の上を引きずられる恰好になったミシェルが息も絶え絶えに訴えてくる。
「ダメよ。もう少し、我慢しなさい。男の子でしょ」
あの手合いは執念深い。
距離を稼がないとすぐに追いついてくる。
気配を消すには、人気の多い場所へ行かなくては……。
エリナの視線がある一か所に止まる。
「あそこにしましょうか」
光り輝きながら空中に消えていくクイーンズブレイドの紋章。
公式試合が行われている場所ならば、天使がいるはず。
死霊もおいそれと手出しはしてこないだろう。
「行くわよ」
ワイヤ―を巧みに使い、エリナはミシェルを抱え再び宙を舞った。
早い。
あっという間に景色は背後へと追いやられ、新たな視界が広がっていく。
地上の雑踏に影響されることなく、二人は公式試合が行われている広場を見下ろす場所へと着地した。
「これで、大丈夫だといいけど」
「も、もうついていくので精一杯だよぉ」
肩で息を継ぎながら、ミシェルがぐったりと屋根に腰を下ろす。
「しばらくは休憩できそうね」
あたりを見渡してアイリの姿が見えないことを確認し、エリナは武器を仕舞った。
「そ、そう……よかった」
ミシェルが安堵の息を吐く。
眼下で戦う美闘士は実に対照的な組み合わせだった。
肉感的な肢体を誇示し、金属で補強された聖典を武器とする女性と、細身のハーフエルフの美少女。事前に入手した情報によれば、女性の方は光輝の聖女メルファ、対するのは森の番人ノワ。
手にした戦杖を使い、やや変則的な間合いで戦うノワに対し、メルファは完全に受け身に回っている。
「つまらない試合ね」
「そうなの?」
「メルファに起死回生の策でもあれば別だけど、このままノワの攻撃を受け続けていれば……結果がどうなるか、わかるわよね?」
「メルファの負け?」
「そういうこと」
「でも、起死回生の策があったら?」
「それは戦ってみなければわからないわ」
エリナがつぶやいた瞬間、眼下の民衆が一斉にざわめきの声を上げた。
「聖なるポーズだ!」
民衆の声に誘われ、視線を聖女に向ける。
「な!」
エリナは思わず絶句した。
メルファがスカートのすそを上げ、下着もあらわなポーズを取ったのだ。
なんという破廉恥な……エリナがそう思った瞬間、奇跡が起きた。
メルファの姿を見つめていた民衆とノワが硬直している。
「聖なるポーズ、束縛っ……!」
ノワに向け宣言し、メルファが聖典のページを開く。
「悔い改めてください!」
メルファの言葉と同時に硬直していた民衆が一斉に膝をつく。
奇蹟の秘儀を目の当たりにし、エリナは思わず喉をならした。
相手の行動を制限するこの技があれば、メルファが勝機をつかむのは難しいことではないだろう。
だが、ノワは屈しなかった。
ロッドを使い、石畳をたたくや反動で大きく飛び上がる。
「ノワは反省することなんてないよ!」
空中で回転、威力を増したロッドがメルファに迫る。
「加護を!」
光り輝く聖典でメルファがロッドを受け止め、弾き返す。
この試合、意外にも互角の勝負となりそうだ。
「ところで……」
試合から目を離し、エリナは傍らのミシェルに尋ねた。
「貴方、名前は?」
先ほどのアイリとのやりとりで名前は聞いていたが、礼儀として自分から名乗らせることが大事だ。
「ミシェル・リヴァランシエル……ミシェルと呼んでください」
「で、何者なわけ?」
「ごめんなさい。名前ぐらいしか覚えてないんです」
ミシェルは困ったように答えた。
それが自分の名前だという認識はある。
「私の名前はエリナ」
「エリナ……」
「呼び捨てはダメ。エリナ様と呼びなさい」
「はい、エリナ様」
「それでいいわ……いろいろ貴方には聞きたいことがあるのよ」
真面目な表情でエリナはミシェルを見つめた。
なりゆきで助けることになったとはいえ、はっきりとさせておきたいことがある。
「は、はい」
「あたしに言わないといけないことがあるはずよね」
「助けてくれてありがとう」
「よろしい。でもそれは当然のことだし、礼を求めているわけじゃないわ」
「えっと……」
エリナは頬をわずかに染め、自分の胸を指さした。
「あ……」
自分の手のひらに伝わった感触を思い出したのか、ミシェルも顔を赤くする。
「えっと……柔らかかった。大きさもちょうどよくて」
「そうじゃない!」
エリナは声を荒げた。
そんなボケは期待していない。
大きさや形には自信がある。
わざわざ言われなくてもよい。
「女性を押し倒して、あまつさえ……揉むなんて……ちょっとひどくない?」
一応、あの場でミシェルは謝罪を口にはしていたのだが、あれだけではエリナの気がおさまらない。
「も、申し訳ありません」
エリナの態度にミシェルは思わず土下座をした。
「許してください。事故だったんです」
悪気がないのはわかっている。
事故といえば、事故だ。
いきなり胸をもまれて恥ずかしかったことに違いはない。
とはいえ……。
あまり頑なになるのも、支配する者としての度量に欠けるというものだろう。
「許してあげる」
エリナの言葉にミシェルが顔を上げる。
「で、どうしてアイリに追われていたわけ?」
「身に覚えがないんです。気が付いたら、追いかけられていて……名前は思い出せたけど他のことは、なんだか霞か雲で覆われてるみたいにぼんやりしていて……」
「記憶喪失ってやつかしらね」
そう言いながら、エリナは先ほどから預かったままだった笛を手にした。
「ひゃう……」
「何、変な声あげてんのよ」
「そ、それ大切に扱ってくださいよぉ。大事な笛なんです」
「大事な笛ねぇ」
エリナは笛の表面を爪先で、つうっとなぞった。
「ひあっ! だから……や、やめて……」
ミシェルが内股になってへたり込む。
「高価な品物だって言うのはわかるけど、こんな音の出ない笛、価値がないでしょう」
音の出ない楽器など、切れない刃物と同じ、無用の品物にすぎない。
「工芸品としては評価できるかもしれないけど」
象眼された銀のラインにそっと指を這わし、人差し指を親指で輪を作る。
「あ……」
その輪をゆっくりと動かして笛をなぞり、往き来させる。
槍を突き出すときと同じ要領、俗にいうしごくという動作だ。
「ん、それ……、だめ……」
へたり込んだミシェルが声を漏らすのと同時に、笛の形が変化する。
「なに? これ……形が……」
新たに黄金のラインが浮かび、より大きく力強い形になっている。
「その笛はカテドラル……僕の身体であると同時に聖地マラマクスの門を開く鍵」
息をとぎらせながら語ったミシェルの言葉に、エリナの目が大きく開く。
「マラマクス」
思わぬところでレイナの行方とつながったものだ。
本当にこの笛がマラマクスの鍵ならば、ミシェルを保護したこの流れは天啓と言ってもいいかもしれない。
「カテドラルが音色を刻むのは、マラマクスに向けた時だけ」
ミシェルの言葉を確かめるようにエリナは両手で笛を構え、息を吹きかけた。
「あう……や、やさしく吹いて……」
僕の身体と言うだけあって、なんらかの魔法的作用が働いているのか、笛に与えられる感触がミシェルに伝わっているようだ。
笛を吹きながらくるりと一周してみると、たしかに一定の方角を向いた時だけ、微かに音が鳴っていることが確認できた。
と同時に、鋼線をつかった無茶な移動で疲労していた筋肉の疲れが消えていくのが感じられる。
「これは……やばいわね」
「ええ……や、やばい……です」
頬を上気させ、ミシェルはエリナを見上げ……目をそらした。
下半身を隠すようにしてへたり込んだミシェルの位置からだと、エリナの下着がはっきりと見えてしまうのだ。
ただでさえカテドラルを介して刺激されている身体に、その景色はダメ押しすぎる。
「貴方、何者なの?」
「ぼくにもわかりません……ただ、頭の中で声がするんです。強い美闘士と共にマラマクスへ行けって」
「ふーん」
エリナはちょっとだけ拗ねたように唇を尖らせた。
自分は美闘士ではない。
先ほどまではミシェルを保護したことを天啓のように感じていたのだが、条件に自分が合致しないとなれば、話は別だ。
レイナの目的地であるマラマクスの鍵は必要なのだが……。
エリナは眼下で続く戦いから目を離した。
他人の戦いの結果には興味はない。
考えをまとめられる場所が必要だ。
「おあつらえ向きなのがあるわね」
エリナの視線が少し先で煙突から煙を上げている建物をとらえる。
上がっているのはただの煙ではない。
湯煙だ。
「ちょっと整理しましょうか」
笛の効能か、疲労は完全に回復しているものの、汗の匂いが気になってきた。
「整理?」
「昔から、良いアイデアが浮かぶのはベッドの中か、お風呂の中って決まっているものなのよ」
次回に続く
世界中の美闘士たちが集う、四年に一度の命懸けの闘技会、クイーンズブレイド
この大陸では初代女王が始めた伝統に従い、最も強い女性がすべてを支配する。
天使の立会いの下におこなわれる公式試合での勝者となった者は、敗者にどんな命令でも下すことができるのだ。
自慢の武器を奪うもよし、奴隷として仕えさせるもよし、そして現女王を倒しその座を奪う事すら許される!
辺境貴族の娘エリナは、すべてを捨てて美闘士となり出奔した愛する姉レイナを追って、自らも旅立つのであった。
Text By 沖田栄次